第二十八話 盗難騒ぎ
コソ泥の足音が寝室の障子の前でぴたりと止まった。
俺は息を殺して「次は何をするんだ」と全神経を集中させる。
あとで思えば、ネズミを捕まえる時もこんな気分になれば楽勝なんだろうな。
魂が両目から飛び出しそうな勢いで、まるで悟りでも開いたような境地に達していた。
コソ泥のおかげで一生に一度の境地を味わえたってわけだ。
たちまち障子の桟の三つ目が、雨に濡れたみたいに真ん中だけ色を変えた。
そこに薄紅色のものがじわじわ濃く写ってきたと思ったら、紙が破れて赤い舌がぺろりと覗いた。
舌はすぐに暗闇に消え、代わりに恐ろしく光るものが一つ、破れた穴の向こうに現れた。
疑いようもなくコソ泥の眼だ。
妙なことに、その眼は部屋の中の何物も見ず、ただ衣装箱の後ろに隠れていた俺だけをじっと見つめているように感じられた。
ほんの一分にも満たない間だったが、睨まれていると寿命が縮むんじゃないかと思うほどの迫力だ。
もう我慢できん、と決心して衣装箱の影から飛び出そうとした瞬間──寝室の障子がスーッと開き、待ち構えていたコソ泥がついに俺の眼前に姿を現した。
なんとそれは俺の親愛なる好男子・水島寒月君のドッペルゲンガー。
コソ泥は小脇に何か抱えている。
よく見ると、さっきボスが書斎へ放り込んだ古毛布だ。
コソ泥は片足を畳の上へ踏み入れようとしている。
ボスは赤い本に指を噛まれる夢を見ていたらしく、この時寝返りを打ちながら「寒月だ」と大声を上げた。
コソ泥は毛布を落とし、出した足を慌てて引っ込める。
ボスは「うーん、むにゃむにゃ」と寝言を言いながら赤本を突き飛ばし、ケツをボリボリと掻いて、そのまま静かに眠り込んでしまった。
寒月だと言ったのは、完全に寝言だったらしい。
コソ泥はしばらく縁側に立ったまま室内の様子をうかがっていたが、ボス夫婦が熟睡しているのを確認すると、再び片足を畳に入れる。
今度は「寒月だ」という声も聞こえない。やがて残る片足も踏み込む。
コソ泥は奥さんの寝顔を覗き込み、なぜかニヤニヤと笑った。
どういうわけだかドッペルゲンガーの前歯が欠けていない。
やはり寒月本人ではないということか。
奥さんの枕元には木箱が置いてある。
中身は先日、多々良三平君が帰省した時に持ってきた山芋だ。
山芋を枕元に飾って寝るなんて珍しい話だが、この奥さん、業務用大型冷凍庫にお金を保管してカチカチにしかねないような女だから寝室にあっても不思議はない。
だがコソ泥はそんな事情を知るはずもない。
これほど大事そうに肌身近く置いてある以上、貴重な品だと勘違いするのも無理はない。
コソ泥は箱を少し持ち上げてみて、その重さが予想通りだったので満足げな様子を見せた。
……うかつな奴め。中身くらい確かめろよ。
コソ泥が山芋を盗むなんて、急におかしくて笑いそうになった。
だが声を立てるのは危険だから、俺は必死にこらえていた。
やがてコソ泥は山芋の箱を、まるで宝物でも扱うみたいに古毛布で丁寧にくるみ始める。
何か縛るものはないかと辺りを見回すと──おあつらえ向きにボスが寝る時に脱ぎ捨てた帯がある。
コソ泥はそれで箱をしっかり括り、背中に背負った。
うーん、どう見ても夜逃げスタイルで格好悪い。
さらに小供服を二枚、ボスのメリヤスのモモヒキに押し込むと、それをグルグル首に巻きつけた。
次はどうするかと思えば、ボスの上着を大風呂敷みたいに広げて、奥さんとボスの服、その他雑多な物をきれいに畳んで包み込む。
その手際の良さと器用さには、ちょっと感心してしまった。
さらに奥さんの帯の装飾品を繋ぎ合わせて包みを縛り、片手にぶら下げる。
まだ何か頂戴できるものはないかと見回していたが、ボスの頭の先にタバコを見つけると、一本取り出してランプにかざし、火を点けて旨そうにプハーと一服。
その煙がまだ消えぬうちにコソ泥の足音は縁側から次第に遠ざかっていった。
ボス夫婦は依然としてぐっすり眠ったまま。
人間って案外うかつなものだ。
俺もまた少し休養が必要だ。しゃべり続けていては身体がもたない。
ぐっすり寝込んで目を覚ました時には、3月の空が朗らかに晴れ渡り、勝手口でボス夫婦が巡査と談笑しているところだった。




