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第二十六話 交渉

「君、考えてみれば分かるだろ。あれだけの財産と器量があれば、どこへだって相応の家にやれる。寒月だって偉いかもしれんが、財産の点から見れば釣り合わん。両親が気を揉んで僕を出張させるくらいだから、本人が寒月君に好意があるってことじゃないか」

鈴木はうまい理屈を並べる。ボスも今度は納得したらしく、少し安心した顔を見せる。

「それでね、先方の言い分はこうだ。金や財産はいらんから肩書が欲しい。博士になったら嫁にやってもいい――そういうことなんだ。水島君が博士になれば世間に対して肩身が広い、面目も立つ。どうだろう、水島君は近いうちに博士論文を出して学位を取る見込みはないか?」

……なるほど、博士号を条件にするのも無理ではないように思えてくる。ボスは単純で正直だから、鈴木の言葉に動かされてるぞ。

「それじゃ、今度寒月が来たら博士論文を書くように勧めてみよう。その前に本人が金田の娘をもらうつもりかどうか、聞いてみなくちゃならん」

「そんなことをしては駄目だ。普通の談話の中でそれとなく探る方がいい」

「君にはそれで分かるかもしれんが、僕はハッキリ聞かんと分からん」

「分からなければそれでいい。ただ迷亭君みたいに余計なチャチャを入れて壊すのは良くない。本人の好きにすべきことだからね。今度寒月君が来たら、なるべく邪魔をしないでくれ。――いや、君のことじゃない。迷亭君のことさ。あの男の口にかかると助かるものも助からない」

そう金縁メガネの悪口を言ったところで――噂をすれば影。

例のごとく金縁メガネが勝手口からフラフラと春風に乗って舞い込んできた。

「いやー珍しい客だね。僕みたいな常連になると適当な扱いだからね。十年に一度くらい来るのがちょうどいい。この菓子はいつもより上等じゃないか」

そう言って卓に出されていた羊羹をパクっと頬張る。

鈴木はモジモジ、ボスはニヤニヤ、金縁は口をモガモガ。

……無言劇って成立するんだな。

「君は一生旅烏かと思ってたら、いつの間にか舞い戻ったね。長生きはしたいもんだ。どんな幸運に巡り合うか分からんからな」

金縁メガネは鈴木に対してもボスに対しても、遠慮というものを知らない。

十年ぶりの再会なら普通は多少気を使うものだが、金縁にはそんな素振りは一切ない。

偉人なのか馬鹿なのか、判別不能だ。

「今日は吉報を持ってきたぞ。寒月が博士論文を書き始めたのを知ってるか? あんな妙に見識張った男だから博士論文なんてものは書かんと思ったが、やっぱり色気があるんだ。君、あの鼻に知らせてやるといい。今頃はドングリ博士の夢でも見てるかもしれんぞ」

鈴木は寒月の名を聞いて「話すな、話すな」と顎と目でボスに合図する。だが主人には通じない。

しかし寒月が博士論文を書き始めたのは何よりの土産だ。こればかりは迷亭の言う通りの吉報である。

金田の娘をもらうかどうかはどうでもいい。

とにかく寒月が博士になるのは「結構毛だらけ猫灰だらけ」だ。

「本当に論文を書き始めたのか?」

ボスは鈴木の合図を無視して熱心に聞く。

「俺の言葉を疑うのかい。もっとも問題はドングリだか首吊りの力学だか分からんがね。とにかく寒月のことだから鼻が恐縮するようなものを書いているに違いない」

金縁が「鼻々」と無遠慮に言うたびに鈴木は不安そうにする。だが金縁は少しも気づかず平気だ。

「あの娘は寒月のところへ来たいそうだ」

ボスが鈴木から聞いた通りを述べる。

鈴木は「それは困る」と言いたげに必死で目配せするが、ボスは不導体のように電気を通さず、まるで気づかない。

「ちょっとオツだな。あんな者の子でも恋をするとは。しかし大した恋じゃあるまい。大方“鼻恋”くらいなもんだ」

「鼻恋でも寒月がもらえばいい」

「もらえばいいって、君は先日大反対だったじゃないか。今日は妙に日和ってるぜ」

「日和ってはせん。決して日和ってはせん。しかし……」

「しかしどうしたんだ。ねえ鈴木、君も実業家の末席を汚す一人だから参考までに言うがね。あの金田某の娘を天下の秀才・水島寒月の令夫人と崇め奉るのは、提灯と釣鐘みたいなもんだ。我々朋友が黙って見過ごすわけにはいかん。実業家の君でも異存はあるまい」

「相変わらず元気だね。結構だ。君は十年前と少しも変っていない。えらい」

鈴木は何とか誤魔化そうとする。

鈴木は利口者である。余計な抵抗は避けられるだけ避けるのが現代流。無用な口論は封建時代の遺物だと心得ている。

「相変わらず無邪気で愉快だ。十年ぶりに君らに会って、窮屈な路地から広い野原へ出たような気持ちがする。今日は図らずも迷亭君に会えて愉快だった。僕は用事があるからこれで失敬する」

鈴木が立ち上がると、金縁も「僕も行こう。これから日本橋の演芸矯風会に行かなくちゃならん。そこまで一緒に行こう」

「そりゃちょうどいい。久しぶりに散歩しよう」

こうして両君は手を携えて帰っていった。

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