第十九話 決心
俺は今まで向こう横丁に足を踏み入れたことがない。角屋敷の金田? どんな家かも知らんし、聞いたのも今日が初めて。
ボスの家で「実業家」なんて話題が出たことは一度もないから、俺も当然その方面には詳しくない。
ところが先刻、ハナ子が訪ねてきて、その談話を聞いてしまった。
令嬢の艶やかさ、富と権力を想像すると――猫ながら縁側でゴロゴロしてる場合じゃない。
寒月君が気の毒だ。
博士の奥さんや車屋のおかみさん、琴の師匠まで買収されて、前歯の欠けたことまで探られてるのに、寒月君はニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしてる。
卒業したての理学士とはいえ、能なさすぎ。
しかも相手は「巨大な鼻」を顔に装備したモビルアーマー。ラスボス級。普通の男じゃ寄り付けない。
ボスは無頓着で金もない。
金縁メガネの迷亭は金はあるが、子供じみた男なので、寒月を助ける気など毛頭ない。
結局、気の毒なのは首吊り力学を演説する寒月先生だけだ。
俺が敵城へ乗り込んで偵察してやらなきゃ、不公平ってもんだろ。
俺は猫だけど、”エピクテタス”を読んで机に叩きつけるくらいの学者の家に住んでる猫だ。世間の痴猫・愚猫とは一線を画す。
義侠心くらい尻尾の先程度は持ち合わせている。
別に寒月君に恩があるわけじゃない。
これは個人のためじゃなく、正義と公平のためのガチ神ムーブなのだ。
金持ちが近所の家に犬を忍ばせてフェイクニュースを量産するなら、猫だって覚悟を決める。
天気もいい。霜解け道はちょっと面倒だが、ニャンコ道のためなら命も捨てる。
足裏に泥がついて縁側に梅の花の印を押すくらい、お手伝いさんには迷惑でも”そんなの関係ねえ”。
すぐに出かけようと大決心して台所まで飛び出した――が、「待てよ」と考えた。
俺は猫として究極進化形、脳力は中学三年生に劣らないつもり。
だが悲しいかな、喉の構造だけは猫。人間の言語はしゃべれない。
金田邸に忍び込んで敵情を見届けても、寒月君に伝えられない。
ボスにも金縁メガネにも話せない。
話せないなら、せっかくの知識もダイヤモンドが土中で光らないのと同じ。無用の長物。愚だ。やめるべきか――と玄関で立ち尽くす。
でも、一度思い立ったことを途中でやめるのは、ヨットで太平洋を単独横断中、体中に石鹸を塗りたくってスコールを待ってたら、すぐ横を通り過ぎていったようで悔しい。
正義のため、ニャンコ道のためなら、無駄死にでも進むのが猫の本懐。
無駄骨を折り、無駄足で床を汚すくらいは猫として真っ当至極。
猫に生まれた因果で、寒月や金縁、ボスと思想を交換する技量はないが、スニークスキルは猫の方が上。
他人の出来ぬことを成し遂げるのは、それ自体面白いし、猫一匹でも金田の内幕を知るのは、誰も知らないよりは面白い。
人にチクれなくても「俺は知っている」という自覚を持つだけで面白い。
面白三連発なら、もう行かずにはいられない。
だから行くことに決めた。




