第十二話 越智東風という男
帰りに例の茶園を抜けようと、霜柱の溶けかかった地面を踏みながら生垣の崩れから顔を出すと、またクロが枯れた菊の上で背中を山のようにして大あくびしていた。
近頃はクロを見ても恐くはないが、話しかけられるとウザい。知らん顔してスルーしよう。
しかしクロは他人に無視されたと感じると絶対黙っていない猫だった。
「おい、名なしの権兵衛。近頃ずいぶんすましてるじゃないか。鼻持ちならねえ面しやがって。挨拶もできないのか」
クロは俺がバズってるのをまだ知らないらしい。
いちいち説明しても分からない奴だから、挨拶だけして早く切り上げようと決めた。
「いやクロ君、あけましておめでとう。あい変わらず元気だね」と尻尾を立てて左へくるり。
クロは尻尾を立てただけで挨拶もしない。
「何がめでたいんだ? 正月がおめでたけりゃ、お前は年中おめでたい奴だろう。気をつけろ、このトンチキめ!」
罵詈雑言らしいが、俺には意味が分からない。
「トンチキってどういう意味?」
「へん、悪態つかれてるのに訳を聞くか。だから年中お正月野郎だってことだ」
正月野郎――詩的だが意味はさらに分からん。どうせ聞いても答えは得られないだろうから、黙っていた。
すると突然、クロの家のおかみさんが大声を張り上げた。
「あれ、棚に上げておいた鮭がない! またクロが取ったんだな。ほんとに憎らしい猫だわ。帰ってきたらどうするか見てなさい!」
初春ののんびりとした空気を震わせる怒鳴り声。
クロは「これを見ろ」とばかりにクイッと顎を突き出し指し示す。
足元を見ると、泥だらけの鮭の骨が転がっていた。
黙っていればいいのに「あいわらずやってるね」と、つい口が滑ってしまった。
クロは機嫌を直さない。
「何がやってるだ、この野郎。鮭の一切れや二切れで、あいかわらずとは何だ。俺をみくびるな。俺は車屋のクロだぞ!」
右前足を肩まで掻き上げ、腕まくりの代わりに威嚇。
「君がクロ君だということは、初めから知ってるよ」
「知ってるのに相変わらずとは何だ!」
怒鳴り声を上げる口からツバを飛ばされ、人間なら胸ぐらを掴まれて2,3発腹パンを喰らうところだ。
これってヤバくね?
そこへ再びおかみさんの大声。
「ちょっと西川さん! 牛肉600g、すぐ持って来て! 堅くないところだよ!」
正月早々で居もしない肉屋への牛肉注文の声が周りの静けさを破る。
クロは嘲笑いながら四つ足を踏ん張った。
「フン! 年に一度牛肉を注文できると思って大声出しやがる。牛肉が近所への自慢なんだから始末に負えねえぜ」
俺は返答のしようもなく黙って見ていた。
クロは「600gくらいじゃ足りないが、届いたら直ぐに食ってやろう」と自分のために注文したかのように言う。
「今度は本当の御馳走だ。いいなあ」と俺はさっさとお引き取り願おうとする。
「お前の知ったことじゃねえ。うるせえぞ!」
そう言うや、クロは後足で霜柱を俺の頭にバッと浴びせかけ、俺が泥を払っている間に、クロは垣根を潜って姿を消した。
たぶん牛肉を次のターゲットにしたんだろうな。でも罠の匂いがプンプンするぞ。
*
家に帰ると、座敷の中がいつになく春めいて、ボスの笑い声まで陽気に響いていた。
「何だろう」と思いながら縁側から上がってみると、見慣れぬ客が来ている。
髪をきれいに分け、木綿の紋付羽織に袴を着た、至極真面目そうな書生風の男。
ボスの煙草入れの隣には名刺が置いてある。
――「越智東風君を紹介します 水島寒月」
なるほど、この客は寒月の友人らしい。
東風君は茶をぐっと飲み干すと、急に改まった。
「実は今日参りましたのは、少々先生にお願いがあって」
「はあ、どんな御用で」とボスもすまし顔。
「私は文学が好きなものですから……」
「それは結構ですね」とボスは油を注す。
東風君は続ける。
「仲間内で朗読会を作りまして、毎月一回会合して研究を続けたいと思っております。第一回は去年の暮に開きました」
「朗読会というと、詩歌や文章を節をつけて読むのかな?」
「まあ初めは古人の作から始めて、追々同人モノの創作もやるつもりです」
「で、何をやったの?」
「近松の心中物を」
「浄瑠璃の近松?」
……馬鹿じゃね?近松といえば戯曲家の近松に決まってるだろ。
マイケルといえば、あのマイケルであるのと同じだ。
まあ世の中には、やぶ睨みの人に惚れられたと思い込む人間もいるんだから、この程度の勘違いは別に驚くことでもないか。
ボスは何も分からず俺の頭を丁寧に撫でている。
俺は黙って撫でられるまま。
「それじゃ役割を決めて掛け合いでやるのか?」
「ええ、なるべく人物に共感を持って性格を写すのを第一に演技します。セリフはその時代の人に合わせて」
「じゃ芝居みたいなものだな」
「衣装と場面表がないくらいです」
「うまく行ったの?」
「第一回としては成功した方だと思います」
「その場面というと?」
「船頭が客を乗せて吉原へ行くところです」
「大変な場面をやったね」とボスは首を傾ける。
「いえ、登場人物は客と船頭と花魁と仲居と遣手と見番だけですから」と東風君は平気な顔。
ボスは「花魁」という言葉に苦い顔をしたが、仲居や遣手、見番の意味が分からず質問を始めた。
「仲居というのは花魁の付き人?」
「まだ研究不足ですが、仲居は茶屋のお手伝いで、遣手は女郎部屋の助役のようなものだと思います」
……さっき「人物の性格を写す」と言ったくせに、遣手や仲居が何かも解ってないの?
ボスは質問を続ける。
「なるほど仲居は茶屋に勤めて、遣手は娼家で寝起きする者か。見番というのは人間?それとも場所?」
「人間の男だと思います」
「何をしているんだ?」
「そこまではまだ調べていません。そのうち調べます」
これで朗読をやった日には、さぞやズレてるものになるだろうと、俺はボスの顔を見上げた。
ボスは意外にマジな顔。
「朗読会には誰が加わったの?」
「いろいろいました。花魁が法学士のK君で、口ヒゲを生やして女の甘ったるい台詞を使うのですからキモかったです。それに花魁がヒステリーを起こす場面があって……」
「朗読でもキレなきゃいけないのか」とボスは心配そう。
「ええ、キレが大事ですから」
……って、ビールじゃないんだから。
「うまくキレた?」
「さすがに第一回目には無理でした」
……だろうね。口ヒゲ生やした男が衆人環視の下でヒステリーを起こしてたら通報案件だ。
「ところで君は何の役?」
「船頭です」
「へえ、君が船頭」
ボスは「君に船頭が務まるなら僕にも見番くらいはやれる」と言いたげ。
見番が何なのかも分からないくせに……
ボスは「上手くできた?」と遠慮なく聞く。
東風君は落ち着いて答える。
「その船頭の場面で朗読会が終わってしまいました。実は会場の隣に女学生が四、五人下宿していて、朗読会があると聞きつけて窓下へ来て傍聴していたんです。私が船頭役を得意になってやっていると、身振りが大袈裟だったのでしょうか、女学生が一度にわっと笑い出したんです。びっくりしたし、恰好が悪いし、それでやる気が失せて、終わりになりました。」
……これが「成功」だっていうんだから、失敗がどんなものか想像しただけで草生えるwwwww。
思わず喉仏がゴロゴロ鳴る。
するとボスは、いよいよ柔らかに俺の頭を撫でてくれる。
人をザコ扱いする俺を可愛がってくれるのはありがたいけど、これでいいのかね。
「それはとんだことで……」とボスは正月早々、葬式の弔辞めいたことを言う。
東風君は改まって、「次からはもっと盛大にやるつもりで、今日伺ったのもそのためです。先生にもぜひ御入会の上、御協力を」と切り出した。
「僕にはとてもヒステリーなんか起せませんよ」とボスはすぐに腰を引く。
「いえ、ヒステリーなど起していただかなくても結構です。ここに賛助員の名簿が」と言いながら、紫の風呂敷から帳面を大事そうに取り出した。
「どうか御署名の上、御捺印を」と帳面をボスの膝の前へ開いて置く。
見ると、有名な文学博士や文学者たちの名がずらりと並んでいる。
「はあ、賛助員にならんこともないが、どんな義務があるの」とボスは警備員らしい用心深さを見せた。
……自宅だけどね。
「義務は別にありません。ただ御名前を記入していただき、賛成の意を表していただければ結構です」
「そんなら入ります」と、義務がないと分かった途端、急に気軽になった。
責任さえなければ、クーデターの決起書にでも名を書き入れる顔つきだ。
しかも知名の学者たちの名前が並ぶ中に自分の名を連ねるのは、ボスにとって無上の光栄。返事が勢いづくのも無理はない。
「ちょっと失礼」とボスは書斎へ印を取りに入ろうと腰を浮かすと俺は畳の上へずり落ちた。
その間に東風君は菓子皿のカステラを一切れつまんで一気に頬張る。
モゴモゴしてしばらく苦しそうだ。
……背中に猫パンチしてあげようか?
ボスが印鑑を持って戻ってきた時には、すっかり東風君の胃の中にカステラが収まった頃だった。
ボスは菓子皿のカステラが一切れ足りなくなったことに気づかない。
もし気づけば、真っ先に疑われるのは――俺だろうなあ。




