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第十一話 ヒロイン

餅で大失敗したあと、お手伝いさんに顔を見られるのもカッコ悪い。

気分転換に琴の師匠んちのミケ子を訪ねてみようと台所から外へ出た。

ミケ子はこの辺りじゃ有名な美人猫。

ボスの苦い顔を見たり、誰にも相手にされずメランコリーな気分になった時、必ずこのミケ子を訪ねる。

すると気分はアゲアゲ。嫌なことを全部忘れて、生まれ変わったような気持ちになれる。

女の存在は実に偉大だ。

杉垣の隙間から覗くと、ミケ子は正月らしく新しい首輪をつけて、ちょこんと行儀よく縁側で香箱座り。

背中の丸みが言葉にできないほど美しい。うーん曲線美の極み。

尻尾の曲がり具合、足の折り方、物憂げに耳をちょいちょい振る姿――何とも言えない優雅さ。

日の当たる場所で暖かそうに座っているから、静かで端正な態度を保ちながらも、毛並みはビロード以上の滑らかさ。

春の光を反射して、風もないのに微かに揺れているように見えた。

俺はしばらくポーと眺めていたが、やがて我に返り、低い声で「ミケ子さん、ミケ子さん」と呼びながら関西のおばちゃんのようにヒラヒラと前足で仰いだ。

ミケ子は「あら先生」と縁台を下りる。

赤い首輪につけた鈴がチャラチャラ鳴る。

「正月になったら鈴までつけたのか。いい音だな」と感心している間に、俺のそばへ来て「先生、おめでとう」と尾を左へ振る。

猫同士の挨拶は、尾を棒のように立てて左へぐるりと回すのが作法なのだ。

町内で俺を先生と呼んでくれるのはミケ子だけ。

俺にはまだ名前がないが、教師の家にいるからミケ子は尊敬して「先生」と呼んでくれる。

俺も悪い気はしないので「はいはい」と返事をしている。

「明けましておめでとう。いい鈴だね」

「ええ、年末に師匠さんに買っていただいたの。いいでしょう」と鈴を鳴らして見せる。

「いい音だ。俺が生まれてからそんな立派なものは見たことないよ」

「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたチャラチャラ鳴らす。

「いい音でしょう、嬉しいわ」と続けて鳴らす。

俺は「師匠さんは君をすごく可愛がっているようだね」と、つい日頃、雑に扱われている自分の身の上と比べて羨ましさを漏らす。

ミケ子は無邪気に「ほんと、まるで自分の子供みたい」と笑った。

猫だって笑うんだぞ。

人間は「笑うのは自分だけ」と思っているが、それは大間違い。

俺が笑う時は鼻の穴を三角にしてゴロゴロ喉を震わせる。人間には分からないだけだ。

「ところで君のボスは何してるの?」

「あらボスだって、変ね。師匠さんよ。琴の師匠さん」

「それは知ってるけど、その師匠っていう身分は何なの?」

「それはね……」

――「君を待つ間の姫小松……」

障子の内から琴の音色が響いてきた。

「いい声でしょう」とミケ子は自慢げに長いおひげをピンピン跳ねる。

「いいみたいだけど、俺にはよく分かんないなあ。何て曲?」

「え? ええと……あれは何とかってやつよ。師匠さんはあれが大好きなの。……師匠さん、もう六十二なのよ。とても丈夫でしょ」

六十二年も生きているくらいだから丈夫と言えるので「はあ」と生返事。

間の抜けた答えだけど、他に言いようがないんだもの。

「師匠さん、元は身分が大変よかったんだって。いつもそうおっしゃるの」

「へえ、元は何だったの?」

「何でも篤姫様の秘書の妹の御嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって」

「……何だって?」

「篤姫様の秘書の妹の御嫁に行った……」

「ちょっと待った。篤姫の妹の秘書の……」

「そうじゃないの、篤姫様の秘書の妹の……」

「分かった。篤姫様の」

「うん」

「秘書の」

「そうよ」

「御嫁に行った」

「妹の御嫁に行ったです」

「間違った。妹の御嫁に入った先の……」

「おっかさんの甥の娘なんです」

「おっかさんの甥の娘なのか」

「ええ。分かったでしょ」

「いや、さっぱり分かんないよ。結局、篤姫様の何になるの?」

「あなたも分からないのね。だから篤姫様の秘書の妹の御嫁に行った先のおっかさんの甥の娘だって、さっきから言ってるじゃない」

「それは分かってるんだけど」

「それが分かればいいんでしょ」

「うん」――脳がバグってきたので降参した。

時に人というものはプライドを守らんがために理屈で固めた嘘を吐かねばならないことがあるようだ。


障子の中で琴の音がぴたりと止むと、師匠の声が響いた。

「ミケやミケや、ご飯だよ」

ミケ子は嬉しそうに振り返り、「あら師匠さんが呼んでるから、私帰るわ。いい?」

悪いと言ったってしょうがない。

「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をチャラチャラ鳴らして庭先まで駆けて行ったが、急に戻ってきて心配そうに言う。

「あなた、大変顔色が悪いわ。どうかなさったの?」

まさか「雑煮食って踊ってました」とは言えないので、俺はごまかした。

「いや、なんでもないんだけど、考え事をしてたら頭痛がしてきて。君と話したら直ると思ったんだ」

「そう。お大事にね。さようなら」

少し名残惜しそうに見えた。

これで雑煮事件のダメージもすっかり回復。

ヒットポイントもマジックポイントもMAXだ。

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