06_Track10
それは、遥か遠い日のこと。
とある病院の個室から、かん高く、どこまでも続きそうな泣き声が聞こえていた。
「まただわ……」
困りきった顔の女性が、透明な可動式ベッドから、一向に泣き止まない新生児を抱き上げた。
2日前に生まれたばかりの子は、まだひどく小さい。乳を与えてもオムツを換えても、ひたすら泣き続けるこの小さな生き物に、母である彼女はすっかり弱り果てている。
病室のドアを叩く、硬質な音が鳴った。
母である彼女が入室を許可すると、スライド式のドアがするりと割れ、10歳前後の少年が顔を出した。
「——今日も元気に泣いているね?」
子を抱えていた女性は、現れた少年を見て救いを求めるように、
「弓弦くん!」
「こんにちは」
「ちょうど良かった! この子、またずっと泣いてるの。他の子はもっと眠ってるのに……何がダメなのか……」
そばまで近寄った少年が、両腕を伸ばす。
女性から赤子を託され、少年は慎重に抱き止めた。
「おはよう。元気いっぱいだね?」
幼く中性的な声が、ふうわりと腕のなかに掛けられる。
泣いていた子は、ふやふやした声を小さく漏らしながら、ゆっくりと静まっていった。
静けさが病室に満ちる。さっきまで響いていた泣き声の余韻が耳に残り、まるで部屋全体がほっと息をついたようだった。
「すごい! さすが! 真の母すら超える、圧倒的な母性力!」
向かいの女性が興奮した声をあげると、少年——櫻屋敷 弓弦は、女性に対して小さく咎めるように目を送った。
「(あっ、ごめん! わたし、静かにしとくわ!)」
察した女性は唇に人さし指を添えて目配せすると、テーブルに寄って電気ポットに触れた。湯を沸かし、茶を用意し始める。
まぶたの閉じられた小さな顔をのぞきこみながら、弓弦は笑って口を開いた。
「母性の力じゃなくて、ぼくの声が落ち着くんじゃないかな? お腹にいるときから、ぼくが一番話しかけていたから」
「おかしい……それを言ったら、私の声を一番聞いているはずなのに……」
「鴨居さんの声は、すこし賑やかな声だからね」
「……うん? うるさいって言ってる……?」
「眠りそうだから、静かにしてもらっていいかな?」
にこっと微笑む弓弦の顔に閉口し、彼女はカップからティーバッグを引き上げた。二人分の用意が終わると、そろそろとイスに腰を下ろし、カップに口をつける。
ようやっと一息つけた彼女は、赤子を大切そうに抱く弓弦の姿を眺めつつ、ポソポソとした声で「お腹の中のことなんて、この子覚えてるかなぁ? わたしの子だからなー……?」先ほどの弓弦の言葉について疑問を呈する。
赤子から顔を上げることなく、弓弦は答えた。
「憶えてるよ。この子はとても賢い子だよ」
「親バカ……」
「そのワードって合ってる? ぼくに遣うのは不適切じゃないかな?」
すでに眠りに落ちたのか、弓弦の腕のなかは静かだった。
弓弦は赤子をベッドに戻すことなく、淹れた茶を飲むことなく、抱いたまま窓ぎわのソファに座ると、小さな丸い顔を見つめた。
「この、赤ちゃんをくるくるに巻くの……可愛いね?」
「あぁ、『おひな巻き』ね。あまりに泣くから、いろいろ調べて試してみたんだけど……効果は分かんない」
「そう? すんなり眠ったから、効果があるようにも思うよ」
「そんな物より、わたしは弓弦くんのコピーが欲しい。一晩中その子に話しかけて抱いといてもらいたい」
「コピーじゃなくて、ぼく自身がやってもいいよ?」
「だめだめ、そんなの櫻屋敷の皆さんに申し訳ない。弓弦くんも寝不足で倒れるよ」
「でも、ぼくは一晩中でも見ていたいよ」
「……赤ちゃん、そんなに可愛い?」
寝不足ぎみの彼女は、少し意外そうな目を弓弦に向けていた。
彼女が長らく屋敷で見てきた弓弦は、どこか冷めたような——大人びた雰囲気を持つ聡明な子供だった。
妊娠を告げてからは興味深く声を掛けてくれていたが、ここまでではない。生まれた子が、弓弦に抱かれるときだけ泣き止むと知ってから、宝物を慈しむように可愛がってくれている。
声を掛ける彼女には目もくれず、おくるみに包まれた小さな顔だけを見つめて、弓弦は囁き声で返答した。
「この子は、とくべつ可愛い。ぼくが居ないと泣いちゃうくらい——ぼくが、好きなのかも。ほんとは、ぼくの妹に生まれたかったのかな?」
「いやいや、わたしの子だし。櫻屋敷家には渡せないよ」
間を空けず突っこんだ彼女に、ふっと弓弦が笑みをこぼした。柔和なその表情を、彼女は二日前に初めて目にしていた。
優しい笑顔のまま、ふと弓弦は思いついたように口を開く。
「『おひな巻き』は、雛人形の『お雛様』みたいだね? そこに由来しているのかな?」
「さあねぇ…………あっ! それもありだね!」
「……ん?」
「名前! ずっと決められなくて迷ってたけど……ヒナって可愛い。弓弦くんが『お雛様』って言ったの、頭にシビビっと来た!」
「しびび? ……言ってることは分からないけど、今のこの子に似合ってるね?」
「でしょう? 弓弦くんに大事に抱っこされて、お雛様みたいな子だったから——って由来にしよう。そうしよう、決めた決めた」
「……安易だね?」
「変かな?」
そわそわとカップの縁を指でなぞりながら、彼女は弓弦を見つめて首を傾げた。
弓弦は何も言わず、小さく目を細めると、腕のなかの顔に向けて囁くように口を開いた。
「——ヒナ」
呼び声に、腕のなかの子は、ふにゃりと口の端で笑うように反応した。
「……気に入ったかな?」
くすりと笑う弓弦は、目を覚ましそうになったヒナを宥めるために、ゆるりゆるりと腕を揺らす。
子守唄代わりに、穏やかな声で言葉を紡いだ。
「大丈夫。何かあったら、ぼくのところにおいで。ぼくが助けてあげる。いつでもヒナを護ってあげる。だから、何も心配しなくていいよ。きみは、幸せになるために生まれてきたんだからね。……『櫻屋敷 弓弦』、この名前を憶えておくんだよ? 何があっても、いつまでも、ヒナの味方でいる者の名前だからね」
弓弦はそう言うと、腕のなかの小さな手をそっと指先で撫でた。ちいさな指が、かすかに弓弦の指を握り返す。そのわずかな感触に、ふっと弓弦の口許がほころぶ。
それを見ていた彼女の胸には、じんわりと温かさが生まれていた。
子を産むに当たって、使用人だった彼女は櫻屋敷家を出る手筈になっていた。櫻屋敷の者たちは引き止めたが、彼女自身が決めたことだった。
父のいない子として産むことや、これから先の生活を思って。今日この瞬間まで彼女は延々と悩んでいたが——その苦悩は、すべて掻き消えた。
「弓弦くん、シスコンお兄ちゃんだ。ヒナの将来が心配だなー?」
自然とこぼれた明るい笑い声。彼女は離れても切れることのない絆を感じていた。
窓の隙間から射し込む淡い光が、おくるみをふわりと照らす。赤子は弓弦の腕のなかで、ほんのりとした寝息をたてながら、胸の上下を静かに繰り返していた。
温かなハーブティーの香りが、病室の空気にやわらかく溶ける。
小さな命の未来を想う、優しい時間が流れていた。




