金曜日のおやすみ
土日に授業はない。
軽音部は自由参加で、新入生から希望があれば先輩が教えにいく。基本は午後の時間が多い。
そうなると、金曜の夜は融通がきく。
「んーっ」
机に向かって勉強をしていたヒナは、鉛筆から手を離すと大きく伸びをした。
鉛筆の先がすっかり丸くなっていた。芯が途切れる際に集中力を奪われるのが嫌で、長く鉛筆を愛用している。
それでも、ひたすら勉強していれば集中力も低下していく。
「……珈琲でも、飲もうかな」
ヒナが言う珈琲はインスタントを指している。カフェテリアに置いてある無料の物。
22時以降、寮横カフェテリアは食事の提供はしていない。表の入り口は閉まっているが、寮からは入ることができる。
部屋を出ると、ドアを開けてすぐにハヤトと出会った。スポーツウェア。外を走ってきたのだろうか。
「よっ! 今夜も走ってんの?」
「おお。お前は……洗濯か?」
「いや、カフェ行こうと思ってる。珈琲」
「今から? 危ねぇだろ」
「外じゃないよ。寮横のカフェだけ ……そもそもハヤトが言う? 深夜に走ってて怒られたハヤトが?」
「なんでお前が知ってんだよ」
ヒナは階段に向かう。ハヤトは自室に入ることなく歩いてくる。
「ひとに注意しておきながら、ハヤトも来るのか」
「俺は危なくねぇだろ」
「あぁ、『カミヤハヤトに注意!』だもんな。お前が危ない側だもんな」
「おい」
笑い声を響かせてカフェテリアに入った。
中には先客の姿があった。
「サクラ先生!」
ヒナの呼び声に、カフェテリアの端で座っていたサクラが顔を上げた。広げられていたのは現代文の教科書と資料。珈琲を飲みながら、軽く仕事をしているようす。
ヒナとハヤトに目を合わせて、サクラは微笑んだ。
「今晩は。今夜も勉強かな?」
「はいっ」
「熱心だね。私に何か質問でも?」
「いえ、今日は珈琲を飲もうと思って」
「そうか」
ヒナとサクラの会話に、ハヤトが眉を寄せる。ドリンクコーナーに向かうヒナの耳許に口を寄せて、ひそひそ。
「なんか当たり前みたいに会話してねぇか?」
「あ、うん。金曜の夜は、大抵いるから」
「……先生が?」
「先生っていうか、サクラ先生だけ。他の先生も『カミヤハヤト注意報』でカフェテリアに来ないんだろなー」
「………………」
「えっ、怒った? ごめん?」
珈琲にシュガー。甘く出来あがった珈琲を手に、ヒナが振り返る。
ハヤトは困惑に眉を寄せたまま、
「先生によく質問してんのか?」
「そうだな? 会うと『何か質問はあるか』って訊いてくれるから……授業で気になったとことか、ちょっとした相談とか聞いてもらってる」
「……こんな時間に二人きりってどうなんだ?」
「二人きり……? 誰でも入れるし、窓からも丸見えだけど」
「………………」
「それを言ったら、おれたちだって二人きりでカフェテリアに来たよな?」
「そうだけどよ……」
考え込むハヤト。何を戸惑っているのか分からないので、そっとしておく。
ヒナはサクラのテーブルに足を寄せた。
「それって、次の国語の授業ですか?」
「ああ、そうだよ」
「先生も予習するんですね」
「私には経験が足りていないからね」
「どうやって教えようか……って考えるんですか?」
「いや、どう指示するのが適切か考えているよ」
「指示?」
「私は、教育に重要なのは指導者の適切な指示だと思っている。『問い』の『答え』に向けて、生徒が進む道の『しるべ』のようなものかな?」
「あっ、標識ですか?」
「似ているかも知れないね」
「(サクラ先生が標識だったら、みんな気を取られて運転に集中できないだろなぁ……)」
喩えを真面目に想像しつつ、ふとハヤトを振り返る。まだ考える顔をしている。
サクラもヒナの視線を追った。
「狼谷さんも勉強かな?」
「……いや、俺は走ってました」
「元気だね。君は運動部には興味がないのか?」
「あんまり。……思いきりやれないので」
ヒナは不思議そうな顔をする。
「思いっきりやれない?」
「球技はどれも繊細じゃねぇか?」
「んん? 分かんないぞ、その感覚」
「狙ってやる感じがストレスだな。1年は球拾いが多いのも怠い」
「陸上やれば?」
「桜統に陸上はねぇよ」
「あ、そっか」
「つぅか、もういいだろ。戻ろうぜ」
ハヤトが足の先を寮に向ける。
ヒナはサクラに頭を下げた。
「失礼しまーす」
「ああ、また月曜に」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
言葉を返すサクラを、ハヤトは目の端で捉える。サクラの笑う瞳と、目が合う。
(あんたは知ってるくせに)
ハヤトの鋭い目には、非難の色が宿っている。
サクラは微笑むだけだった。
「——狼谷さんも、おやすみ」
聞こえないふりをして、ハヤトはカフェテリアを後にした。
「おーい、ハヤト。お前、ちょっと感じ悪いぞ。サクラ先生に嫌われるぞ」
「なんで好かれなきゃいけねぇんだよ」
「好かれたほうがいいだろ。なんでも教えてくれるし」
階段を上がっていく。2階の住人はヒナとハヤトの二人だけ。二人きり。
「……なぁ、」
ハヤトはドアに手を掛けたが、引き開けることなくヒナに目を投げた。
呼ばれたヒナも自室のドアに差し掛かっていた。
「ん?」
「お前に訊きてぇことがあるんだけど……」
「なに?」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………いやっ、なんだよ!」
長い沈黙に、ヒナが突っこむ。
ふわりと目を泳がせたハヤトは、溜息をこぼした。
「なんでもねぇ……」
「えぇ? そういう中途半端、すごい気になる……」
「……あんま遅い時間に出歩くなよって、注意しようと思っただけだ」
「自分のこと棚にあげて……?」
「そう言うと思ってやめた」
「言ってるけどな」
ドアを開けたハヤトは、いつもの低い声でヒナへと、
「じゃあな」
「おー、おやすみー」
「……おやすみ」
別れて、ヒナも部屋へと入った。
机に向かい、適温になった珈琲に口をつける。
(……ん? ハヤト、結局何も飲んでなかったよな)
てっきり飲み物を求めて共にカフェテリアまで来たのかと思ったが、ハヤトは何もせずに自室へと戻っていた。
(ひょっとして……心配して、ついて来てくれた?)
——こんな時間に? 危ねぇだろ。
ハヤトの言葉を思い出す。
(おれが他の寮生にイジメられるとでも思ってんのかな……琉夏の怪我のこと、だいぶ気にしてるんだな……)
ハヤトの心情を推し量る。
(口うるさいやつって思ってたけど……感謝して、おれも態度を改めよう……ほんのちょっと)
ヒナの推量は少しばかりズレている。
金曜の夜は、こうして穏やかに更けていく。




