ヴィオラ・クレマチスの策略
物心がつく前から、わたくしは孤独と共にあった。
この世に生を受けたとき、わたくしは普通の赤子と違いぱっちりと目を見開いていたらしい。両親のどちらにも似ていない夜空よりも禍々しい紫色の瞳に、母は悪魔の子を産んだのだと思ったそうだ。だから、母からは兄や弟に向けるような慈愛に満ちた微笑みを向けられたことがない。
5歳のときには自国の言葉どころか近隣諸国や古語も含めて8ヵ国語を操り、公爵家に置かれた図書を読み漁っていた。だから、弟はわたくしの発達と比べて遅れていると比較され続け、劣等感からわたくしを避けていた。
8歳のときには4つ上の兄に純粋な剣技で勝てるようになった。筋力では敵わなくとも、どのように受け流し、どのように弱点を突けばいいのか手に取るように分かった。だから、兄はわたくしを化け物と呼び嫌悪していた。
10歳のときには魔道騎士団団長の中でも歴代最強と謳われた父の魔力を超えた。他国への侵略作戦も父よりも優れた案を出した。だから、父は『私に才能が全くなかったのなら、お前をただ純粋に誇りに思うことができたのに』と憎々しげに吐き捨てた。
父は、兄か弟に家督を譲りたかったのだと思う。けれど、わたくしは二人とは比べ物にならないほど優れていて、それを二人も理解していた。兄も弟も公爵家を継ぐよりも、わたくしと離れて暮らすことを望んでいた。そこで養子をとるのではなくわたくしを後継に選んだのは、父が自身のプライドよりもクレマチス公爵家の発展を取ったということなのだろう。
11歳で誰にも望まれないまま、わたくしは次期クレマチス公爵となった。
地位も金もあって魔道騎士団を牛耳っているクレマチス公爵家に婿入りできるとなれば、数々の有能な令息が我先にと婚約を申し込んできた。
わたくしはそんな中から、自分と同じ視座で物事を見ることができる伴侶を選べるのだと思っていた。けれど、自身が研究する魔法や近隣諸国の戦況に関する見解を語れば、まるでわたくしが別の世界にいる人間とでも言うように婚約をなかったことにして距離を置くのだ。
わたくしは独りぼっちで生きて死ぬのだと悟るには1年もいらなかった。
12歳の誕生日を迎えるころには孤独を埋める誰かなど存在しないと諦めていた。だから、その直後に婚約者候補として引き合わされたアルバにも期待などしていなかった。
彼は、客観的に見てとても優れた容姿をしていた。地味な容姿のわたくしのことを褒めそやす社交性もあった。だが、それだけだ。わたくしが魔法について語っても、戦術について語っても、その一割だって理解できない愚鈍な男だった。
また断られるのだろうと思った。誰も、わたくしの隣には立ちたくないと言うのだ。
だが、アルバは違った。
「みんなと同じようにできなくても良い。それはヴィオラ嬢の個性であり、誇るべきものだ。僕は君のそんなところが好きです」
わたくしの、異常な優秀さを誇るべきものだと、好きだと言ってくれた。そんな人は初めてだ。鼓動が駆け足になるのだって、初めての経験だった。
「好き、なんですか……? 今日、初めて会ったのに」
「時間なんて関係ない。君の笑顔を見ると心が弾む、君が楽しそうにしていると僕まで楽しくなる。僕は、そんなヴィオラ嬢とずっと一緒にいたいと思ったんです」
ずっと一緒。アルバのその言葉に稲妻に撃たれたような衝撃が走った。わたくしは誰かと一緒にいることを望んでいいのか。それも永遠に。家族にも、出会った全ての人にも、お前が存在しなければ苦しむ必要もなかったのにと、お前のような化け物さえいなければ幸せになれたのにと、死を望まれていたわたくしが。
ぱあ、とアルバを中心に視界が華やかに色づいた。そうしてやっと今までわたくしが見ていた世界がモノクロだったと気付いたのだ。
アルバと共に生きる世界は幸せだった。アルバはわたくしがどれほど人並み外れた存在であっても、それに気づかずただ一人の少女として大切にしてくれた。その愚かさが可愛くて、愛おしくて、誰の目にも触れないように閉じ込めたくて仕方なかった。
これはわたくしのエゴである。わたくしはアルバだけがいれば良い、他に必要なものなんて何一つない。けれど、アルバはそうじゃない。わたくしを愛していたとしても、他の人間と交流することに歓びを感じ、自由を貴んでいる。
だから、我慢していた。アルバが選ぶのは数多の令嬢ではなくわたくしだと。最後にはわたくしの元へ帰ってくるのだと。そう信じていたから、アルバがわたくしを見染めたときのような時代遅れなドレスを身に纏った不体裁な様相を保っていたのだ。けれど、アルバはわたくしの期待を裏切った。
何度他の令嬢との接触を絶ってくれと頼んでも、酷い裏切りだと詰っても、その場を調子のよい言葉で誤魔化すだけで改善しようとしなかった。
もしかして、もうわたくしのことを愛していないのかしら。ただクレマチス公爵の伴侶の名がほしいからわたくしとの婚約を続けているのかしら。ならば、結婚した後もこうやって他の女と触れ合うの? わたくしを差し置いて?
そんなの嫌。
だって、ずっと一緒と言ったのはアルバよ。それを邪魔する存在は貴方自身であっても許せない。どれだけ言葉を尽くしても分かってもらえないのなら、壊してしまっても仕方ないわよね。
すぐに、婚姻は結ぶが式も挙げないし、今後アルバを社交の場に一切出さないと父に宣言した。元より父は無能なアルバに何も期待していない。クレマチス家や魔道騎士団を盛り立てていくのはわたくし一人の力だけで十分だからだ。アルバのことなどわたくしの興味を惹いてくれる便利なおもちゃくらいに思っているのだろう。だから、わたくしの言葉にも全く動揺しなかった。
「ならば、お前が学園を卒業するときにこの王都の屋敷をやろう。私は領地へ戻る」
数年前に兄が王宮へ入り、弟が隣国の学園の寮へ入った。それを機に母はわたくしから逃げるように領地にこもっていた。父はわたくしと二人きりの屋敷に居心地が悪そうにしながらも、魔道騎士団の仕事のために王都に残っていたのだ。
「魔道騎士団はどうするのです? 公爵領は王都から遠い、続けるのは難しいでしょう」
「それも退く。次期団長の選定は残された者たちに任せる。お前なら、入団と同時に団長になることも容易かろう。使用人は残していくか?」
「いいえ、必要ありません。わたくしの絡繰人形だけで十分ですわ」
着々と定まっていく素敵な未来に思わず笑みを零せば、酷く悍ましいモノを見てしまったというように父は顔を顰める。化け物め、と何度言われたか分からない言葉を小さく呟いていた。
次にわたくしはビバーナム侯爵家を訪ねた。
その日もアルバはどこぞの令嬢と街へ出かけているらしくわたくしを出迎えることはない。慌てる侯爵夫妻を宥め、今日の用事は二人にあるのだと告げれば、少しだけ顔を青くさせながら応接室に通してくれた。
「ようこそお越しくださいました。良ければ焼き菓子をお出ししても? ちょうど隣国からの商人が来たばかりで、この国では珍しいものがあるのですよ」
「お気持ち感謝いたします。けれど、今はあまり食欲がないんですの、遠慮しておきますわ」
「そう、でしたか。それでは、本日はどのようなご用件でしょうか」
公爵家の人間とはいえ、息子の婚約者である遥か年下の令嬢相手に、侯爵は馬鹿みたいに遜った態度だ。それは近頃のアルバの素行に負い目を感じているからかもしれないし、わたくし自身に恐怖を感じているからかもしれない。アルバと違って優秀な現侯爵は他の者たちと同じようにわたくしに畏れを抱いている。
「アルバの今後についてです」
「今後、と仰いますと、婚姻後のことでしょうか」
「そうです。婚姻は予定通り卒業と同時に、けれど計画していた結婚式は取りやめ、侯爵家はアルバとの関係を一切絶ってください」
「ど、どういうことですか!?」
それまで沈黙を保っていた侯爵夫人が驚いたように声をあげた。侯爵も瞠目し、わたくしの真意を探ろうとしている。
「アルバを自由にさせていても、クレマチス家にはメリットがないのです。今の状況を見ればわかりますよね?」
「それは、そうですが。社交に出したくない気持ちは理解しますわ。でも、どうして私たちとの関係を絶たなければならないのですか?」
「あなた方に説明する必要はありません。呑んでいただけないのなら、婚約を見直す必要がありますね」
「そ、そんな……」
「婚約の継続についても、アルバの処遇に関しても、わたくしは父から一任されております。この要求はクレマチス公爵家の総意と取っていただいて構いません」
侯爵夫人は震える右手で口元を覆った。薄らと瞳に涙を浮かべる彼女を気づかわしげに見ていた侯爵は、一度目を閉じると覚悟を決めたように大きく息を吸い込んだ。
「分かりました。アルバについてはそのように」
「あなた!」
「仕方ないだろう。我が家の信用にかかわることでもあるし、ヴィオラ嬢との婚約破棄をして、あいつが貴族として生きていける道はないんだ」
「でも……」
耐え切れず声を上げて泣き出した侯爵夫人を侯爵が宥めるように抱きしめる。アルバは自分のことを使えない末っ子だと思っているが、侯爵夫妻はちゃんとアルバのことを愛している。年の離れた兄二人もアルバのことを可愛がっていて、言葉には出さないがわたくしとの婚約には反対のようだった。そして、愛されている自覚は薄いがアルバも家族のことを同じくらい愛していた。
だから、我慢してあげていたのに。冷めた目で侯爵夫妻を一瞥すると、挨拶もそこそこにその場を後にした。
そうやって、わたくしだけのアルバを手に入れて二年の月日が経った。
学園を卒業後、式も挙げずに婚姻届けを出してわたくしたちは夫婦になった。アルバは急に病に倒れたということにした。信じる人間なんていないだろう。けれど、構わない。悪評の一つや二つでわたくしは失脚したりしないのだ。
結婚と同時に、わたくしは魔道騎士団に入団しそのまま団長になった。いくらわたくしが次期クレマチス公爵だとしても、入ったばかりの小娘を団長になどできないと反発する騎士が多かった。だから、わたくしはわたくしを認められない全員を戦って屈服させた。殺さないように手加減するのは大変だったが、誰一人わたくしの足元にも及ばなかった。選りすぐりのエリートが集まる魔道騎士団である。か弱そうな小娘に手も足も出ず簡単に倒されたことに心が折れてやめていった騎士もいたが、残った者はわたくしが団長だと認めてくれた。
魔道騎士団の仕事は楽しい。魔物の討伐も他国との争いも、力だけじゃなくて戦況を見る目や頭脳が必要だ。それらはわたくしにとっても簡単ではないから、わくわくする。ただ、忙しいことだけが難点である。
こうやって屋敷に帰ってくるのも一週間ぶりだ。国内のあちこち、果ては国外にまで飛ばされる。わたくしは転移魔法が使えるから距離はそこまで問題ではないが、それでも仕事の内容によっては一ヵ月も屋敷に帰れないことだってある。
きっとアルバは寂しがっているだろう。そう思うと自然と口角が上がってくる。結界を通って屋敷の中に入った。この結界を通れるのはわたくしだけ。わたくし以外に屋敷の中に入れる人間はいない。そして、わたくし以外に屋敷の外に出られる人間もいない。
屋敷に入ってすぐ、近づいてきたメイドに魔道騎士団の外套を渡した。ごく普通のメイドに見えるが、彼女は私が魔力で動かしている絡繰人形だ。屋敷のこまごまとしたことは全て絡繰人形が行っている。掃除炊事洗濯なんでも完璧にこなせるし人間のように疲れたりしない。膨大な魔力がなければ維持できないという欠点さえなければ普及していることだろう。
「おかえり、ヴィオラ!」
「まあ、びっくりした。ただいま、アルバ」
わたくしの帰宅に気付いて自室から出てきたアルバが飛びついてきた。少しだけ身体強化の魔法を自分にかけて、わたくしよりも背の高いアルバを受け止める。見上げたアルバはニコニコと、年齢にそぐわないくらい純粋な笑顔を浮かべている。
「とても嬉しそうね」
「だってヴィオラが帰ってきたから! すごくすごくさみしかったんだ」
「いつもさみしい思いをさせてしまってごめんなさいね」
「ううん、ヴィオラが国のためにがんばってることは分かってるから」
「ありがとう、貴方がいるからわたくしは頑張れるのよ」
そう言って頭を撫でれば気持ちよさそうに瞳を細める。
屋敷の外に出ないから、肌は真っ白で、筋肉が落ちて手足は細くなっている。けれど、絡繰人形の甲斐甲斐しい世話のおかげで美貌に陰りはなく、白金の髪も艶艶としていて触り心地が良い。
「実はね、今日から三日間お休みをもらったの」
「じゃあ、いっしょにいられる?」
「もちろん」
「いっぱいぎゅってして、いっぱいいっぱいおはなしもできる?」
「ええ、寝るときもご飯を食べるときもくっついたままでいいし、わたくしが屋敷にいなかった間何をしていたのか教えてちょうだい」
「うれしい! すごくうれしい、ヴィオラ!」
「貴方が嬉しいとわたくしも嬉しいわ。その前に汗だけ流してくるから、部屋で待っててくれる?」
「わかった!」
スキップで自室に戻るアルバを見送って、絡繰人形が湯の準備をしてくれた浴室に向かう。
アルバがこの屋敷に移り住んだ日から、彼をここに閉じ込めている。
初めは酷く怯えていた。彼はわたくしのことを人畜無害な大人しい令嬢だと思い込んでいたから、そこから外れたわたくしのことを悪魔、化け物と罵ってきた。他の人間の口からは何度言われたか分からない言葉。何とも思っていなかった言葉もアルバに言われるのは悲しかった。
だから、そんなことを言わないように、わたくしが望まない言葉を言う度にアルバを家具も窓もない真っ白な部屋に閉じ込めた。何もない部屋では時間の感覚もなくなる。静かで何の刺激もない空間にアルバの精神は削られていく。喉が渇こうがお腹が空こうがそれを満たす物は与えられない。尿意を感じてもその場で垂れ流すしかない。衰弱してきた頃にようやく解放してやり、動けないアルバをわたくし自ら身を清めてやり食事を与えてあげた。
それを何度か繰り返せば、アルバはわたくし自身に反抗的な態度をとることをやめ、なんとか屋敷から脱出しようとするようになった。
屋敷から出ようとすれば絡繰人形たちに止められる。それを振り払っても結界のせいで扉から出ることはできない。窓からも同様だ。壁を壊そうとして自身を傷つけることもあった。壁を壊したところで結界の影響から逃れられるわけでもないのに、必死な姿が痛ましい。
「自分を傷つけるようなことはやめて。貴方の望むモノは与えてあげるから」
「だったら、ここから出して」
「それはできないわ」
無表情で俯くアルバに治癒魔法をかける。この屋敷内で健やかに過ごしてほしいだけなのに、上手く伝わらない。
脱出を諦めたアルバは、自殺を試みるようになった。食事のときに出されたナイフやフォーク、それから窓を割った破片で首を切ろうとした。服の装飾についていた紐を抜き取って首を吊ろうとした。風呂に沈んで溺死しようとした。食事を食べずに餓死しようとした。
だから、わたくしは食事を流動食にして無理やり食べさせた。窓には木の板を打ち付けて隠した。アルバには服を着せないことにした。入浴はさせず身体を濡れた布で拭うだけにした。魔法でアルバに外傷を負わせないようにするのは簡単だが、それではどれだけわたくしが真剣にアルバに死んでほしくないと思っているのか伝わらないだろう。
「服を着せてほしい」
「魔法で屋敷の中の温度は保たれているから寒くないでしょう?」
「でも、僕だけが服を着ていないのは恥ずかしい」
「わたくしは妻なのだから貴方の裸を見てもおかしくないわ。他にいるのは絡繰人形だけ、恥ずかしがる必要はないでしょう」
「分かっていても、嫌なんだ」
妻、などと言ってもわたくしとアルバは一線を越えていない。アルバを裸で過ごさせているが、アルバはわたくしの裸を見たこともない。それもあってか気まずそうに性器を隠そうとしているアルバを微笑ましく眺める。
「じゃあ、食事を元に戻してよ」
「あの流動食はちゃんと栄養に気を遣って作っているのよ。わざわざ危険を冒してまで元の食事に戻す必要はないと思うの」
「危険って……」
「危険でしょう? ナイフやフォークを出したら貴方が怪我をする可能性があるんだもの」
「しないよ、そんなこと」
「本当かしら? 口ではなんとでも言えるもの。ねえ、アルバ?」
令嬢たちとの関係を揶揄するように言えば、アルバは絶望したように顔を歪ませ、よろよろと座り込んだ。やっと自分の行いが悪かったのだと気が付いたのだろうか。
「そんな、本気じゃなかった。ちょっとした、悪ふざけじゃないか。それなのに、ここまでしなくたっていいだろう。外が見たい、お風呂に入りたい、ただ人間らしく暮らしたいって、それすらできないほど、僕は悪かったのか?」
両手で顔を覆って俯くアルバを抱きしめる。振り払う気力もなく震えるだけのアルバの背を安心させるようにそっと撫でる。
「全部、危険を取り除くためよ。貴方のためなの、分かってね」
両手の間から、分からないよ、とくぐもった声がする。分かるまで続けるだけよ、と返せばびくりと肩が震えた。お願い、解放して、という声は聞こえなかったことにした。
そうして、アルバの身の回りからあらゆる脅威を取り除いた頃、アルバは抵抗をやめたが日がな一日泣き暮らすようになった。
「かぞくに会いたい」
「貴方の家族はもう貴方とは会わないって約束しているの」
「友だちに会いたい」
「貴方の言う友達ってあの令嬢たちのこと? 絶対会わせないわよ」
「外に出たい、まちに行きたい」
「外に出て、街に行ってどうするの? また、わたくし以外の物事に心を奪われるのでしょう? そんなの許さないわ」
「こんな、こんなはずじゃなかった。もう、いやだ。せめて、一人になりたい」
「そう、アルバはそう思っているのね」
わたくしが立ち上がると、アルバは座り込んだまま涙に濡れた瞳でぼんやりと見上げてきた。部屋を出ると絡繰人形たちにわたくしの身の回りの物をまとめるように指示する。いくらかの着替えと現金が入ったカバンを持ってわたくしは屋敷を後にした。
それから一ヵ月ほど、わたくしは魔道騎士団に与えられた施設で寝泊まりをした。山のように舞い込んでくる仕事を次々とこなしながらも、わたくしはアルバのことで頭がいっぱいだった。もう屋敷の中に危ない物はないし、絡繰人形にアルバをよく監視するように命令しているから怪我をしていることはないだろう。食事だって食べなければ無理やり食べさせ、眠らないようなら睡眠薬を盛るようにしている。あまり動こうとしないのは心配だが、直ちに健康に害はないはずだ。それでも、アルバは今どうしているのか気になって仕方ない。これが、恋というものなのね、とため息を吐く。魔法だって戦術だって領地経営だって分からないことなんて何もなかった。そんな自分にとってもままならないものなのだ。
思い通りにならない現実がもどかしくて、でももどかしさも含めてアルバに向ける愛なのだ。苦しみさえも愛おしく思える。同じようにアルバも感じてくれたら嬉しいな、なんて乙女のような願望がこんなわたくしにも湧いてくるから、恋というモノは恐ろしい。
そして、そろそろ頃合いだろう、と屋敷に帰ることを決めた。
屋敷はしんと静まり返っていた。絡繰人形に案内されるままアルバの部屋に入る。アルバはベッドの上で自身の身体を抱きしめるように丸まって寝ていた。目元が赤く染まっている。わたくしがいない間も泣き暮らしていたのだろう。顔にかかる前髪を払って、赤く腫れた目元に唇を落とす。その刺激でアルバは気が付いたらしく、ゆっくりと目を開いた。
「おはよう、アルバ」
「ヴィ、オラ?」
「ええ、ただいま」
「ヴィオラ? ほんとに? かえってきた、の?」
「そうよ、久しぶりね」
壁には爪でひっかいたらしい何本もの線がついていた。きっとわたくしがいなくなってからの日数を数えたものだ。先端が尖っているものは危ないからとペンの類は屋敷にはない。ペンがなければ必要ないからと紙も置いていない。だから刻める場所は壁だけで、書くために使えるのは自分の身体だけだ。優に三十本を超えた線に思わず笑みがこぼれる。窓の外が見えない屋敷内では昼夜が分からない。娯楽も何もなくて寝ることと食べること以外にできることはない。絡繰人形は身の回りの世話をしてくれるが会話はできないから暇つぶしの相手にもならない。アルバはただただ起床と覚醒を繰り返し、その間に絡繰人形に出された食事を文字通り流し込むのみ。どこが一日の始まりでどこが一日の終わりか分からない。そんな中でどうにか正気を保とうと必死に刻んだのだろう。いつわたくしが帰ってくるのか分からない、そもそも本当にわたくしが帰ってくるのか分からない中で、現実よりも長い時間を感じていた。それらに耐えてきたアルバの絶望は如何程のものだろうか。
「元気そうで良かったわ」
「まって!」
それだけ言ってベッドに背を向ければ、悲鳴のような声と共にベッドから転げ落ちる音がした。振り返れば、蹲ったままのアルバが床に擦り付けるように頭を下げていた。
「ごめん、ごめんなさい。ヴィオラのきもちをうらぎってごめんなさい。一人になりたいなんていってごめんなさい。はんせいしました、もうそんなこといいません。だからおねがいします、一人にしないでください」
東方の島国で使われる土下座という謝罪方法みたいだな、と思う。アルバがそんな異国の文化を知っているわけないけれど、必死に許しを乞おうとすれば誰だって文化など関係なくこんな無様な姿になるのかもしれない。
痩せた身体を覆い隠すものは何もなく、ぶるぶると震えながら床に這いつくばるアルバは捨て猫みたいで実に憐れみを誘う。わたくしはそんな可哀想なアルバの顎をすくい上げ目線を合わせた。
「わたくしが屋敷にいるのは嫌だったのでしょう?」
「そんなことない、ちがいます、ぼくがまちがってました」
「そうなの? でも、わたくしはわたくし以外に会いたいって言うアルバは嫌だわ」
「いいません、かぞくにもともだちにも、もうあいたくない。ヴィオラだけがいればいい」
「わたくしだけ?」
期待を込めてアルバを見つめる。ぼろぼろと涙をこぼしながら、アルバは頷いた。そして、嗚咽を漏らしながら言ったのだ。
「ヴィオラと、ずっと一緒にいたい」
「ああ……待っていたわ、その言葉を」
アルバを抱きしめたとき、アルバと出会い世界が色づいた瞬間と同じくらいの幸福を感じた。
それからのアルバは従順だったから、まず初めに服を着せてあげた。わたくしか絡繰人形の監視の下で入浴できるようにして、食事もナイフやフォークを使う固形のものに戻した。窓には強化魔法をかけた上で打ち付けていた板も外した。
少しずつ人間らしい生活に戻ると共に、アルバはよりわたくしを求め、そしてわたくし以外のことを忘れていった。
侯爵令息として身に付けてきたマナー、少なからず学んできた勉学や魔法、学園で築いた人間関係、果ては家族のことすら今は曖昧にしか覚えていない。
アルバの世界には、もうわたくししかいない。
入浴を終えてアルバの部屋に行くと、彼はベッドの上で微睡んでいた。
「ヴィオラ……?」
「あら、起こしてしまった?」
「ねて、ない。おきてる」
「まあ、無理しないで」
目元を擦りながら起き上がろうとするアルバをベッドへと戻す。落ちそうな瞼に必死に抗おうとしながら眉間に皺を寄せるアルバに苦笑をもらす。寝ていなさい、という気持ちを込めて頭を撫でるがむずがるように首を振る。
「やだ、いっぱいおはなしするって、いった」
「するわよ。でも、くっついて寝るとも言ったでしょう?」
わたくしもアルバの隣に横たわって彼の頭を抱きしめる。アルバは不満げに唸るが、わたくしに抱きしめられていることは嬉しいようで抱きしめ返してくれた。
「起きたらいっぱいお話するわよ。心配しなくても、ずっと一緒にいるんだから」
「ほんとに? ずっと、ぼくといっしょにいてくれる?」
「ええ、一緒にいるわ。ずっとずっと、永遠に」
力が抜け、眠りに落ちてしまったアルバを強く抱きしめる。
ずっと、いつまでも、永遠に。世界中の誰がわたくしを嫌っても、世界中の誰が貴方を望んでも、貴方はわたくしだけのもの。
だから、ずっと愛してね、アルバ。
アルバ・ビバーナム
美しい見目以外に特筆すべきところのない侯爵家の三男。
能天気で楽観的、深く考えずに行動を起こしてよく面倒ごとを引き起こす。しかし、本人に自覚はないがその無責任でのんきな笑顔に絆され愛してしまう天才が多い。
凡才故にヴィオラの異常性に気が付かず普通の少女として愛してしまった。拒絶するには既に遅く、心を壊して彼女を愛する以外に生きる術はなかった。
ヴィオラ・クレマチス
異常なほどの天才として生まれついた公爵令嬢。
ある程度才のある者ならその異常性に気付き、怯え、恐怖する。故に家族からも、婚約者候補からも疎まれて過ごしていたため、初めて自分を愛してくれたアルバに酷く執着する。
本人も自身の異常性には自覚的なため抑え込もうと努力していたが、アルバの軽率な浮気で我慢の限界を迎えた。生涯、彼女なりにアルバを大切にして過ごした。