真実
「……ごほっ……」
猛烈な勢いで水の流れる地面に膝を立て、フランは咳き込んだ。
その近くでは、同じような体勢で蹲るシグが、ごほごほと激しい呼吸をくり返していた。
「……っ、助かった。あんたがとっさに防御壁で守ってくれなかったら溺れ死んでたぜ」
「マドレーヌたちのことは庇いきれませんでしたけど……」
気づけば、フランたちは神殿の外にいた。ネレイスが生み出した大波によって押し流されたのだ。
立ち上がり、周囲を見渡す。
神殿からとめどなく流れて出てくる大量の水。村を流れる川が氾濫し、へし折れた大木が濁流に乗って運ばれてくる。
大規模な洪水。三千年前の災厄が頭をよぎり、フランはぐっと唇を噛んだ。
このままでは、村ごと水に沈められてしまう。
濡れた杖を両手で握り、横向きにして胸の前にかざした。
「神聖なる水の命よ、確固たる意志を根拠に鉄壁となれ──」
足元に浮かび上がる紋章。フランたちの周辺に水のない空間が生まれ、騎士団の白いローブが、激しい風にばさばさと揺れる。
「氷結せよ! 堅氷に至りし霜!」
瞬間、空気が白く輝いた。
フランを中心として広がる魔力の波紋によって、村をのみ込む水流が次々と凍りつき始めたのだ。
水源である神殿の入り口。冠水した路。倒れかけた木々。そのすべてが、透明な水晶に覆われていく。
ピキピキと枯れ木が割れるような音を立て、氷に包まれた村が顕現した。
それはまさしく、天高くそびえる氷山の誕生の瞬間だった。
「す、すげえ……」
「いまのうちに村の人たちを逃がさないと。シグさん、手伝ってもらえますか。僕はマドレーヌとランドリーを──」
『無駄なことを』
温度のない声が脳内に響いた。はっとしてフランは顔を上げる。
透明な髪をなびかせる半魚の女性が、凍りついた神殿の上からフランたちを見下ろしていた。
「……なぜ、こんなことをするんですか。ネレイス。──いや」
空に浮く精霊をまっすぐ見つめ、フランは問う。
「──ウンディーネ」
その名を呼ぶと、精霊はわずかに虚を突かれたような顔をした。
だが、次の瞬間にはふっと嘲笑うような視線を向けられる。
『さすがはバンシーだ。……よく気づいたな。そうだ。私はネレイスではない』
四大精霊ウンディーネだ。
数多の精霊たちの中で、ひときわ大きな力を持つ特別な存在。
彼女の出現時にフランが抱いたのは、相手が正体を偽っていることからくる違和感だったのだ。
(ニアス村の人たちが信仰してたのは、本当はウンディーネだったのか? 文献が間違っていたということか)
『ちがう』
フランの心を読んだように、ウンディーネが言った。
『かつてこの村の連中を救ったのはまちがいなくネレイスだよ。だから……ネレイスは私が殺したんだ』
「!」
『同じ水の精としてはいささか残念だったがな。しかたあるまい。やつは人間に与した裏切り者だ』
「そんな……」
ウンディーネが語る事実と、自分が知る歴史の齟齬に、フランは気づき始めていた。
三千年前、〈精隷の憤怒〉という大災害が起こった。その災害をとめるため、精霊たちが人間に力を貸した。
それらの言い伝えの一部が、間違っていたのだとしたら。
『間違いさ。いや、間違いではないが真実ではない。なにせ〈精隷の憤怒〉を引き起こしたのは──』
碧い宝石の瞳が冷たく光る。
『私たち精霊だからな。それをとめたのが裏切り者のノーナたちだった。人間の口車に乗り、心底くだらない契約をした──裏切り者』
フランは大きく目をみはった。ドクドクと、心臓が激しく跳ねる。
『今度こそ失敗はしない。裏切った精霊たちがこの世から消えたいま、我らが精霊に対抗できる人間などそうはいないだろう』
「なにを……」
『ただ、貴様は別だバンシー。あのときのように余計な真似ができぬよう、いますぐ私のしもべにして──』
「させません!」
ウンディーネの周りを炎が舞った。言葉を切った水の精霊を包み込むように広がる、空を統べる炎の渦だ。
「しもべですって? 結婚は、相手を自分の下僕にするものではありませんわ!」
「マドレーヌ!」
「本来わたくしたちの婚姻を見届けるはずのシスターが、そんな不純な理由でわたくしのフランさまに手を出すなんて……!」
烈しく燃え盛る炎の渦が、左右からウンディーネを挟み込む。神殿の前にできた氷の上に立つマドレーヌが、精霊術を発動したのだ。
『……サラマンダーめ。裏切り者の精霊たちの中でも、貴様の先祖がもっとも憎たらしく、厄介な存在だった……!』
ウンディーネの全身から放たれた魔力が、マドレーヌの炎をかき消した。
苛立たしげに舌を打ち、新たな炎を生成するマドレーヌ。
そんな彼女に対抗するように、ウンディーネが水の球を自身の周りに大量に生み出す。
『だが、貴様は所詮ただの人間だ! 尊き精霊の血を薄めた愚か者ども。純然たる精霊の私には敵わない……!』
矢のように降り注ぐ水球の雨が、一斉にマドレーヌを狙った。
しかし、それらの攻撃が彼女に当たることはなかった。フランがとっさに防御壁を展開したからだ。
『邪魔をするな、バンシー……!』
「お怒りですのね」
マドレーヌが呟いた。扇子を片手に、毅然とした様子を崩さない少女の周りに、熱く激しい風が吹く。
「やはりふさわしくありませんわ。あなたのように粗暴な女に、フランさまの伴侶が務まるとは思えません。しかも……よく見るとほとんど裸ではありませんか。なんとはしたない」
少女が扇子を振り払う。青いドレスがふわりと舞い、竜の尾のように逆巻く炎が、ウンディーネに牙を剥く。
「絡みなさい──フレア・クー!」
炎の渦が、目にもとまらぬ速さでウンディーネのからだに巻き付いた。
ジュ、と音を立てるウンディーネの肌。その顔がわずかに歪む。
『なんだ? この魔力は……サラマンダーの血は薄まっているはずなのに……』
「何を仰っているのかわかりませんが。この炎はフランさまからわたくしへの愛の証です。姿かたちも知らぬ先祖の血など、関係ありません」
『……なるほど。貴様のしわざか、バンシー』
水の精霊がフランを睨む。やはり貴様らは鬱陶しい。
苦虫を噛みつぶしたような顔で、彼女はそう言った。
マドレーヌの炎の威力が上がったのは、フランが補助をしたからだ。
村中を氷漬けにした際に、ウンディーネが生んだ水から大量の熱を奪った。その熱を魔力に変換し、マドレーヌに譲り渡したのである。
生物や物質に宿るマナや魔力を、特定の属性の魔力に変換する──フランが得意とする精霊術の一種だった。
『……は! 図に乗るなよ。私たち精霊の真似事しかできない人間どもが。こんな炎……』
増幅するウンディーネの魔力。彼女を縛る炎の渦が、再びかき消されるかと思われたときだった。
「──今回ばかりはお前と同意見だな、マドレーヌ」
ウンディーネの上空に、ひとつの影が現れた。
銀色の剣がきらりと光る。落下の勢いで大きく翻る、白い騎士服の長い裾。
「こんなイカレ女に……俺の親友は渡さねえ!」
ランドリーだった。神殿の周りにできた氷の山を足場にして、ウンディーネの真上にまで跳んだのだ。
『愚かな。精霊術ならともかく、ただの物理攻撃が私に効くわけ──」
ウンディーネは瞠目した。ランドリーの斬撃が、彼女の右腕を肩口から斬り落としたのだ。
弾ける水。ウンディーネが戸惑うように瞳を揺らす。
彼女のからだから散った水飛沫に、天から降り注ぐ陽の光が反射して、青年の銀髪がきらきらとかがやいた。
『くっ……!』
神殿前の氷の柱に着地したランドリーが、剣を振り払い、続けて攻撃の意思を示した瞬間。
『う……あアアアああああァぁぁ!』
ウンディーネが絶叫した。
両手で頭を抱え、苦しそうに呻き始めた水の精霊に、フランたちは驚愕する。
彼女の発する魔力の波動に飛ばされないよう、両足に力を入れた。冷たい風が吹き荒れ、砕けた氷の欠片があたりを舞う。
一瞬の出来事だった。気づいたときには、その場からウンディーネの姿が消えていたのだ。
「な、何だったんだ……」
シグが困惑したような声を発した。
剣を鞘に収め、氷の柱から飛び降りたランドリーや、扇子を振り払いながらフランに近づいてきたマドレーヌも、どこか腑に落ちない表情を浮かべている。
「……急がなきゃ」
そんな中、フランはひとり呟いた。
「このままじゃダメだ。一刻でも早く……僕の結婚相手を見つけないと」
両手でぐっと杖を握りしめ、フランはうつむく。
「「──はあ!?」」
冷気に満ちた空間に、悲鳴にも似た幼馴染たちの絶叫がこだました。