水の精霊
立っていた、というのは正確ではない。
浮いていたのだ。そもそも彼女には足がなかった。
その女性の下半身は、魚の尾のようなかたちをしていた。
上半身や髪の毛は、美しい川の流れのように煌びやかだった。碧く妖しい光を宿す宝石のような瞳と、魚のエラのような耳。人間でないことはあきらかだ。
『貴様らは……』
女性がおもむろに口を開いた。頭の中に直接語りかけてくるような、静かで、不思議な声だった。
「あ、あなたは……!」
一同が戸惑う中、口火を切ったのはフランだった。
「精霊ネレイスですよね……!? 三千年前に、この村を救った……!」
碧色の瞳がフランをとらえる。
ぞくりとした。相手は人間ではないのだから当然かもしれないが、感情が読み取れない。
『……いかにも。私が精霊ネレイスだ』
(……?)
精霊の返答に、フランはわずかな違和感を覚えた。耳をざらりと撫でられるような、居心地の悪さを感じたのだ。
だが、躊躇している時間はない。胸を這う違和感から目を逸らし、フランは言った。
「精霊ネレイス。あなたにお願いがあります」
杖を強く握りしめ、真剣な声色で訴える。
それまで呆然としていたランドリーたちが、驚いたようにフランを見た。
「どうか僕と──」
水上に浮かぶ美しい精霊を、まっすぐに見つめた。
「僕と……結婚してください!」
一世一代の告白が、大広間にこだました。
沈黙するネレイス。時がとまったような静寂がおとずれる。
「「……は?」」
しばらくして、フランの幼馴染たちが地を這うような声をこぼした。
「〈精隷の憤怒〉が再び起ころうとしているんです。そうなれば多くの人が死んでしまう。だからどうか、あなたの力を……」
『……ふ』
「え?」
『ふは……ははははは!』
突然、ネレイスが大口を開けて笑い始めた。
フランは戸惑い、唐突に様子が変わった精霊の顔を凝視する。
『結婚……それはもしや精霊婚のことか? 傑作だな! よりにもよってこの私に……は、はははは!』
「ネレイス……?」
『多くの人間が死ぬだって? 知ったことか! それこそ……私たちの積年の望みだというのに!』
「!」
絶句した。彼女が発する言葉の意味がわからなかった。
『くだらない……くだらないな。わかるぞ。貴様……バンシーだろう?』
氷柱のような鋭い視線に貫かれ、フランはびくりと肩を揺らした。心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
『また貴様が邪魔をするのだな。だが……今度こそそうはさせまい』
水の瞳を光らせたネレイスが、右のてのひらをフランに向ける。
『いいだろう。してやるさ、その結婚とやら。そうして貴様は私のものとなり、我らが悲願を叶えるための傀儡と化せ……!』
渦を巻くような水の塊が生まれ、周囲のマナを取り込み始めた。明確な敵意を孕む、膨大な魔力だった。
攻撃される。フランがそう直感したとき。
『……ッ!?』
横から飛んできた火の球が、水の塊に直撃した。
「フランさま……」
火の球を生み出したのは、マドレーヌだった。
フランの背後でゆらりと身体を傾ける少女の周りに、いくつもの赤い球が浮かんでいたのだ。
メラメラと燃え盛る激しい炎。それが精霊術とは関係ない、マドレーヌ自身から発せられた炎のよう見えて、フランは恐ろしい気分になった。
「やはりお疲れのようですわね。その女はシスターです。フランさまの結婚相手などではありませんわ」
「マ、マドレーヌ……」
フランはひくりと唇の端を上げた。事態が余計に複雑になる気配を察知したからだ。
『いまの炎……貴様、もしやサラマンダーの子孫か?』
冷ややかにネレイスが言う。
『……これほど時が経っても変わらぬとは。本当に忌々しいな、貴様らは』
「何を言っているのかわかりませんが。フランさまはわたくしの夫です。あなたには渡しませんわ」
『なるほどな。これも我らの運命ということか。いいだろう。ここで厄介な裏切り者を始末し──……ッ!?』
鋭い一閃がネレイスを襲った。
彼女とマドレーヌが会話をしている隙に噴水の近くにまで距離を詰めていた、ランドリーの斬撃だった。
「ランドリー!」
「フラン! よくわからないけど、敵だよなこいつ!」
剣をかまえたランドリーが、相手からの反撃にそなえた。
その眼前には、宙に浮かぶネレイスの姿があった。ランドリーの攻撃をよけ、噴水の外側に移動したのだ。
「──俺は聞いてないし、認めないぞ! こんな女、お前には相応しくねえ!」
「そういう話!?」
マドレーヌといい、彼といい。フランの幼馴染たちは本当にぶれない。
いい意味でも悪い意味でも。当然、いまは悪い方の意味だが。
「あの、ごめんなさい! ネレ……イス! その、ちゃんと話を……」
『必要ない!』
ヴェールのような水色の髪を振り乱し、精霊が叫んだ。
増幅する魔力。彼女のあまりの剣幕に、フランははっと目をみはった。
『今度こそ……! 今度こそだ! 貴様ら人間を滅ぼし、我ら精霊の世界を取り戻す……!』
「……!」
『そのために……〈精隷の心〉、バンシーよ! 貴様は私のものになれ!』
精霊を取り巻くマナが嵐のように旋回し、強烈な波動が大広間を支配した。
そのあまりの勢いに、フランたちは一度に後方へと押しのけられる。
『──のみ込め! 我が奴隷たる水流よ! すべての業を、我らの敵を……神霊パラケルススの名のもとに、覆い尽くせ!』
咆哮のような詠唱とともに──怒涛が、その場のすべてをのみ込んだ。