家出少女
この国で黒髪の人間は珍しい。
フランの場合、瞳の色も黒いから余計に目立つ。
あのリラ・セイレーンの弟子というだけで、ただでさえ名前を覚えられやすい立場だというのに。
「バンシーさん! 来てくれたんだな」
村の奥地にある神殿の前に着くと、入り口付近に直立していた白い騎士服姿の男性がフランに気がつき、すぐさま笑顔で迎えてくれた。
王立騎士団における剣士の双璧、第三師団の兵士だった。
同じ第三師団に属する親友の同僚なので、所属は違うが相手の顔には見覚えがある。名はたしかシグといったか。
「王都からひとりで来たのか? 大変だったろ」
「そんなことは。村の人たちからじろじろ見られるのは、ちょっと恥ずかしかったですけど……」
閉鎖的な文化を持つニアス村には、外部からきた人間を拒絶するような雰囲気がある。
そんな村の人々が、今回の件については騎士団に報せてきた。よほど異様な事態が起きたと考えて間違いはない。
「忙しいのにすまない。魔獣退治だけなら俺らの専売特許なんだが、マナの問題が絡んでくるとどうしてもな」
「人手不足なのは第二師団だけじゃありませんから。みなさんもここ最近は任務に出ずっぱりじゃないですか」
「あんたらほどじゃないよ。なんせ婚約者の捜索に駆り出される団員もいるくらいだからな」
「はは……」
苦笑いを浮かべることしかできなかった。
シグの言葉から、即座に頭に浮かんだ親友に同情にする。
婚約者の捜索。いつものことながら、魔獣退治とは比べものにならないほど骨が折れる任務にちがいない。
「中に人は?」
「だれもいないよ。神殿の外に出た魔獣がいたら大変だからな、いま他の兵士が村の周囲を確認してる最中だ。俺は見張り。術師がきたら指示を仰いで中に踏み込む予定だった」
まさか天才術師さまがくるとは思わなかったが、と笑う男に、やめてください、とフランは複雑な声をこぼした。
「神殿内の様子を見てきます。どこでマナが暴走しているのか調べないと」
「俺も同行する。あんた細っこいし、いくら優秀でもひとりで行かせるのは心配だ。魔獣の相手くらいは任せてくれ」
「うっ……ありがとうございます……」
心に刺さる言葉は聞かなかったことにして、神殿の中に入る。
オフィリア神殿。王国が“聖域”として指定する、高濃度のマナが集う遺跡。ニアス村の先住民が、自分たちの神である精霊ネレイスを祀るために建てた神殿だ。
三千年前の大災害で、かつてのニアス村は大規模な水害に襲われた。その窮地を救ったのがネレイスだったという。
水の精霊ネレイスは、人間の女性のような美しい姿をしていたと記録されている。
神殿内が澄んだ水の空気で満たされているのもそのためだろう。全体的にひんやりとした空間だった。後ろを歩くシグも、その寒さにぼやくような声を発していた。
「冷えるな……」
「水の神殿ですからね」
灯りはないが、左右の水路を流れる透明な水が淡い光を放っているため、足元を見失うことはなかった。
奥へと続く細い通路を並んで進んだ。マナの源泉があるとしたらこの先だろう、と当たりをつけ、フランはシグを振り返る。
男の背後で黒い影が蠢いたのは、そのときだった。
「危ない!」
フランはとっさに杖をかざし、シグの前に躍り出た。
二人の周りに緩やかな風が巻き起こる。
意識を前方に集中させると、光を帯びた杖先に生まれた透明な水の球を、影に向かって直撃させた。
「うおっ!?」
素っ頓狂な声を上げるシグの背後で、水球に貫かれた塊がドサリと落ちる。
その正体は、蛙の姿をした魔獣だった。
緑と黒が混ざったような色のぶよぶよの皮膚と、二つに割れた長い舌。ただの蛙とは言い難い大きさも気味が悪い。
「ありがとう、助かった。魔獣退治は任せてくれって言ったくせにな。情けねえかぎりだ」
「いえ。この感じだと他にもたくさんいると思います。お互い気をつけましょう」
重々しく頷いたシグと並び、慎重に通路を歩いた。
奥に足を進めるたび、空気の冷たさが増していくようだった。フランが読んだ文献が正しければ、この先にはネレイスの像が置かれた大広間があるはずだ。
「それにしてもすごい威力だったな、さっきの攻撃。さすがは天才精霊術師さまだ。水の球ひとつでたいしたもんだよ」
「やめてくださいってば……僕は水の精霊術が得意なので、この場所と相性がいいだけですよ」
「いーや、あんたは立派だよ。ランドリーがいつも言ってるぜ。俺の親友はすごいやつだ! ってな」
「ランドリー……」
「だから──ん? 何か聞こえねえか?」
シグに言われて足をとめる。瞬間、鼓膜が破れるような不快な音が二人の耳を突き刺した。
はっとした。それは獣の咆哮だった。
「おいおい。なんかすげえ怒ってねえか?」
「魔獣の群れですね。マナの暴走で凶暴化しているみたいです。……行きましょう。神殿の外に出すわけにはいかない。精霊術で一度に叩きます」
凶暴化した魔獣はとにかく危険だ。場合によっては増殖することもある。
まずはすべて倒さなくては。マナの調査はそのあとでいい。
「……おいおい。なんだこれ……!」
ひらけた場所に出たフランたちは、目に飛び込んできたその光景に息をのんだ。
神聖な空気に満ちた大広間だった。
天井をつたって壁を流れる水。奥にある純白の石でできた噴水の中央には、髪の長い女性の像が飾られている。ネレイスの像だろう。
噴水の前には獣がいた。十匹以上の魔獣の群れだった。鋭い牙と爪を持つ、灰色の体毛に覆われた狼のような獣だ。
魔狼ガルム。人や家畜を喰い殺す恐ろしい魔物である。
だが、問題はそこではなかった。
「いやいや、おかしいだろ。なんであんなとこに……」
シグが困惑に満ちた声を発する。無理もない。
魔獣の中に人がいたからだ。
唸る獣たちに囲まれるようにして、ひとりの人間が立っていたのである。
「──マドレーヌ!?」
フランは大声でその人間の名を口にした。驚きのあまり、杖を落としてしまうところだった。
獣の群れの中心にいたのは、少女だった。
第三師団の兵士ではない。そもそも彼女は騎士団に属してすらいないのである。
青色に輝く華々しいドレス。丈の長い裾のスリットから覗くレースは、光を浴びた雪のように白く眩しい。後頭部でまとめられた髪の毛は、陽光のような金色をしていた。
遠目からでもわかるほど美しい顔立ちをしており、華奢ながらも雰囲気には威厳がある。高貴な身分であることは一目瞭然だった。
「フランさま!」
広間の入り口に立つフランの姿に気づいた瞬間、少女はぱっと破顔した。
蒼色の瞳がきらきらと光る。晴天の下で咲き誇る花のような満面の笑みだった。
人喰い狼に囲まれている状況とは思えない。その無邪気な明るさが、灯りのようにあたりを照らす。
「ああ、フランさま……! わたくしをさがしにきてくださったのですね!」
「ええ!? いや、申し訳ないけどそうではなくて、というか、なんで君が──……って、マドレーヌ!」
一匹のガルムが、少女の背後からその頭部をめがけて飛びかかった。フランの叫びに、金髪を揺らし少女は振り向く。
獰猛な爪が風を切り、少女の白く美しい肌を切り裂くかと思われたときだった。
「──邪魔をしないでくださる?」
少女の眼前で、獣のからだが真っ赤な炎に包まれた。
「まさしく獣ですわね。わたくしとフランさまの感動の再会に水を差すなんて、野暮な真似」
一瞬のうちに燃え尽きるガルム。わずかな灰を残すこともなく、その魔物の命は散った。
周囲の獣が一斉にグルグルと唸ったが、少女は怯まない。それどころか、胸元から取り出した扇子を片手に、強気な態度で言い放つではないか。
「いいですわ。そちらが水を差すというなら、こちらは火をくべましょう」
蒼い瞳に火華のような光が宿る。ドレスの裾が風に吹かれたように揺れ、金色の髪がふわりと浮いた。
「燃えなさい──レヌ・フランベ」
静かな詠唱が響き、紅蓮の炎が燃え盛る。
少女の周りを円のように取り巻いた劫火の渦が、目が眩むほどの明るさをもって神殿内を赤々と照らし尽くした。
その劫火が、獣の群れをあっという間に焼き払った。
塵ひとつ残さず消滅したガルムたち。フランが手を出す隙もない。
「すげえな……あれがマドレーヌさまの火の精霊術か」
唖然としたようにシグが呟く。
魔獣の脅威を退けた少女は、何事もなかったかのようにドレスの乱れを直していたが、やがてはっとしたようにその視線をフランに向けた。
「フ ラ ン さ ま~!」
歓喜に満ちた声でフランの名を呼びながら、金髪の少女が両手を広げて突進してきた。丈の長いドレスを着ているとは思えない素早さだった。
その勢いに身の危険を感じ、思わず後ずさろうとしたフランだったが──遅かった。
「ぐえっ」
ほとんど衝突するように正面から抱きつかれ、そのまま押し倒されてしまう。
「ああ、四日ぶりのフランさま……お元気でしたか? 騎士団にいいように使われてお疲れではありませんか? あまりに酷いようであれば、わたくしから伯父さまに文句を言っておきますが」
「ちょ、マドレーヌ! 重っ……くはないけど、苦しいって! 少し離れて……!」
古びた神殿の床の上で、高価なドレスが汚れることも厭わず、少女はフランにしがみつく。
首の骨が折られるのではないかという力強さに、フランは呻いた。
「けれど、まさか迎えにきてくださるなんて。感激と歓びで、いまなら村ごと焼き尽くせそうです」
「それはやめて。そしてごめん。今回は魔獣退治の任務でこの村にきたのであって、君に会ったのは偶然なんだ。むしろマドレーヌはどうしてこんなところにいるの」
自身の上にのしかかる少女をやんわりと引きはがしながら、フランは問う。
まさか、と言いたいのはこちらの方だった。いったいだれがこの場所で彼女と遭遇することを予期できるのだろう。
「あら、そうだったのですか。かまいませんわ。偶然の方がかえって運命を感じますもの」
少女は微笑み、澄んだ蒼色の瞳をきらきらと瞬かせた。周囲に花が舞っているかのように見えるほどの浮かれ具合だ。
「わたくしがここにいたのは身を隠すためですわ。お父さまが差し向けた追っ手をかわすうちに、気づけばこんなところに」
「だからってふつう神殿には忍び込まないでしょ。何があるかわからないのに」
予想以上に奔放な少女の回答には呆れるしかないが、一応は納得した。そうだ。彼女はこういう人間だった。
マドレーヌ・サラマンダー。
ノーナ王国騎士団総団長、カイヨウ・サラマンダーの姪にして、サラマンダー侯爵家の一人娘。
現在は行方不明とされている家出少女。
七歳のときに出会い、今日までの日々を共に過ごしてきたフランの幼馴染だった。