第七十六話 知らない人がいるような気がするけど誰なのか知らない
夕食の前にお風呂に入ってから談話室に移動して誰もいないソファの上で横になっていた。横になるのなら自分の部屋ですればいいと思うのだけれど、部屋で横になってしまったら本格的に眠ってしまいそうなくらい体が疲れていた。千雪ちゃんのように若くて元気な子と遊ぶという事がどれだけ大変なのかという事を実感しつつも、俺の体は今すぐにでも休息に入りたいという合図を送り続けているのである。
「ご飯が出来たから食堂に行くぞ。そんなに眠いんだったら晩御飯を食べないで部屋まで帰るか?」
俺はそれもいいかもしれないと少しだけ思っていた。それくらい疲れてはいたのだけれど、さすがに空腹感を感じなくなるほどではないのだ。むしろ、何か食べてからゆっくり眠りたいとさえ思っていた。
「今から行くからちょっと待っててくれよ」
俺はちょっとだけ間をあけてそう伝えたのだが、俺が体を起こして歩きだそうとした時にはもう誰もいなかったのだ。せっかちなやつだなと思って食堂へ向かおうと思った時に気付いたのだが、今俺に話しかけてきたのはいったい誰なんだろう。鬼仏院右近かと思ったのだけれどあいつなら俺に話しかける前に起こしてくると思うのだ。となると、俺に話しかけてきたのはいったい誰なんだろう。おそらくは良い匂いに誘われた俺が起きるために見た夢か幻なんだろう。だが、そこまでいい匂いは感じていないんだよな。
食堂にはみんな揃っており、俺は千雪の隣が開いていたのでそこに座ることにしたのだけれど、なぜかみんな俺の事をじっと無言で見つめてきていたのだ。
「お姉ちゃんの隣も空いてるんですけど、お兄さんはそこでいいんですか?」
「え、唯の隣って男の人が座ってなかったっけ?」
先ほど確認した時は唯の隣に誰か男の人が座っていたように見えたのだけれど、千雪ちゃんの言う通りそこには誰も座っていなかった。俺と右近以外に男はいないのでどんな人が座っていたんだったかなと思い出そうとしてもなぜかその姿を思い出すことが出来なかった。
ちょっと横になったくらいでは疲れはとれないのかなと思いつつも、今更席を移動するのも変な感じになるので俺は千雪ちゃんの隣でご飯を食べることにした。
「あの、今日一日千雪がお兄さんと遊んであげたせいでお兄さんが千雪の事を好きになったんだとしたらごめんなさい。千雪にはそういうつもりは全くないんで諦めてくださいね。千雪はお兄さんの事は友達とか親戚のお兄さんくらい誌にしか思ってないので恋愛感情とかは芽生えないと思います。それに、お姉ちゃんがお兄さんの事を好きだって知ってるので略奪するとか全然考えてないですから。だから、お兄さんは万が一にも千雪の事を好きになったなんて思わないでくださいね」
「うん、俺も千雪ちゃんに対してそういう気持ちは一切持ってないから安心してね。大体、俺は千雪ちゃんみたいな子供は恋愛対象にはならないからさ」
俺が言葉をまだまだ紡いでいこうとしていたのだけれど、千雪ちゃんは俺の言葉を遮るように角煮を一つ俺の皿から奪っていったのだ。角煮自体は美味しかったので取られたのは少し悔しい気持ちもあったのだけれど、それ以外にも並んでいる数多くの料理を思えば角煮を二つも食べるなんて俺の胃は耐えられそうにも無いな。
「そんな風に言われると千雪が魅力のない女みたいに聞こえるじゃないですか。そんなことを言っちゃうお兄さんは罰として角煮を一つ失ってしまいました。こんなに美味しい角煮を一つしか食べられないなんて可哀そうなお兄さんですね。返してほしかったら今の千雪はまだまだ成長途中でこれから将来が楽しみだって言ってください。そうすれば許してあげてもいいですよ」
千雪ちゃんの言葉は俺に向けてのモノだと思うのだが、なぜか千雪ちゃんの視線は俺ではなく髑髏沼愛華に向けられていたのだ。髑髏沼愛華は背も高くてスラっとしている美人で大人な女性なのだが、大人なわりには胸がかなり控えめになっているのだ。それこそ、中学生の千雪ちゃんとサイズが変わらない程度にしかないそうなのだ。直接聞いたわけではないのだけれど、水着を買いに行った時に自分の代わりに千雪ちゃんに試着させていたという事を考えれば色々と察してしまうというものだ。
「おい、今何か失礼な事を考えているよな。私に対して失礼な事を考えているのは間違いないよな?」
「……え、俺?」
「そうだよ。お前だよお前。今千雪ちゃんの言葉を聞いて私の事を考えただろ」
「いや、別にそんな事は考えてないって」
「そんな事とはどんなことなのかな。返答次第ではお前の目の前にあるエビフライを私が頂くことになるんだがそれでもかまわないという事かな」
俺が髑髏沼愛華の事を考えていたのは事実ではあるのだが、そこまで怒る事なのかという疑問もあった。そもそも、俺は髑髏沼愛華の胸が小さいことを悪いことだとは思っていない。むしろ、バランスの取れた素敵な体型だとさえ思っている。でも、さすがにこの量の料理を全部食べきることは出来そうにないのでエビフライは諦めることにしよう。
俺は自分の目の前にある残ったエビフライをそっと髑髏沼愛華の前まで差し出したのだ。一瞬驚いているように見えた髑髏沼愛華ではあったが、そのまま差し出された皿からエビフライを取ると自分の皿へと移していたのだった。
「じゃあ、ついでに残っているマカロニサラダもいただくことにしようか」
その言葉を聞いて俺は髑髏沼愛華の箸が伸びてくる前に皿を自分の前へと戻していた。髑髏沼愛華がマカロニサラダと言った瞬間にはもう皿を戻していたのだ。
「エビフライはいいけどマカロニサラダはダメだろ。こんなに美味しいマカロニサラダを今まで食べた事が無かったんだから、これだけは取られたくない」
「あ、すまん。それは申し訳ない。もし良かったらなんだが、私の分のマカロニサラダをあげようか?」
俺は髑髏沼愛華の提案を快く受け入れて世界一美味しいと思えるマカロニサラダを堪能する事にした。
多くの料理が並んでいてどれもこれも美味しいのだけれど、なぜかこのマカロニサラダが一番美味しく感じていたのだった。




