Day-2、準備
「あら、随分と支度が早いわね?」
「そうですか? いつもの事ですよ」
部屋での準備が完了し、外に出かけるのに最低限の物を鞄に詰め終えた僕は、2階の玄関近くの廊下で待っていた。
「それでも早い方よ。 ジェームズなんてこれから10分は来ないんだから」
笑ってそんな事を教えてくれるが、フミエさんもかなり早い方だと思う。
集合時間までまだ5分以上もあるんだから。
「どうやら、早く来るのが癖みたいです」
日本では5分前行動と言うよく分からない文化があるから、慣れてしまった。
そもそもなんで5分前行動が当たり前なんだろう。
あれなんて、ただの心構えみたいなものなのに。
『心得え』がいつのまにか『目的』になっている。
不思議なものだ。
そんな事を思っていると「それでも偉いわ」と、頭の上に何か温かいようなものが触れた。
撫でられている。
そう気づくのに、少々の誤差。
「凄いわね」とポンポンと手が置かれる。
だけど「もう中学生なんですけど……」とは言えずに、何も出来ないままでいた。
「息子が居たら、こうなっていたのね……」
小さな呟き。
気のせいかもしれないが、その言葉にはどこか悲壮のような物を感じた。
「……」
しかし、参ったものだ。
こう言う時、僕はどうするれば良いのだろうか。
今は黙っているが、ずっとこうする訳にもいかない。
だけど、どんな返事をすればいいかも分からない。
「……」
フミエさんがニコニコしながら頭を撫で、僕は黙って立っている。
側から見れば、本当の母子に見えるだろう。
嬉しいけど、どこか恥ずかしい。
そんな延々と時間が続く。
どのくらい時間が経っただろうか。
フミエさんがふと「それにしても……」と呟いた。
「どうしたんですか?」
「あの娘、遅いわね……」
「確かに……」
僕がここに来てからそれなりの時間が経った。
今は何時か?
正確な時間は分からないが、おそらく10分は超えているはずだ。
だが、肝心のスミスティーさんはまだ降りてこない。
「いつもならもう来てるのに……どうしたのかしら?」
「見てきましょうか?」
あまり行きたくないけど、何かあったら大変だ。
そう思い、フミエさんの返事を待っていると、上からドタバタと激しい音が聞こえてきた。
どうやら、準備が終わったらしい。
「そろそろ来るみたいですよ」
「そうね……これはちょっと罰が必要ね」
「罰?」
「後でのお楽しみよ?」
「……」
そんな会話をしていると、ご本人の登場。
スミスティーさんが降りて来た。
彼女の格好は昨日とは違い、シルバーの髪をハーフアップでまとめ、青を基調としたワンピースドレスを着ていた。
──かわいい。
そんな感想が心の中で漏れる。
ただ、決して口が裂けても言えない。
言ったら最後ではないが、面倒くさい事になるだろう。
思わず、想像がついてしまうほどに。
すると、隣から「You"re late」とフミエさんの英語が聞こえて来た。
少し厳しめの口調。
“late”って言ってるからたぶん遅いと言ってるんだろう。
さっき、「罰がある」なんて言っていたし。
一方、遅れてきたシェリーも「I’m sorry but I don’t tell you. It's a long story.」と英語で反論していた。
この辺はまだ理解できる、
でも──。
「I don't listen to excuses. I have one thing to say. Why are you late?」
「I have my reasons. I don't have to say it.」
「why?」
「……」
もうダメだ。
全然分からん。
早すぎてついていけない。
何て言ってるんだ?
Lisetenは聞くだけど……excuses って何?
それにreasonとも言っているし……。
えっと……。
頭の中で翻訳している間にも2人の会話はどんどん進んでいく。
「いきなり出かけるっていうからよ。 突然過ぎたから支度に時間が掛かったのよ」
「洗濯なら一昨日したわよ? それを着ればいいじゃない?」
「嫌よ。 身だしなみは整えるのが常識よ」
「……」
もう無理だ。
クローゼットとかファッションとかは聞き取れるけど、何を言ってるのかさっぱり分からない。
そもそも毎回思うのだが、よくこんな早く言って相手に通じるよなと思う。
ネイティブだから?
日本人とは何か違うだろう。
それにして、これを1か月で習得か。
随分と遠い道になりそう。
ペラペラペーラと英語を話す自分。
ダメだ。
まったく想像できない。
「I say you're going far away during this holiday? Why don't you prepare?」
「I’m sorry. but I haven't heard of going today.」
「……」
目の前で繰り広げられているイギリス家族による母娘喧嘩。
映画でしか見たことがないような光景。
これがイギリスか。
感心しながら、事の顛末を見届ける。
日本語で言って欲しいな、なんて思いながら。
──その直後だった。
「そうね……じゃあ、今日は特別に許すわ」とさっきまで流暢な英語を話していたフミエさんが、いきなり日本語で告げたのだ。
その願いが叶ったのか?
いや、たまたまか。
「……そう」
フミエさんが言語を日本語に戻ったからか、スミスティーさんも日本語に変える。
だが、その口調はまだ厳しい。
というか怖い。
今にも睨んできそうだ。
「……」
何かあると思っているのだろうか?
実際には、さっき聞いたフミエさんの罰というものがあるけど。
そして、実際に今からその『罰』を告げるんだろう。
フミエさんが僕にウィンクしたのは、そんな時だった。
「キャシーちゃん? 今から遅れた罰を与えるわ」
「何?」
「今日のヨーク観光だけど……貴方が案内しなさい」
「えっ?」と同時に「はい?」と言葉が被さる。
僕たちの声が重なった瞬間だった。
「聞こえなかった? 私は今日のご飯の食材を買うから、貴方が晃介くんを案内するのよ」
「……」
何それ?
僕とスミスティーさんの2人でヨークの街周りをするの?
嫌な予感がする。
そう思ってチラリと隣を見れば、スミスティーさんの体は、小刻みに震えていた。
まるで機械のように。
そして地震のように。
「……」
表情に変化はない。
無いけど、明らかに怒っている。
嵐の前の静かさというもだろうか。
ちょっと刺激しただけで、すぐさま大噴火しそうだ……。
──どうするんですか?
そう思ってフミエさんを見る。
しかし、彼女は彼女でニコニコとしていた。
口元では小さく何かを呟いている。
えっと……『楽しんできてね?』
「……」
ダメだこれ。
絶対に楽しんでるパターンだ。
恐る恐ると横に首を向けてみる。
溜めに溜まっていた彼女のマグマが大放出したのは、その直後だった。