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僕の初恋は今でも忘れない。
立石のぞみ。
僕は当時立石さんと呼んでいたが、下の名前まで覚えている。平仮名の名前だから、名簿を見ても一瞬で見つけることができたし、なにかの名簿を見るたびにその名前を探した。
初恋のきっかけは図書委員で一緒になったことで、もともと容姿が完璧だった立石さんを好きになるのに時間はかからなかった。それから何気ない毎日が楽しくてしょうがなく、図書委員としての雑務をこなしながら立石さんと雑談を交わすのが僕の至福の時となっていた。
結局僕は最後まで勇気を出すことが出来ず中学を卒業し、立石さんとは高校も別々だったのでそれから会うこともなかった。
僕の初恋は甘酸っぱい思い出としての結末を迎えたのだ。
そんな中学時代の初恋を思い出したのは、他でもない、この女の人が立石さんにそっくりだからだ。
中学生の頃の立石さんの髪と身長を伸ばし、胸を少し膨らませて顔を少し大人にすれば、間違いなくこんな感じだった。
「本当にありがとう。」
彼女にお礼を言われ、短い回想が終わる。
僕と彼女は大きく肩を上下させ、乱れた息をゆっくりと整える。
僕は少しためらって、静かに玄関の鍵を閉めた。
「と、とりあえず、あがって。」
「ありがとう。」
数日蛇口から落ちる水滴の音が聞こえるほど静かだった部屋に、二人の落ち着かない足音が響く。
なれた手つきで部屋の電気のスイッチをオンにする。二、三回ピカッと光って、部屋の電気がついた。
「適当に座っていいよ。」
「ありがとう。」
彼女はまた、お礼を言った。
それからしばらく沈黙が続いた。僕はその間に、湧き上がってくる数々の疑問を質問として彼女にぶつけることを我慢した。
なぜどこかへ隠れなければならなかったのか。誰かに追われているのか。なぜ逃げなければならないのか。もしかしたらさっきの男の怒号と関係しているのか。僕の家に逃げてきてその後どうするつもりなのか。名前は何なのか。もしかしたら立石さんなのではないか。
分からないことが多すぎて、少し混乱しそうになった。
僕は逃げ出すようにキッチンへ向かった。水道水を飲むためだ。
「あの。」
僕が水道の蛇口をひねったとき、彼女は口を開いた。
「あなたの名前は何というんですか。」
名前を聞いてきた。意外だった。
僕は水道水を垂れ流しにしたまま答える。
「犬養広夢。です。」
「ひろむさん…」
僕はギョッとした。
彼女は僕の部屋の真ん中で、正座をしていた。そして両手を前につき、丁寧に腰を曲げた。
異様な光景に一瞬理解できなかった。彼女は僕に、土下座をしていた。
「今晩だけ、私を泊めてくれませんか。」
水道水がシンクを叩く音が聞こえる。ボボボ、ボボボ。
排水溝が詰まって溜まった水が、一斉に流れ出すように、僕の時間は動き出した。
*
薄々感じてはいたが、彼女は僕の初恋の相手ではなかった。
彼女の名前はミユといった。
女性の土下座の頼みを断るほど僕は芯のある人間ではなかった。
さっきスーパーで買ったカレーをミユと分け合い、僕はベッドで、彼女は床で寝ることになった。僕が床で寝ると言ったのだが、彼女は頑なに断った。僕は毛布を彼女に渡して、部屋の電気を消した。
僕たちはあまり話をしなかった。
一晩泊めるだけであって、僕が彼女の問題を解決できるとは思えなかった。だから僕は彼女に何も質問しなかったし、彼女もわかっているのだろう。名前以外は何も話さなかった。
この奇妙な出来事も、すぐに終わる。明日からまた、いつも通りの日常が来る。退屈で、どうして生きているのかも分からない日常。
ベッドで目を閉じているのに、じわじわと黒い影が迫って来るような感じがした。
***
起きると、いい匂いがした。
キッチンで誰かが卵を焼いている。
「あ、ひろむくん、起きた?」
その声ではっとなった。僕は昨日、ミユと名乗る謎の女性に出会い家に泊めたのだ。
「キッチン借りてるね。」
ジュージューとフライパンが卵を焼く音がして、まるで久しぶりに使われたフライパンが喜んでいるみたいだった。
間も無くきれいに焼きあがった目玉焼きとベーコンが卓に並んだ。朝日に反射して黄身がきらきら光っている。立ち上る白煙が僕の鼻に入り、自分が空腹であることに気づく。
「あ、ありがとう、えと、ミユ…さん?」
「ミユでいいわ。さ、召し上がれ。」
家で人にご飯を作ってもらったのは久しぶりだった。なんだか懐かしい感じがして、どんな顔をしたらいいか分からなくなる。
「いただきます。」
格別だった。
特別といったほうが適切かもしれない。
ただの目玉焼きとベーコンのはずなのに、美味しくて、僕にとっては非日常であった。
「ひろむくん。」
「広夢でいいよ。」
「え、あ、うん。ひろむ。」
僕は彼女を見た。
困ったようにはにかんでいる。
何かを言おうとして、またはにかむ。
「どうしたの?」
僕は優しく声をかけた。
暗かったはずの部屋に、光がいっぱいに差し込む。光は満タンに満たされて、もう溢れそうだ。
「ひろむ、私、わがまま言ってもいいかな」
「うん、なに?」
「私、もう少しだけ、ひろむと一緒にいたい。」
僕は意外にも緊張はしていなかった。ただ静かに、美しい曲線を描くように高揚した。
僕は願った。
終わらないでほしい。
この幸福が、この特別が、永遠に終わることなく続いて欲しい。
彼女と一緒に、いつまでも非日常を過ごしていたい。たとえ僕が危険な目にあうことがあろうとも、眠れない夜が続くことがあろうとも、彼女と一緒なら怖くない。
真っ直ぐにピンと張り詰めていた直線は、緩やかに弧を描く三角関数のようにゆらゆらと揺れる。
よく晴れた春の朝に、温かい風を吸い込んだ僕の胸は、輝かしい未来の塊でいっぱいになった。