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「ごめんねえ、広夢君、俺の実力がないばっかりに」
「いえ、一年間お世話になりました。」
申し訳なさそうに後頭部をかきながら謝る店長に、僕もへこへこと頭を下げた。
僕が一年間と数ヶ月働いていたのは、個人経営で客の少ない居酒屋だった。遅かれ早かれ来るのではないかと予想していた店じまいは、僕が大学二年生になったばかりの春休み中に起きた。
初めて経験したアルバイトで僕が体に染み付いたことといえば、炭とタバコの臭い、そしてこの頭を何度もへこへこする行為くらいだ。
僕にとって、アルバイトはさほど重要ではなかった。奨学金と親からの仕送りがあれば生活には困らないからだ。
しかし、店のシフトに週五以上入っていたためサークルには結局入らず、学科の友達も全くいない。僕は春休み中期に突然莫大の時間を放り投げられてしまったのだ。
居酒屋のアルバイトの予定が突然なくなり、僕は半分放心状態となった。サークルに入るにはタイミングが悪いし、金に困っていないこともあり新しいバイトにも中々意欲が持てなかった。
結果、何もせずに家に転がる生きた人形状態になるのは回避できなかった。学生という身分を除けば、それはニートよりも、何かに対するやる気もないように思えた。
ユーチューブを見て、飯を食って、オナニーして寝る。起きてユーチューブ見て飯食ってツイッター見てオナニーして寝る。一日の半分以上を睡眠に費やした。
今日も起きたのは昼の二時で、大きなクッションにもたれかかって携帯を眺めている。
きっとこんな生活を誰かが知ったら、誰かが見ていたら、きっと羨ましいとか、もっとやることあるとか、自分に分けてくれとか、時間の無駄使いとか、そんなことを言うのだろう。以前の僕だってそうだった。時間と余裕が欲しいと願っていた。
しかし結局は無い物ねだりで、実際に有り余るほどの時間を突然渡されたらこうもやる気が無くなってしまう。莫大な時間に甘えてしまうのだ。
『やあどうも東海オンエアーの…!』
目の前の小さな箱でユーチューバーが楽しそうに話している。
いいなあ、この人たちは。楽しそうで。
その時、アイフォーンの画面が突然黒く変わった。充電が切れたのだ。黒い画面に反射して、全く活力のない僕の顔がそこには写っていた。
僕は携帯を充電器に繋げることもせず投げ捨てた。
結局は無い物ねだりなんだ。
深いため息をついて、僕はクタクタのクッションに顔を埋めて、眠くもないのに目を閉じた。
***
気づくと、時計の針は夕方の六時を指していた。細いカーテンの隙間からピンクがかった夕焼けの光が溢れている。
僕は重い体を持ち上げてキッチンに向かった。立ち上がって頭の血液が引いて、くらくらする。
一人暮らしだからリビングのすぐ隣にキッチンがある。僕は青色の印がついた方の蛇口をひねった。冷水とはいえない水道水が、蛇口内の空気を吐き出しながら飛び出した。両手を皿にして水を溜め、勢いよく給水する。
蛇口を止めて、暗い玄関にぼんやりと浮かぶドアノブに手をかけると、ピンク色の光が玄関に飛び込んできた。
クロックスを履いて、外に出る。
湿気の多い日本特有の生暖かい春風が僕の頬を撫でる。ピンクとオレンジと青の水絵の具が撒き散らされた空。
すうっと、大きく息を吸い込む。
春風の味を確かめ、僕はアパートの階段を降りた。
特に目的はない。
というか、やることがない。
とことん暇な僕は、起きた時間が何時であろうと、こうして優雅に散歩をすることができるのだ。
アパートの階段を降りながら、散歩のコースを決めた。
とりあえず近くのスーパーまで行って、今日の夕飯を買うか。いつもは自転車で行くスーパーなので、散歩にはちょうど良いだろう。
僕はポケットに財布があることを確認し、スーパーの方向へと足を進めた。
しばらく歩いていると、遠くで男の怒鳴り声が聞こえた。
うわあ、なんだろう。怖い怖い。
僕は背後をちらっと見て、青信号に変わった横断歩道を渡った。
今日の夕飯は、レトルトカレーを食べることにした。ルーだけ買って、ご飯は帰ってから炊くのだ。ご飯は実家の母が定期的に送ってくれるので好きなだけ食べることができる。正直お米があることはかなり助かっている。最近はおかずをスーパーで買って、家で炊いたご飯と一緒に食べることが習慣になっている。アルバイトでの賄いが無くなった代わりである。
「ーー!ーーーーーーー!」
また、男の怒号が聞こえた。
まだやってる。一体なんなんだろう。
陽が沈みかけた夕空を見上げたときだった。
「ちょっと、ごめん!君!」
背後から若い女性の声が聞こえた、と同時に、右腕を突然前に引っ張られた。
レトルトカレーの入ったレジ袋がくしゃっ、と悲鳴をあげる。
「はぇ!?」
しばらく人と会話を交わしていない僕からこぼれた声は、思った以上に情けないものだった。
女は僕の腕を引っ張り続け、僕は彼女に合わせて走らざるを得なくなった。
半歩前を走る女は白いパーカーに黒いパンツというシンプルな服装で、髪はストレートで肘のあたりまで伸びている。
「私を助けて!」
彼女は僕の腕をつかんだまま振り向いて言った。
彼女の顔を見たとき、僕はこんな状況にも関わらず心臓がゴムボールのように弾んだ。
彼女は僕の初恋の人にそっくりだった。
初恋の人なだけあって、いわゆる誰もが口を揃えて美人と言うような、整った顔立ちである。
「走って!」
既に走っていたのだが、彼女は叫んだ。焦っているのが伝わってくる。
「どこか!」
「え!?」
「どこか!隠れる場所!」
彼女はまた叫んだ。
僕の頭の中がぐるぐると回る。
「ぼぼぼ」
思わずどもってしまう。
「僕の家は!?」
もはや僕には冷静に判断する余裕は無かった。時の流れが突然音速に変わったような感覚に陥いる。
「お願い!」
彼女は息を切らして言った。
一体、何がどうなってるんだ。
僕は訳がわからなかったが、とにかく家へ逃げなければと思い、今度は僕が彼女を追い越して手を引いた。
僕たちは手をつないだまま、赤信号を無視して僕の家へ走った。
彼女の汗ばんだ手が、僕の手をぎゅっと握りしめた。
もうどうにでもなれ!
僕は半分やけくそになって、西に落ちていく陽に別れを告げた。