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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

抱擁

作者: 大石次郎

繁華外近くの叩けば埃の出るヤツらと外国人だらけのアンモニアと香辛料と、時折10代の頃からよく知ってる甘ったるいが腐った様な煙の臭いがする裏町の路地を、俺は左足を引き摺る様にしながらも必死で走っていた。

手には血の付いたバールを持っている。意外と重く余計に走り難いが手離すワケにはゆかなかった。素手ではどうしようもない。

「何で俺がっ!」

さっき一撃喰らわしてからだいぶ走った。俺は何に対してかはよくわからないが、祈る気持ちで暗い路地の向こうを振り返った。

・・居た。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

頭から血を流しているが、満面の笑顔で叫んできた。チヨミだ。売れない、勝てない元三流女子プロレスラー。今もレスラーコスを着てる。バカみたいに金を払うから店でも店外でも吹っ掛けてサービスしてやったらたった2ヶ月でパンクした。

「頭の病院行けっ! ブスっ!!」

チヨミは俺の言葉にきょとん、としてから自分の頭を触り、触った手を血塗れにしたが、平気だという顔でまた満面の笑顔を向けて、その笑顔のまま全速でこちらに向かって走り始めた。

「足、速いんだよっ、クソがっ!」

俺は近くに詰んであったガラクタにしか見えない物を崩して路地を塞ぎながら走り、逃げた。直線はマズいっ。ヌチヨは身長が180cmはあるから小回りは利かないが、直線だと異様に速い。

俺は複雑に路地を曲がりながら、障害物になりそうな物を片っ端から崩していった。だが、これじゃ長くは持たない。痛めた左足が火傷した様に熱い。アドレナリンが出てなかったら転げ回る程の激痛だろう。息も上がる。

週2回、容姿を保つ為とナメられない為にボクシングジムに通っていたが例え女でも体格に恵まれた元プロに、それも頭のネジが飛んだヤツに敵うワケがなかった。

「店長の言う通りだった」

知らずに口から出た。


・・試合で勝てない、パフォーマンスがハマらない、演出の段取りが悪い、ジムの他の門下生と折り合いが悪い、実家の父親が働かない、弟がまた刑務所に入った、店に通う金は昔風俗で稼いだ貯金がある、等々と俺にだけは打ち明けるといった調子で言ってきたチヨミが簡単に俺にハマり出した頃、俺はチヨミの接客中に店長に呼ばれて釘を刺されたことがあって。

「リョージさ、あの客は程々にしとけ。何人かローテで簡単に対応させる。それでも通ってパンクしたら、まぁ出禁にする。絶対ツケはさせるなよ。あんな女が来るのも仕方無いが、いなしていかないとな」

その時の俺には意味がわからなかった。

「俺の客ッスよ? 大丈夫ですよ。ちゃんと店でも金落とさせますしっ」

首まで刺青のある店長は重い煙草を吸いながら石か何かの様な目で俺を見た。シメられるか? イキり過ぎたか? 内心冷や汗をかいたが、拳も蹴りも飛んでこなかった。

「あの体格もあるが、ありゃ何も手に入らなかったと決め込んだヤツだ。ま、気を付けろ」

店長は俺の肩に一度手を置いてさっさと店の奥に引っ込んでいった。

「何だよっ、ジジイの説教かよっ」

俺はそんな話はすぐ忘れて、せっせとチヨミをタラして絞り取ることに専念した。お陰で俺は他の若いヤツらと雑魚寝していた臭いアパートから脱出して、オートロックとはいかなかったし、結局裏町の近くだったが、悪臭のしないコーポに一人暮らしできるようになった。

パンクして出禁になったチヨミは金のトラブルで所属した団体からクビになったそうだが知ったことじゃなかった。こんな仕事いつまでも続かないとは思っていたが、今は金を貯める。それだけだった。


だが今日、チヨミが来た。俺は馴染みの風俗嬢を連れ込んで昼前まで泥の様に眠っていた。風俗の女は掃除は全くできないヤツだったけど、意外と料理が得意で、俺が起きる前に何か手の込んだ物を作っているらしかった。俺が最近小金をせびらなくなったからこの女は機嫌が良かった。マイナスしか知らないヤツは『ゼロ』ってだけでありがたがるから不思議だ。

そして、呼び鈴が鳴り、女が口汚く誰かを罵る声が聴こえた。素人じゃない俺には当然他に女が何人かいる。別に楽しくもないが義務感でキープしている。だが、女の声のヒステリックさには恐怖が混じっているようだった。

この手のトラブルに慣れっこの俺は素早く布団から起き、簡単に服を着て、布団の近くの棚にしまってある靴を室内で履いた。一応、近くの窓の鍵を開けておく。2階だが大家が所有している物置の上に降りればいける。

注意深く、言い争いの元の玄関から死角になる様に近付いて様子を伺う。と、ちょうど、近くのテーブルに昨日食べなかったコンビニの梅干しのお握りと、開けなかったペットボトルの緑茶があったので、音をあまり立てない様に取って、開封し、齧り、飲んだ。旨い。お握りとお茶、こんなに旨かったっけ?

「お前っ、ふざけっ、えっ?! それ何?? ・・嫌ぁーッ!!!」

女の悲鳴がして、そのすぐ後に爆発する様に玄関のドアが蹴破られ、ドアと一緒に吹っ飛ばされた女は激突した壁と飛ばされたドアに挟まれて泡を吹いて昏倒した。

「っ?!」

ドアの無くなった戸口の向こうにはレスラーコスを着たチヨミがいた。キメたヤツと同じ、どこにもいない顔をしていた。深海魚のようだ。手には、大きな玉、いや・・ヒロシだっ! 前のアパートで雑魚寝していた一人。チヨミが血の滴るヒロシの頭部を片手に持っていた。

「うっ」

今、飲み食いしてばかりの物を戻しそうになったが、吐いてる場合じゃないっ。よくわからないが、チヨミはブッ壊れた。先に俺が以前住んでいたアパートにゆき、俺の今の住所を聞き出し、ついでに運の無いヒロシの首を狩ってここまで来た。

間違い無く、捕まってタダでは済まないっ!

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

吠えるチヨミはヒロシの首を投げ捨てて、室内に踏み込んできた。俺は逃げ出す前にスマホを手に持ってない事に気付いて自分の間抜けさを呪った。スマホは布団を敷いた部屋の端に転がっていた。昨日、女の画像を撮ってふざけていた結果だった。

女のスマホは高価なはずだが安っぽくみえる女のブランドバッグの中のはずだ。バッグは近くにあったが暗証番号を知らないっ。普通の女じゃないからそこは用心深く俺に知られない様にしていやがったっ。最悪だっ!

俺はスマホを諦め、窓に全速で走り、開け、物置に飛び降り、そこから道路に飛び降りた。

「イテっ」

左足を捻ったのかもしれない。鈍痛を感じたが走れそうではあった。自分が出てきた窓を振り返るとチヨミがカーテンを開けてこちらを見下ろしていた。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

吠えてきた。

「うるせぇっ! 人殺しっ!!」

俺は怒鳴り返して、走った。一番近い交番の位置を思い浮かべる。そう遠くないっ。いける! 後ろでドンっ、と金属がひしゃげる音がした。走りながら確認するとチヨミが重過ぎて飛び降りた古い物置の屋根が抜けた様で、チヨミが足を取られていた。ザマァ見ろっ!


俺は必死で走った。左足が痛むが足は速い方だ。

「あんなヤツっ! 八つ当たりだろうがっ。ボッタクリのフランス料理屋に通って破産したヤツがシェフ殺しに来るか?? 意味がわからねぇっ!」

また振り返るとかなり距離を縮められていたっ。あの図体で信じられない加速だっ!

「お前の失敗に俺を巻き込むなっ! ヒロシだって病気のフィリピン人の彼女養ってたんだぞ?! さっきサンドイッチにした風俗女も・・バカだからサモアに語学留学する金貯めてたんだぞ?!」

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

後ろから叫んでくる。ダメだっ、コイツbotか?! 愛してるだ? お前が好きなのはホストのリョージだ。いやホストに金使ってる自分だ。自分を甘やかすのに金を使い過ぎたのはお前が元々壊れてただけだ。俺の方がダシにされた。本当はお前一人で勝手に潰れるはずだったんだろ? 俺を、巻き込むなっ!!

坂を登り切り、交差点に入る。信号を無視したが、向かってきていた車が遠く気付けることくらいは横目で確認していた。

「馬鹿野郎っ! 死にたいのかっ?!」

運転で気が大きくなってる営業マン風の男が怒鳴ってきたが構わず交差点の向こうの交番に急いだ。営業野郎はこっちが交番に行ったから慌てて車を出して逃げていった。非はないのに、チキンだな。

交番の前で確認するとチヨミは交差点の前の坂見を上がり切った所に立っていた。交番を理解するくらいの理性は残っているらしい。俺はチヨミに向かって中指を立てて冷笑してから交番に入った。だが、

「なっ?!」

無人だっ。何か他に事件でもあったのか? それとも生首持ってたチヨミが通報されたのか? とにかく交番は無人だったっ。

「税金わりと払ってんだぞ?!」

少なくとも店から出る給金は誤魔化しが利かないし、警察は俺達みたいな者に圧を掛けられる口実をいつも探っているから、納税はしていた。血の気が引いたが、それでも、

「電話っ!」

交番には緊急用の電話が設置されていた。据え置きの電話なんてもう何年も使っていなかったが、これなら・・っ?!

悪寒を感じて振り返るとチヨミがゆっくりと交差点を渡り始めていた。無人とバレた? いや違うっ。『警官が居ても問題無い』と判断したんだ。イカれてるっ。電話はしてられないかっ? 交番の正面から出るのはヤバいっ。

勝手口があるはずだから俺は素早く交番の奥へゆこうとしたが扉はロックされていた。舌打ちをして部屋を見回す。入り口から見て側面の壁に窓があり、開いていた。正面より出るよりマシか? 出口に迷うこのロスがあれば電話を掛けられた気がしたが、チヨミが交差点を渡りきってしまうっ。

「畜生っ!」

俺は窓から飛び出した。そのまま1本奥の通りに駆け込んだ。


開けた、真っ直ぐな通りはダメだっ。誰か人はいないのか?! どこか家に入って助けを呼ぶか? いやドアを吹き飛ばすあのパワーだ。俺が解体された後で警察が来ても意味が無い。意味が無い上におそらくその家の人間も全員潰される。無駄だ。意味の無い死に方だ。

「裏町に行くかっ?」

裏町は入り組んでるし、大体道もわかってる。チヨミもヒロシを殺してきたくらいだから全く道がわからないワケじゃないだろうが俺の方が詳しい。馬力が違うのに整理された区画で逃げ回るよりマシだっ。

俺は腹を括って隣の区画の裏町へと走り出した。途中、雑種の犬を散歩してる爺さんと出会してスマホでもケータイでもいいから持ってるか聞いたから徘徊対策用のGPS装置を首からぶら提げてるだけだった。

「くっ・・爺さん、デカい変な女を見たら関わるなよっ?」

「はぁ? 大きい女? 私が子供の頃、お母さんは大きかったよぉ?」

「だろうなっ!」

ラチが開かないっ。俺は先を急いだ。そのまま進むとちょうど、裏町との境目くらいになってくると町工場の類いが目立ってくる。振り返ってもチヨミの姿は見当たらない。まけたか? だったらそこらの工場で電話を借りよう。別に俺が退治する、とかそんなこと考えてない。喉もカラカラだった。

「逃げ切れた、よな?」

俺は走るの止め、一番近い今時雑なブロック塀の先に見えた高台の壁面をコンクリで舗装したすぐ側のいかにも地代の安そうな整備工場に、呼吸を整えながら歩き出した。少しヨロヨロする。左足もだいぶ酷い。冷静になると俺はもう店で働けないな、と気付いた。引っ越しもしなくちゃならないだろう。

税金を抜いて使える貯金は170万ちょっとしか貯まってない。イキって車のローン組んだりしなくて助かった。女達にもらった時計や装飾品なんかも売ればいくらかにはなる。神奈川の実家はクソなので帰れないが、一応商業高校は出ているし、病気の彼女までは知らないがヒロシの香典や、あれで生きてりゃ風俗女の見舞い金を払っても、高望みしなけりゃ何とかなるか? プチ整形はしているが俺は顔もいいし、

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

「っ?!」

高台の上からだっ。見上げると舗装しているコンクリの端にチヨミが立っていた。高所から俺を探していたのかっ?

「嘘だろオイっ」

俺が唖然としているとチヨミは壁面を舗装しているコンクリの傾斜を駆け降り始めたっ! 俺は勿論逃げようとしたが、降りてくる速さが尋常じゃないっ。チヨミが高速で目の前に迫った時、俺は義経に崖から攻められた平家の絶望が理解できた。速過ぎて、無理!

しかしっ、チヨミは馬に乗ってない。勢いが付き過ぎたチヨミは俺と一瞬目を合わせたまま走り抜け、ブロック塀に激突し崩し、ブロックに生き埋めになった。

「死んだ、か?」

様子を伺うと、チヨミはブロックの山の中からゆっくりと身を起こし始めた。

「リョージ君・・・愛して・・る」

「うわぁああっ!!」

化け物だっ。ダメだ! やはり通報するだけじゃ俺は助からないっ。今のでダメージはあった筈だっ。もう一撃は入れないと!

「どうした?! 事故かっ?」

整備工場からどう見ても元ヤンな30くらいの男が騒ぎを聞き付けて出てきた。よしっ、使える! 俺は駆け寄った。

「レスラーの女に絡まれてんだ! 殺されるっ!」

「はぁっ? お前ラリってんのか?」

「あのブロック塀見ろよっ?!」

「あ? ・・マジか?? お前らネットの迷惑系動画とかじゃねぇだろなっ?!」

元ヤン工員は困惑した。そりゃそうだ。

「あんたスマホは? 警察っ。あと他に工員いないのか? あの女、野生の熊と変わらねぇよっ!」

「いや、スマホはテーブルの上だな。今は俺1人だ。つーかアレ、女なのか? 何だ? 痴話喧嘩か?」

ダメだっ。ヤバさを理解してないっ。俺は切り替えた。

「そうなんだよっ。俺じゃ余計ヒステリー起こしちゃうからちょっと宥めてくれねーか? 俺が代わりに通報しとくから、よろしくっ!」

「オイっ?!」

「礼はするっ。車検もここに頼むからっ!」

車、持ってねぇけどなっ! 俺は整備工場の入り口の辺りに元ヤン工員を置いて油臭い工場の中に入った。テーブルの上のスマホはすぐ目に入ったが、ロックされてる。見知らぬ元ヤンの男の暗証番号なんてわかるワケない。事務所は・・

「二階かよっ」

一回の作業スペースを広く取りたいからか、この整備工場の事務所は鉄骨の柱の上にあった。金属の階段を長々と昇らなきゃならない。窓から非常口の誘導灯は見えたがああいうのって鍵が閉まってたり物が置いてあったりする。不確定過ぎる。俺はまた電話を諦めざるを得なかった。クソっ!

イラついたが、工場のテーブルの上に元ヤン工員が飲むつもりだったらしい水滴の滴る未開封のコーラの赤い缶があった。

チラっと元ヤン工員の方を確認すると、近付いてきているチヨミに呼び掛けているようだった。元ヤンでも律儀だな。悪く思うなよ? 俺はコーラを取って開け、炭酸の泡が溢れるのも構わず飲んだ。口で喉で腹で、甘味と香りと冷たさと炭酸が弾けるっ。

「くはーっ! うまっ」

ゲップまでして大満足で身体中に力が漲り、視界も広くなった気がした。店で飲むドンペリや風俗女が「倍良くなるから」と持ってくる甘ったるい腐ったような煙のアレより100倍効くっ!!

だが呑気にしてられないっ。残りを飲みながら、工場を見回す。俺が入り口だと思ったのはこの整備工場の裏手だったらしい。正しい入り口は半分はシャッターが降りていたが残りは全開で出入り自由だった。そこからいかにも小汚いラーメン屋が見えた。

あの看板は見覚えがある。あの通りからなら裏町へすぐいけるし、場合によってはあのラーメン屋で通報しちまってもいい。営業中の飲食店の勝手口は作業の効率から中からはガバガバになっているはずだ。どうとでもなる。それでも、

「そのまま逃げても絶対追い付かれる」

俺は戸惑う元ヤン工員の反応からチヨミがすぐ側に来たことを察し、俺は飲み干したコーラの缶をテーブルに置き、また軽くゲップをしながら脚立も見えた金属の工具やタイヤ等を納めた棚が3列並んだ場所に移動した。

「これ、か」

俺は手頃なバールを手に取った。俺の腕力とブロック塀に激突しても起き上がるあの頑強さを考慮するとこのサイズしかなかった。ナットも1つ取る。脚立をなるべく死角に移し、改めて左足が痛んだが昇り、金属の棚の上に上がった。埃まみれで最低だし、しゃがむと更に左足が痛んだがしょうがない。死んでたまるかっ。

「オイっ! 何だよっ? 聞こえてないのか?! オイっ、く、来るなよ? 俺は前、半グレの・・来るなっ! 何だ? ちょっと、バックレたのかアイツっ?!」

元ヤン工員も振り返って俺を探したが裏手口のあの位置からだと作業場の灯りが点いてないと、棚の上のこの位置はそのつもりで見上げてないとわからないはずだ。

元ヤン工員の前に全身傷だらけになったチヨミがゆらり、と現れた。悪いな、あんた、運が無かった。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

「なっ?!」

間近で叫ばれて絶句する元ヤン工員っ。チヨミはその顔面に拳を叩き込んだっ。

「んべっ?!」

2メートルはぶっ飛ばされ転がされる元ヤン工員っ! 鼻がひしゃげ、泡を吹いて痙攣して昏倒した。俺は冷や汗が止まらないっ。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

工場内を見回すチヨミ。あそこから見て、人が潜めそうなのは作業途中のトラックの陰とこの棚の列だけ。棚の方が近い。来るはずだ。もし、やり過ごせるなら2階の事務所にあるはずの電話で通報するだけだ。時間に余裕があれば難があったとしても非常口も通れるようにできるだろう。

ただ思ったより間が空いたからさっさと逃げときゃよかったとも少し思ったが、もう手遅れだった。

「リョージ君・・」

チヨミは棚の方に来た。鼓動が早くなる。俺は棚の上で更に姿勢を低くした。

「愛してる・・」

裏手口から見て一番手前の棚の列を確認しに掛かるチヨミ。その列には脚立も無い。視線は『上』に向かないはずだ。もっと棚に近付け、もっと、もっと・・来た!

俺はナットを棚と反対側に投げた。床に落ちてカン高い反響音を立てるナット。チヨミは素早く振り返った。今だっ。

左足の痛みも関係無いっ、俺だけ生き残る! 俺だけ生き残る! 俺だけ生き残る為に死ね!! 棚を上を駆け、バールを両手で構えて後ろ姿のチヨミに飛び掛かる。大して高くない。着地は考えない。バールの切り込みのある先は柄が曲がっていて当て難い。俺はバールの背を下にした。これでも俺の体重と助走が加われば相当なパワーが出るはずだっ。喰らえっ、チヨミ!

チヨミがこちらに気付いた。遅いっ。

「うらぁっ!!」

全力で頭頂部に振り下ろすと硬いココナッツでも殴った様な手応えを感じた。血が飛び散るっ。やったっ。だが俺の着地はめちゃくちゃになった。

「だぁっ?!」

尖ったバールを持ったまま転がるっ。危ねぇっ! 左足もだが全身痛い。それでも、顔を起こしてチヨミの方を見ると、チヨミは頭頂部から冗談みたいに血を吹き出し、よろめいて倒れたっ!

「よっしゃあっ! ザマぁっ。殺った、よな? これ完全に正当防衛だわっ、マジで」

俺は呼吸を整えながら血まみれで倒れたチヨミに近付く。

「っ?!」

チヨミはカッと目を見開き、起き上がり始めた! またかっ。

「お前、どうやったら死ぬんだよ?」

俺は後退りながらも一度はバールを構えた。だが背の高さ、腕の、脚の、胴の、首の、その太さ! 筋力っ! とてもじゃないっ。それでもこの出血だ。まだ頭から血を流してる。俺と違い水分も取ってないんだろう、唇がガサガサに乾いていた。

「やってられるかっ!」

俺は踵を返して表の方の出口走った。あっちの通りの方が目だつ。通報するまでもない。血の着いたバールを持った男と血塗れの女子レスラーが走っていたら必ず誰かが通報する! 何も俺が全部することはない。それにチヨミはもうすぐ脱水症か出血で動けなくなるはずだ。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

お決まりの台詞。うんざりだっ。チヨミがまた追いだす気配を感じたが、追い付かれる気はしなかった。逃げ切ってみせるっ!


裏町まで来ていた。遠くにパトカーのサイレンも聴こえる。誰かが通報したんだ、上手くいってる。

「痛ぇっ」

知ってる限り、あちこち路地を曲がって、チヨミの走力を殺いできたが左足がそろそろ限界だった。どうする? チヨミは異様に感がいい。いや、俺の走力が落ちてるのと俺の足で行けそうなルートしか取れてないから読まれるんだ。俺は物陰に隠れ、二股の薄汚れた小道のどちらに俺がいるか迷う素振りのチヨミを伺いながら呼吸を整えた。

今もそうだ。体力が限界でここで距離を稼げない。もう一方の道の先には足の負担にらなりそうなボロボロの階段があって選べなかった。時間は稼げたし、実際チヨミの顔色は悪くなってきていたが、動きは全く衰えていない様に見えた。

「何でずっと動けるんだアイツ? どうしたらいい? またどこか建物の中か高低差のある場所でブッ込むか? パトカーのサイレンの方の、表通りの方に行くか? 最初からそっちに行っときゃよかったのか?」

また喉がカラカラで、疲労と左足の痛みで、俺はワケがわからなくなってきた。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

botだ。叫んでやがる。何が愛だ。子供の頃は継母にボコボコにされてた。弟はそれで死んだが、警察が間抜けだったから事故になった。親父は若い継母に甘かったし、新しく生まれた妹と弟に夢中だった。

俺は殺される前に小3で自分で施設に行ってそこで育った。くだらないっ。施設には自分が可哀想過ぎて使い物にならなくなった子供が何人もいた。俺は違うっ! 俺はこんなところで自滅するヤツに巻き込まれないっ。

チヨミが動いた。衰えない足取りで正しく俺がいる小道を選んで進んでくる。クッソっ。プロの身体性のあるヤツがブッ壊れた時の耐久力を甘く見てた。俺はこれ以上の反撃は諦めた。

頭が飛んでるチヨミは身体が完全に利かなくなるまで同じパワーで動けるだろうが、こっちはもうさっきと同じパワーでバールを振るえないし、この痛みを通り越して熱くてしょうがない左足で高所に登ったり素早く奇襲したりするのは無理だ。同じ様な手も食わないだろう。

「やりようはあんだよっ」

俺は折れてはいない。頭の中で裏町の地図を浮かべて、ここから足に負担を掛けず、長い直線を避け、表通りに抜けるルートを計算した。やれる! 俺は必死で走った。重くてしょうがないが、バールはギリギリまでキープするっ。

途中、どういうシフトか知らないが娼婦風の疲れた顔の外国人2人組や10代のイキり散らした感じの3人組と出会したが、すぐに話しを通せそうにない。余計な手間になるだけだ。俺は相手が俺の様子とバールにギョっとしている内にその脇を走り抜けていった。

改めて、表通りに、出られる! 小道だ。後ろにチヨミの足音も感じない。だが、この先は表通りでも今の時間帯、人が少なかった。段差があるが右手のインチキ新興宗教の施設の塀をよじ登って1本手前の小道から抜ければ隣の区画のコンビニにもわりと近い。道幅があるからたまにタクシーの運転手が休憩したりする場所。夜はカーセックスするヤツらで軽く渋滞したりもすることもある。とにかく人の多い通りまですぐ近くで、追い付かれても何とかなりそうな所だ。

「やるか? ・・やるっ!」

最初からそっちのルートにしときゃよかったが、俺が足を庇ってるとチヨミも思ってるなら予想外なはずだっ。俺は走るのを止め、バールを塀の飾り穴に引っ掛けたりして必死でよじ登り、施設の敷地に入った。

そのまま通り抜けてゆくと施設の菜園で農作業をしていた宗教服を着た母子の母親が「ひぃっ」と驚いて戸惑った顔の幼い子供を抱き締めて庇った。俺は舌打ちした。子供を宗教に巻き込みやがってっ。覚えちゃいないが俺の産みの母も宗教狂いだったそうだ。イカれた『儀式』で焼死してる。

俺は母子を無視して施設の敷地を抜け、予定より1つ前の通りに出た。


区画が1つ違うだけで嘘の様に悪臭から遠ざかる。パトカーのサイレンが近くで聴こえる。サイレンを聞いて安心したのは初めてだ。俺の視線の先には路肩に車窓を全開にしたタクシーが停められていて、それに適当に制帽を被った小太りの初老の運転手がもたれて呑気に煙草を吸っている姿があった。天国の景色の様だった。

そうか、今気付いた。俺はコレくらいの暮らしでも十分だという考えを持っていたらしい。俺が苦笑しながら左足を引き摺ってタクシーに近付いてゆくと、気付いた運転手は当然引きつった顔でミント入りの煙草を取り落とした。俺は詳しく事情を理解してもらうのは止めた。無理だろう。

「オッサンさ、俺、裏町の方でちょっと喧嘩しちまって自首しようと思うんだけど足、怪我してっからちょっと警察署まで乗っけてってくれないか? 代金は後で払うよ」

我ながら感心する程スラスラと口から出任せが出てくる。

「はぁ? バールおけよ、兄ちゃんっ」

ビビるのも仕方無い。俺はさりげなく周囲を伺ってからバールを道に置いた。ついでにポケットの中身も見せる。

「お・・俺は関係無ぇよっ! 向こうのコンビニで電話借りりゃいいだろ?!」

運転手は慌てて電子キーを取り出してタクシーの中に戻る素振りを見せた。小心過ぎるだろっ。もうこれで終わるつもりだった分、カッとした俺はバールを拾い、一気駆け寄って運転手の顔面を殴り付けた。チヨミにぶちカマした時程じゃない。運転手はキーを取り落とし、倒れてうんうん唸って泣き出したりもしたが、致命傷じゃないはずだ。

「オッサン。死にたくなかったらそのまま寝てな。後で救急車呼んでやる」

俺は電子キーを拾い、少し迷ったがまだ意識のある運転手から暗証番号を聞き出したり、指紋認証を取らせたり、電話掛けさせたりするのは面倒だと思い、ここにきてもまたスマホを諦め、鍵を開け、車窓の空いたタクシーに乗り込んだ。

無線もあったが、使い方がよくわからねぇし、今さらタクシー会社に連絡を取るのも間抜けな気がした。大人しく警察署にゆく。運転手をノしたのは実刑いくかな? まぁいっても1年もいかないだろ。少年院は一度入ったことがあったが、 もうどうでもよかった。

「ん?」

シートベルトを締めてから違和感を感じた。何だ? ああ、そうか、

「オートマかよ」

玩具みたいな車乗りやがって。まぁ、いい。簡単だ。俺はエンジンを掛ける前にすっかり相棒の様な気がしてきたバールを助手席に置こうとしてシートの上のプロ野球チームのロゴの入ったエコバックに気付いた。バールを置き、エコバッグの中身を見る。コンビニのサンドイッチと大福、それからパックの豆乳が入っていた。

俺は喉が乾いていた。すぐに車を出すべきだったが、俺は迷わずパック豆乳を取り出し、付属のストローをパックに差して口に入れ、豆乳を飲んだ。

「はぁ・・っ」

ため息が出る。水分と一緒に、イソフラボンが身体中に染み渡った。

「出所したら真面目に働こう」

俺はポツリと呟いた。続けて豆乳を飲みながら少しうつむき加減になっていると、視界の上の端にソレを感じた。

「来るよな」

チヨミだ。俺が最初に出るはずだった小道を通ったんだろう。停車してあるタクシーの先の坂の下にいた。途中に防犯カメラ付きの街灯が立っているのも見えた。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

遠くから叫んできた。不思議と憎いとは思わなくなっていた。車道の真ん中を、こちらに走り始めるチヨミ。このタクシーを乗っ取った時点で、こんなヤツほっといて問題は無かった。が、

「記録に残る戦いになっちまうなぁ、チヨミ!」

俺は決して避けて通れない最大の敵と対峙しているとわかった。豆乳を飲み干し、ブレーキペダルを踏み、エンジンスタートボタンを押し、サイドブレーキを解放し、ドライブレンジにする。

「リョージ君っ! 愛してるっ!!」

「チヨミぃーっ!!!」

俺は突進してくるチヨミにアクセルをベタ踏みきた!

「リョージ君っ!」

俺の運転するタクシーはチヨミを撥ね飛ばした!! 衝突センサーが鳴り、エアバッグも開き、俺もエアバックにまともにぶつかったが、それより視界がエアバッグで遮られ、衝撃もあって返って停めるのに苦労した。撥ねる前の状態の記憶だけでハンドルを切って停車させ、エンジンを切った。

「イテテ・・酷ぇもんだ。破産だし、刑期何年になっちまったかな?」

俺は他人事みたいに言いながらフロントガラスに刺さっていたバールを引き抜いてタクシーから出て、チヨミの元に向かった。

チヨミは曲がってしまった街灯のポールにめり込む様に激突していた。右足と左肩、それから首があり得ない角度に曲がり、尻の下を中心に血溜まりができて、坂道だからそれが下へ下へと滑り落ち始めていた。

「愛、して・・る・・・」

チヨミは少しの間口を震わせていたが、涙も溢して、目の光が無くなっていった。俺はバールを捨て、手を当てて開いたままの目を閉じさせてやった。

「チヨミ、お前のソレ、俺なワケねーんだわ。ごめんな」

俺は少し迷ったが、さっきの母子を思い出したのかもしれない。何だかまともな人間の真似事をしているような気がして寒々としたが、血の臭いと一緒に、汗臭い、学生の頃の体育部の部室みたいな臭いのするチヨミを抱き締めてみた。それは大きく硬く滑稽で、俺がよく知る偽物だった。

数分後、タクシーの運転手が呼んだんだろう。パトカーが3台もサイレンをうるさく鳴らして現れた。それからのことはあるべき流れになって、俺達のニュースも2週間くらいはネットやテレビや雑誌を賑わせたに違いないけど、やがて飽きて忘れられた。

読んでくれてありがとうございました。彼は更生できたと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 夏のホラー2021に応募された作品を片っ端から読んでいる最中です。 うんざりするほど没個性が氾濫するなか、本作には「他とは一線を画するものを書いてやる!」という作者様の気概というか、志は評…
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