思考道中、暗夜に嗤う。1/4
随分と夜の帳が降りた頃合い、不安げな鳥の鳴き声と慄く焚火の破裂音と共にクレア・デュラニウスは二人きりの片割れにこう話しかける。
「ふうむぅ……そのカビの生えていた黄色いスライムのような見た目のものが本当に旨いというのか」
目を向けるは、焚火の炎に煽られながら小鍋の中でゆっくりと円を描くように掻き混ぜられる粘着質の液体。セティスがチーザと呼び、イミトがチーズと声を漏らしていた食品である。
少しずつ熱を加えるために焚火から逃がしたりと調理に気を揉んでいる様子にクレアは呪詛の気配に似た何かを感じているようだ。
「いやぁ……くくく。これは確かに予想以上だったな。因みに、発酵ってのは食べ物を酵素で分解する……まぁ自然が作る料理で、腐敗の親戚みたいなもんだ。表面にカビが生えるのはしょうがねぇのさ」
確かに液体を掻き回す黒い匙を試しに持ち上げると、どろりと半固形の液体はその特性を魅せつけるように垂れ、調理人であるイミトも妖しく笑っていることからも呪詛か何かだと思えて不思議は無いのだろう。
「ていうか、スライムが居るんだな。この世界」
「しかし、まさかセティスがこんなに調味料を持っていたとはな。人助けもたまには良いもんだ」
やけにイミトが饒舌だともクレアは思う。身の毛がよだつほどの勢いで初めて彼が見せた気さえする上機嫌に心が着いていけやしないと、彼女は呆れ切っているのだ。
「……貴様が、いつ誰をどう助けたというのか」
置き去りにされているような気持ちの悪さを憂い、嘆くようにクレアはイミトから目を逸らす。しかし、それでもイミトは夢中であった。
「奴らの叫びが聞こえたら飛んでいくさ。まだセティスには訊きたい事も沢山あるし」
掻き回していた小鍋を置き、セティスが隠し持っていて今はイミトの傍らに並べられている調味料類の容れ物を眺め、クレアの事などイミトは気にも留めていない様子で。
「些か無謀だと思うのだがな。夜目の効くデュエラが共に行ったとはいえ、夜の森を駆けてアヤツの乗り物を取りに行くなど」
「……反対はしなかっただろ、お前だって。俺は明日でもいいんじゃねぇかと一応は言ったぞ」
話がそこに居なくなっていたデュエラとセティスの事に向こうと、見慣れない調味料に現を抜かすことに変わりは無く、クレアの癪を無作法に撫で回す。
「抜かせ、目を輝かせて小瓶の群れに気を取られておったくせに」
「かーっ、肉料理を最初からやり直してぇー‼」
「貴様という輩は……まったく」
どうしようもない、小瓶の蓋を開け薫りを確かめて高揚したイミトにクレアは溜息を一つ。しかし、暫く我慢するしかあるまいと彼女が諦めて何か暇つぶしは無いかと周囲の景色を確かめた矢先、ふと彼女は思い至ったのだ。
今なら、二人きり——誰に会話を聞かれることは無いのだと自覚して。
「——……イミト。貴様はやはり、聞かぬのか?」
とても短く、曖昧な言葉である。それでも様々な意味を込めて神妙に話しかける。
「ん……ああ、たぶん、そうだな。聞かないな」
イミトは、少しの沈黙の後、彼女のそんな言葉を理解して、考えて、小さく笑うに至る。
「……」
調味料に彼は目を向けたままであったが、クレアは彼が調味料など——この時、見ていなかった事を直ぐに解する。一転して、とても、切なげな瞳であったのだから。
「言いたいときに言えよ。俺に遠慮なんかしてくれる程、優しい性格じゃあるまいし」
それを隠すが如く瞼は閉じられたのだが、残像は【心】に突き刺さる。悪辣な彼らしい冗談めいた口調がよりも一層、嘘臭く。
「貴様は……ふん、貴様といると調子が崩れる」
「はは、調子を崩そうとしてるからな。俺相手なら仕方の無い事だろ」
焚火の音が際立つ夜の静けさにポツリと咲いた、乾いた笑い、それを湿らせるのはチーズからユラリ立ち上る湯気と、
「ふん。阿呆らしくて付き合っておれんだけよ、馬鹿馬鹿しい」
クレアが愛想で放った不敵な笑みだけである。そんな空気は、長くなればなるほどに息を詰まらせる。
そう語るが如く、
「そんな事より見ろよ、クレア。この調味料」
イミトは少し息を吐き、声色を明るく空気を声で切り裂いて。
「ん。それがなんぞ、我に何か問うても知らんぞ」
仕方ないから付き合ってやろう、大して興味は無いと彼女は強がりながら後悔を払うように会話を続けさせる。流し目をふと閉じて、彼女もまた小さな息を吐いた。
「違うっての、この容れ物だよ。これ見るだけで、この国の食文化と質が分かるんだぜ?」
「ほう……聞かせてみよ」
イミトがクレアへ見せたのは、茶褐色の小瓶に金細工が散りばめられた手に容易に納められる程に小さな小瓶である。本来は食に関心が無かったクレアなのだが、イミトが無邪気に放つ疑問調の言葉に無知を刺激され、些か前のめりに好奇の耳を傾けて。
「例えばこれはな、金の装飾が着いてて他のより器が小さい。中に入ってるのは乾燥させた辛みのある黒胡椒に似たもんだ」
セティスのものだろう小瓶の蓋を躊躇いなく捩じり開き、薫りを確かめるイミト。
「俺が居た世界じゃ作り方が確立されてて、もう大したものじゃなかったが、これはこの国じゃ金と同じくらい希少な物なのかもしれない」
話の筋をキチンと立てながら語らい、次に軽く掌へ小瓶を傾けてその中身を顔に出させる。小さな黒い実の粒であった。彼はそれをクレアにも見やすい位置に運んで。
「なるほど。少量である事と金の装飾……確かに、そう考えるのが妥当かもしれぬ」
それに目を落とし、クレアはイミトが語る推測に考え込みつつ納得の様相。
「こういう胡椒も含めて辛みのある香辛料ってのは高い山なんかで育つ場合が多いんだが、ここにある調味料の中じゃ少ない方で……むしろ香草を乾燥させたり塩漬け、酢とかを組み合わせて加工したものが多い」
そんな彼女へイミトは饒舌に言葉を続け、地に並べられている様々な調味料にも手を伸ばし考察していく。段階を踏んで説明していくイミトに嫌らしさは無く、とても楽しげに考えを巡らしているようで。
そして話は一段落、幾つかの調味料を見比べ、
「そして、何より面白いのはやっぱり容れ物の違いだな。土を焼いて作る陶器からガラス細工に鉄、木造製まであると来てる」
彼は興味を露に呟くのだ。そうした思わせぶりな遠回り、意味深い物言い、
「ん……何が言いたい」
それらがクレアの知の食指を動かし、答えを急かさせて。
すると、イミトは推理を終えた推理小説の探偵の如く得意げに首を傾け、犯人に自白を促すようにクレアへと目を向けた。
「この国、ツアレスト王国は……基本的に平地帯で少なくとも三つ、四つくらいの国と貿易をしているみたいだな」
些末な事である。この世界で生まれ、この世界で育っていたならば、自然と苦も無く身に着けられる知識。イミトが異世界から来たばかりで二日も経っていない異世界人だと知らなければ呆れられてしまう事であろう。
「……ふむ、正解だ。この国は広大な平地が多く、海向こうの東方、砂漠地帯の西方、山岳の北方、そして巨大なジャダの滝の向こうにある魔界に囲まれておる」
けれどクレアは知っている。故に彼女は正解を詳しく語り返しながら感心するのだ。
「ふふふ、たかが調味料如きにそれほどの情報があるか。中々に愉快よな」
「この国は、イメージ通り小麦の生産が豊富そうだ。セティスも大量に買い込んでいるみたいだし主食なんだろう」
知的好奇心を満たし、満足げな二人。何よりクレアにとっては子供の如く純真に世界を楽しみ始めたイミトの言動が愉快で。
「飢饉もあって全てのものに食料が行き届くとも限らんがな、広大で豊かな土地故に隣国と諍いの種が尽きることもない」
大人びた笑みで水を差してみるように言葉を紡ぐ。まさにそれは、人の愚かさを嗤うようでもあった。
「はは、そりゃ俺が居た世界だってそうだ。腹が歪んで膨れるのは飢餓の子供か、金持ちばかりが居る国さ」
しかし、イミトは純真な子供ではない。彼がそうであったなら、頭だけのデュラハンとこのように語らうことなど決してなかったのだから。
「なんぞ。何処の国とて豊かになろうと変わらぬ摂理か、ふふふ」
共感を示され、楽しげに笑い声を上げるクレア。人の身にして人という種を侮蔑する皮肉に、クレアは絶望に浸るイミトらしさを感じる。
いや、肯定が出来ないのだろう。それ故にクレアは人などと共に再び生きようなどと思いもしなかったのだろうから。
「人とは、やはり業が深いものよ」
「欲深いだけさ、そして臆病なんだよ。情けない事にな」
彼らは嗤い、笑い合うのだ。この時、世界の片隅、夜の帳、焚火の上に憎悪の華を咲かせるが如く——。




