あの時の事。2/3
イミトがクレアの拳を躱す為に用いた赤い光は、規模が違うとはいえ紛れも無くクレアの魔法、技であった。
他者に時間と空間を付与し、傍から見れば動きを止めているように見せる常軌を逸した特技。
無論、彼女は理屈を教えても技術など冒頭すらイミトに伝えては居ない。
「因みに、あの蛇の体をぶち破った技は【千年負債】と名付けてみた」
だが、それをイミトは軽々と得意げに使って魅せていて。今は冗談めいた口調で自らの技を皮肉っているようにさえ見えている。
クレアは、なるほどと思っていた。
「厨二ではないか。まったく……魔力を無駄遣いしよる。もうよいわ……、やる気も失せた」
このような男に、あの程度のバジリスク三体程度が勝てるわけも無い。男の底知れぬ底意地の悪さに、クレアは己の心配性な性分に呆れてしまっていたのだ。
そうして再会のひと段落。
「あ、あの……お二方様、お話はもうよろしいでしょうか、です」
ようやくデュエラが口を挟める程度に心の整理が終わって。
「ああ、お前にも迷惑かけたなデュエラ。少しクレアから離れて暴れてみたかったんでな」
「い、いえワタクシサマは‼ ……そ、それより」
デュエラの存在を置き去りにしていたことを思い出したイミト。そんなイミトの気遣いに遠慮がちな対応を見せ、彼女はそっとイミトの背後に顔を覗かせる。少し不安げな表情だった。
「案ずるでないデュエラ、貴様の言う事は解っておる」
すると、今度はクレアが諭す。クレアには、恐らくイミトにもだが彼女が未だに抱える不安の正体には気付いている様子で。
「イミト、我を抱えよ。今度の拒否は許さんぞ」
デュエラの注意を引きながら、次にクレアはイミトにそう命じる。それが何を意味するのかデュエラには解らなかっただろうが、イミトは何となく察していたようだ。
「……別に良いけどよ。多分、左手は臭いぜ」
しかし、それを踏まえ言わねばならないだろう。そう言葉と共に彼は自身の鎧の左腕を持ち上げる。鎧の腕は、どろりとした生々しい緑色の液体で濡れている。恐らくバジリスクの腹から這い出る時に槍と共に触れて付着したものなのだろう。
「「……」」
故に、沈黙。嫌悪を初めとしたさまざまな感情が入り混じる沈黙がそこにはあった。
そして、その最中の事である。
『アンタたち……良くもやってくれたね』
イミトの背後、デュエラ達からすれば蛇の【死骸】がある方向から聞こえる聞き覚えのある声。それは幾重の刃に腹を切り刻まれて裂かれたバジリスクの声に違いなかった。
しかし——である。
「貴様、水筒を持っていたであろうが、それで洗わぬか」
「貴重な水なんだがな……」
二人、にはまるでその声が聞こえてない様子で平然と気の抜けた会話を交わしている。
「ちょっとお二方様‼」
「あ?」
その素っ頓狂な様を見て、二人が本当に気づいていないのだと声を荒げるデュエラ。それでも暖簾に腕押し、腰の鞄から水筒を取り出すイミトに慌てる様子は伺えず、
『まさかこんな人間が居るなんてね……』
「デュエラ、貴様も手伝え。貴様が水筒を持ち、水を流してやるのだ」
『……』
また新たに聞こえたバジリスクの声に他所に、今度はクレアが言葉を上乗せ。
「あ、あの、えっと……は、はい‼ あの……」
デュエラは戸惑った。自らの幻聴を疑う程に戸惑った。確かに、まだ声でしかその存在を確認出来ておらず、様子を見てみれば蛇の体には目立った動きは見て取れない。
しかしバジリスクは魔物なのだ、魔物が死ねば黒い霧となって世界に溶けるのがこの世の理。体が消えていない以上、まだバジリスクは生きている。
そんな常識と、目の前の二人の異常な健全さに戸惑いの心中、デュエラは自身の生真面目さでイミトから水筒受け取りながら少し慌てて顔を動かしていく。
そして——動き出す。
『ふ……ずいぶん舐めてくれるじゃない。いいわ、私たちの本当の姿、見せてあげる』
しわがれた雌声を響かせながら三匹の蛇の残骸が黒い液体になって溶け、ひと固まりになるべく歪に空へと昇っていく。それは魔物の死とは全く違う事象であった。
「しっかり洗わんか貴様、そうだ! あの酸っぱい果実を絞れ、爽やかな香りで誤魔化すのだ‼」
「はいはい。なら、皮の残りで磨いた方が良いかも、な。ちょっと風魔法使えよ」
それでもデュエラまでもが夢中になりながら傾けた水筒から零れる水で、ぶつくさといいながらイミト達はバジリスクの体液でドロドロになった鎧を洗っている。
するとその隙を突いたとは言えない印象でバジリスクはその企みを完遂させて。
『ほら、この通り。ふふふ、私たちは三匹で一匹の特異体バジリスク。回復力も普通の姉妹の三倍は早いの……調子に乗ってるところ悪いけど残念だったわね』
得意げにその正体を露にするバジリスク。三つ首の大蛇、体格は恐らく一匹の時の二倍はあろうか。その巨躯で未だ果物の皮で丁寧かつ迅速に鎧を磨く一行を威圧感満ち満ちて見下ろしている。
けれど——、或いはようやくの事であった。
「……いや、どう考えても分裂した三匹を一度に相手する方が面倒だろ。馬鹿なのか?」
『——は?』
生きていた蛇にようやく放たれた言葉に感動はなく、彼は未だに鎧を磨く。
「イミトの言う通りよ、人型にもなれん下級バジリスクが何をほざくか、生ゴミ臭い」
そしてそれを見守る頭だけの彼女も非情に言い捨てて。
「お、お二方様……」
デュエラに至っては最早、バジリスクの再誕よりも異常な余裕を魅せる二人の方に恐れ慄いてすらあった。そんな三者一葉な態度に、バジリスクの眉間にシワが寄り、怒りの雰囲気がみるみると駆け上っていくのも仕方ない事であろうか。
「へぇ、人型の奴もいるのか。それはちょっと興味あるな」
「もうよい、多少の臭いは我慢出来よう」
『殺す‼』
そうしてバジリスクは有無を言わさずに体の鱗を流線に魅せるべくイミト達に襲い掛かる。しかしであるが、いよいよ敵が辿り着く刹那の間にもデュラハンの二人の余裕は尚も揺るがない。
動いたのはイミトの体であった。
「——死ぬのは貴様よ‼」
『——⁉』
放たれた声はクレアのもの。唐突にイミトの右手に現れた大剣は、クレアの武器。それを瞬く間に一閃するや、襲い掛かって来ていたはずのバジリスクの巨体が跳ね返ったが如く宙に浮く。
そんな一瞬の出来事に瞳孔を開いたデュエラが驚く中、或いは浮いたバジリスクの体が地に堕ちる頃合い——、それを演出した二人が相も変わらず余裕綽々の言葉を交わす。
「あんまり急に動かすなよ、これでも結構な怪我してるんだぜ?」
「黙れ。今は我の苛立ちを解消することが優先だ。たわけが」
未だデュエラの腕の中に居るクレアを恨めしそうに見下げるイミト。蛇の巨躯を吹き飛ばしたのはクレアだったようで、体だけ瞬時に動いた為に操られていない首が付いていかなかったのだろう——イミトは少し首を傾け、鎧の左腕で首筋を抑えながら辟易した表情を浮かべていた。
そしてバジリスクである。
『……ぐう。な、何が……』
一瞬の出来事に状況を理解できていないバジリスクは、何とか起き上がりながら酩酊する意識を覚まそうと三つの首を其々《それぞれ》に振る。
「デュエラ、我をイミトに」
「は、はい‼」
一方、傍らにクレアの大剣をぶら下げてバジリスクの様子を眺めるイミトの背後で物語は進む。デュエラに抱えられたクレアの頭部はイミトの鎧の左腕に返され、その佇まいを正しいモノへと戻していって。
「……むう。これはやはり作り直しが必要かもしれんな」
「そうだな、匂いもそうだがずっと着けてると蒸してくるから、一回外して欲しいしな」
仕方なしとしながらも、未だ僅かに薫る残り香にクレアが自らの髪で口を覆うと、イミトはそれに追随して別の理由を付け加える配慮に似た話の逸らし方を口にする。
しかし、イミトの態度は見方を変えればどうでも良さそうにも見えては居るのだが。
『馬鹿にして……こんな怪我、直ぐに——‼』
そして再戦の予兆をバジリスクが言葉で表そうとした時、ようやく大蛇はある事に気付く。
「丁度良いわ、思う存分、八つ当たりをしてやれる」
『——その鎧姿、頭を抱える騎士姿……まさか‼』
男の左腕に抱かれる頭部が髪を変化させた兜姿に覆われる様、或いは男の全身を覆い始めた黒い鎧に【ある存在】を思い出したのだ。
「我が名はクレア・デュラニウス……あの世で神に、その名を述べるが良い」
「ひゅう♪」
クレアの名乗り口上にバジリスクが慄いた後、響き渡るイミトの口笛。
状況が一変したのは、その後の刹那の間に、である。
『ふ、封印されてい——⁉』
首と胴、一対のデュラハンは三つ首バジリスクの言葉を聞き終わる前に動き出していた。体感で言えばいつの間にか、瞬きの間とも言っていい。
『ぎゃあ⁉』
バジリスクの右側の首を裂きながら、空を駆るように黒い鎧は回転し、片手にて大剣を振う。
「……⁉」
そして彼女は、或いは彼は着地すると同時にまた剣を振りぬき、何が起きたのか分かっていない表情をデュエラが浮かべている最中に黒い飛ぶ斬撃を繰り出し、次は左側のバジリスクの肉を削ぐ。
「魔力を斬撃に変えてんのか」
イミトが興味深げに言った。すると、クレアは冷徹にこう返す。
「ふん、盗めるものなら好きなだけ盗むが良い」
兜の中に薄ら見える瞳は、紛れも無く戦いを見る眼差し。そして彼女はイミトの右腕を大剣と共に掲げ、言葉を続けた。
「腹立たしい事この上ない、なぜ貴様は死にたがる‼」
「なぜ笑う、なぜ語らう‼」
『デュラハ——ぎゃあ、ああ⁉』
言葉を重ねる度に溜めに溜めた激情を引き捨てるが如く斬撃を放ち、或いは駆け、バジリスクに言葉を漏らさせることしかさせぬ程にその巨躯を蹴り飛ばしていく。
「ふざけるでないぞ、貴様は本当に人であるのか⁉」
「……」
そんな彼女の言葉をイミトは、静かに聞いていた。瞬間移動といって差し支えない動きの中でバジリスクに向かう刃を己に向けられているものだと自覚するように。
「なぜ受け入れる! なぜ抗わぬ! 我を——なぜ、恨まぬのだ‼」
そして——クレアは剣を振りながらまた思い出す。
彼と初めて出会ったあの日の事を明確に想い出していた。