平和の柱。2/4
「……我らが神、ミリス神よりの罪人様へ言伝を持って参りました。それから——」
「クレア・デュラニウス様とデュエラ・マール・メデュニカ様を、この場より逃がすようにと」
そして伝えられる用件。右掌を進むべき道を指し示すように傍らに広げ、空間を歪め始めるアルキラル。
薄暗いはずの地下水道に差し込む地上の陽光、歪み開いた【穴】から見える景色は、地下水道とはまた違った趣のある遠き森の入り口の如き静寂と平穏の様相で。
「……イミトにのみ、用があるという訳か。気に入らぬな」
だが、そんな平穏は或いは罠であるかもしれぬとクレアは言葉をそのままには受け取らず、加えて自身に対するぞんざいな扱いに苛立ち、異を唱える。
しかし——、
「とはいえ、ここでのんびりお茶をする暇もないからな。とりあえず、ここは向こうさんの誘いに乗るしかなさそうだ」
イミトは、そんなクレアを抱えるデュエラより一歩前に進み、迫り来る時は何時だって非情だと暗に示しながらアルキラルとクレアの言い争いを未然に防ぐ。
「——こちらの空間転移を使った際の危険は無いと、神の名において保証いたします。繋がっている場所は、あのカトレアという女性騎士と直ぐに合流できる地点」
更に敵意は無いと一礼をクレアにアルキラルが捧げ、すべからく状況を認識している事をチラつかせながら、時の脅しを強かに開かれゆく瞼からも露見させて。
「ちっ……コソコソと安全地帯から眺めおって、実に不快ぞ。デュエラ」
「は、はい……あの穴を通るので御座いますね‼」
舌打ち交じりで無き選択肢を選び取り、クレアは会話の蚊帳の外に居たデュエラに指示を出す。
向かう先は、アルキラルが創り出した時間も距離も無い異次元の通路。
「イミト様、お気を付けてなのです‼」
「……」
そうしてデュエラが急ぎ、イミトに別れを告げながら穴に飛び込んでいく最中——穴の傍らで礼を尽くして頭を垂れているアルキラルと、デュエラに抱えられているクレアはチラリと視線を交錯させていた。
——やがて、機会があればこの借りは返す。
と、鋭い視線を向けたクレアに対し——
そんな時は永遠に来ないと冷淡な眼差しを浮かべるアルキラル。
そして時は流れ、彼女らが通り抜けた直後。
時空異空の穴は再び、世界の理に固く閉じられ、怖い程に静寂な——生活排水の水流の音が寂しく響くばかりの光景へと戻る。
残された者は二人。
——天使と、罪人。
「——……さて、罪人様。罪人様は、こちらへ」
そんな状況下で、特に会話も交わすことも無く天使アルキラルが指を鳴らす。
すると彼女の足下から白い光が世界へと広がり、瞬く間に地下水道の空洞を埋め尽くしイミトを浚っていくのである。
そこは、かつて——彼も訪れた事のある神の間。
宇宙空間のような夜景が周囲全面に広がる中で、足下に浮かぶ白タイルと似たような足場が、そこかしこに様々な高度で浮遊して流れていく壮大な光景。
「懐かしいね、強制転移。有無を言わさずに俺だけを連れて来なかったのは、せめてもの誠意か?」
一瞬にして別の場所に連れていかれる幾度か経験した懐かしい感覚をイミトは嗤い、それを踏まえた上でクレア達を逃がしたことに彼なりの感謝を口にする。
「……如何様にでもお考え下さい」
けれど、アルキラルは素っ気なく、強制転移を終えて立っている白タイルの上で、またしても礼節深く頭を下げた。
その時——いや、それ以前からか。
「それで——俺を呼んだ神様は何処に……」
この愛くるしい天使を使わした神様は何処に居るのかとイミトが振り返った時、一片の淡い白の花びらが舞い落ちて——アルキラルが自分にではなく背後に居る何者かに頭を下げたのだと気付く。
そうして舞い降りた花の一生を振り返れば、荘厳な大樹が満開の華を踊らしているのである。
「……」
いと懐かしき壮絶な吹雪は、心を懐かしさで搔き乱す。
——桜。桜。赤い毛氈の上に咲く。
「——お久しぶりかしら、罪人さん」
そして桜の木の下に、神は居た。美しい色鮮やかな織物の着物を纏い、荘厳な桜に負けぬ煌びやかな装飾で彩った美しき貴婦人。
紅色の口紅に染まる唇で、穏やかに盃を啜る神、ミリス。
「桜の下で宴会とは……風情があるね」
その思わぬ再会に、声を殺されながらも、嗤って強がるイミトである。
しかし、無理からぬ事なのかもしれない。
目の前に存在するのは、神々の宴会。
「ふふ、アナタの席も用意したわ。二次会に付き合ってくれるかしら」
もう既に他の神は去った後のようではあったが、ミリスと向かい合うように用意されている席は、とても凡夫が座ってはならないような格式高い趣きがあって。
僅かに残る他の神々の痕跡もまた、確かにイミトを威圧している気さえして。
「その着物も似合ってるし、やぶさかじゃないけど、俺は酒を飲まないぞ」
しかしながらイミトも負けるわけには行かない。首の後ろを抑えながら静かに酒を嗜む神の前へ面倒げに近付き、用意されていた己の席の前に辿り着く。
「酒は二十歳になってから、だったかしら」
「それに今の俺、かなりドブ臭くないか? 酒が不味くなったらいけねぇよ」
そして靴を脱ぎ、己の服や体に染みついているだろう下水の匂いを確かめる仕草。すると、そんな愛らしい仕草に対し神は寛大に微笑んだ。
「あら、ふふふ……私、働く男の臭いって好きよ。ねぇ、アルキラル」
桜吹雪が穏やかさを取り戻す中で酒盃を片手に小首を傾げ、イミトの背後で飲み物の用意を始めているアルキラルにも同意を求めて。
そのアルキラルの反応は——
「はい。元より、罪人様はドブの臭いのする方なので私も特に気にいたしません」
辛辣な物言いを漏らしつつの同意。それでも客人に振る舞うように丁寧にイミトへ水の入った硝子のコップを手渡す。
「はっ——、それで用件は何だ? この間、神様の厨房で盗んだ調味料の話か?」
その冷淡な表情を横目にゴキゲンな様相でコップを受け取ったイミト。揺らぐコップの中の水面に粋に堕ちる一片の桜。開き直った笑いは花が咲いたようにも見えて。
「……そうね。その件も関係あるかしら」
「でも——その前に、和平調印式の成功、オメデトウの祝福を」
こうして始まった意味深に微笑む二人の会合。酒席。
「神様からのお墨付きとは景気が良いね。そもそも俺達を姫に合わせたの、アンタだろうに」
渡されたコップの中身が酒では無いかと薫りを確かめたイミトは、神であるミリスに向けてコップを掲げる。
「ふふ、「乾杯」」
唱えた言葉は魔法か、呪いか。或いは悲劇の始まりか。
鳴らないが聞こえた気のするその音は、様々な思惑を、様々な思考を巡らせる開戦の合図のようでもあった。
——。




