塵に燃えゆく。2/5
——。
そして、闇から這い出て地下水道。
「つぁ……真夏の厨房を思い出すな。プルリザードには可哀そうなことしちまったか」
高熱に炙られた湿度が蔓延する石造りの人工空洞には、暫く堰き止められていた地上の生活排水が戻りつつある事も相まり、発酵した汚泥のような薫りが漂い、イミトは蒸し暑さに服の襟元を殊更に乱すと共にマスク代わりに捲っている服の袖で口と鼻を塞いだ。
「備え付けられてる魔石の光源は——煤だらけだけど燃えてない不思議と。結構な材質なのか? もうちょっと後学のために回収しとくか」
周囲に敵影は無く、火災後の人工空洞の様子を周囲を見回して調査しながら中央へと向かって進んで行く。
すると、そんな彼の前に——
「——……イミト・デュラニウス……」
弱々しく盛り上がった水溜りが呻き声のような声でイミトに話しかけてくる。
あまりにも小さな震える水溜り——しかしそれが、強炎に炙られたスライムの半人半魔アーティー・ブランドの成れの果てである事は直ぐに分かった。
「お。やっぱり生きてたか、随分と小さくなっちゃって、まぁ……」
もはや戦う力など無い風体のアーティーの前で槍を肩に担いだまま屈み、容態を窺いつつ話に乗るイミト。
「必ず……必ず殺してやる……この恨み、痛み……忘れぬぞ……姑息な卑怯者め」
僅かな水溜りに揺蕩う表情を精一杯と怒りに憎悪に染めながら、イミトの悪びれない普段通りの顔を見上げるアーティーの声は、やはり息も絶え絶えで。
「はは、それをテメぇが言うかよ。人に化けて人質を取って散々と卑怯をやり散らかしてた分際で」
その口から飛び出る滑稽をイミトは笑い、持っていた槍の柄の先端で嫌がらせの如く半透明の顔が浮かぶ水溜りを掻き混ぜ始めた。
「もしかして、アディ・クライドやセティスが居なかったら上手く行ったと思ってるのか?」
しかし掻き混ぜても尚、槍の柄先をすり抜けて浮かび上がっている表情にイミトは腹を割って放ったような疑問を呈する。
「当たり前だ……‼ 奴等さえ居なければ、クレア・デュラニウスと離れて異常をきたしている貴様などに……」
すると弱り切った体を震わせて表情を怒りで歪ませるアーティー。真正面から向き合えば、イミトなどに負けるはずが無いと言う矜持が彼を突き動かす。
確かに、その事実は真実なのかもしれない。
物理攻撃が効かない変幻自在の流動体、まともに殴り合えばイミトに勝ち目は無かったのだろう。
だが、それは当然イミトも知る所——
「正解。でも残念なことにアイツらが来ちゃったんだよねー、可哀想可哀想ねぇ、スライムちゃん。俺と真っ向から戦いたいなら、お靴を揃えて出直して来いっての」
自覚した上での奇策謀略。圧倒的勝者の佇まいで、小首を傾げた悪辣な微笑みで、グルグルと敗者をなじり、槍の柄先でスライムの水溜りを掻き混ぜる勢いを強める。
「……いずれ必ず、この報いは受けさせる」
そんなイミトに腹立たしさを抱え、恨めしく憎悪の目を燻らせるアーティーの半透明の眼球。やがてその水溜りも溶けて表情を盛り上げられる力すら無くなるのだろう——そういう佇まい。
けれど、スライムの眼前で悪辣な笑いは尚も浮かび続けて。
「とか言って、後ろから攻撃しようとしてる辺り、せっかちだな。おススメはしないぞ」
「——‼」
唐突にイミトの背後に創られた黒い壁はイミトが肩に斜めに担ぐ槍に支えられ聳え立ち、死角から押し寄せてきていた静やかな濁流は左右に別けられる。
「子供の遊びの腕相撲やってんじゃねぇんだよ。これは殺し合いで、奪い合いで、化かし合いで、騙し合いで、にこやかに小綺麗でスポーツマンシップの精神に満ちた娯楽でもねぇ」
肩に担いだ槍を握り直し、スライムを見下げるイミト。不意打ちを余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》で退けながら一切の油断に甘んじない男の真剣みに、殊更の厄介さを感じるアーティー・ブランド。
「そこらのガキ大将じゃあるまいし、どっちが強いとか弱いとか阿保みたいな事を言ってんじゃねぇったら」
自分が語るべきと思っている大人の論理、或いは失敗した己の策の甘さに対し、悔恨夥しく憎らしくイミトを見上げるスライムの顔は歯を噛みしめていた。
「——……なぜ、分かった。セティスほどの魔力感知が無い貴様が……」
「んー。一番、嫌な展開だからとだけ言っとくよ」
そして眼前の男の底にある底知れない【何か】を、未だ軽んじていたと自覚する。
「では……なぜ私の弱みを知っていた。分かるはずも無い、私に視覚や触覚や嗅覚が無いと——なぜ知っていた」
「そりゃ単純な推理だな。スライムの生態とか考えたり、お前さんが呪いを掛けた相手の視覚や嗅覚を奪う理由とか、聴覚を奪わない理由とかな。犯罪心理学的な?」
へへりと嗤う閃きの産物、もしくは怪物か、或いは作られた傑物か。
巡り巡る知恵と知識の集約が彼の背景に見て取れる。
弱々しく震える流動体。不意打ちに使った分身は、盛り上がる力を失い、床に崩れて新たな水溜りへと成り下がって。
「——お。分身体の操作が維持できないくらいにはダメージは受けてるみたいだな。今の内に回収、回収っと」
そうすると、イミトは魔力の黒い渦を掌に灯し、掌に納まる砂場のスコップを創り出して童の如く砂遊びするように掬い、同じく魔力で創った筒状の容器へと流し込んで集めていく。
「……完敗という訳か。だが覚えておけ、イミト・デュラニウス。この借りは必ず……」
「何回も何回も、そういうの良いから。どうせコッチが忘れてても返しに来るんだろ」
もはやアーティー・ブランドは、その様を眺めていることしか出来ないようである。せっせとスライムの分身体をバケツ一杯に入れ終わったイミトは、容器の蓋を魔力で創り、密閉して。
「レザリクスとの連絡用に、この分身体も持っていくぞ。左の通路に逃げた本体を追い掛けないのは細やかな慈悲って事で。本体を探すのもメンドクサイ」
「……」
そして次は、いよいよと今まで話をしていたアーティー・ブランドにも手を掛けようともしている。新たに作り出された二つ目の容器はその為の物であることは明白。
「セティスに分身の核を撃たれまくって感情が理性で抑えられなくなってなかったら、正直ヤバかったよ。俺のイキリや挑発に付き合ってくれて、ありがとな」
別れ際の挨拶を述べて床とスライムの間に差し入れるスコップ。肩の力が抜けている微笑ましく後腐れない表情は、勝者の余裕。
そんな男の表情に——、
「——最後に一つだけ聞いておく。メイティクス・バーティガル……あの方の娘は、今回の件に腹心の部下であるアディ・クライドを送り込み、調査をさせていた。貴様は先ほど、あの男に酷い仕打ちをしていたな」
「やがて貴様らが首を斬り落とすつもりの女の恋を後押しするなど——残虐の極み」
負け惜しみの如く不穏不吉な言動を残してやろうと、敗者であるアーティー・ブランドは声を漏らす。
「……そりゃ質問か? なんで、そうしたのかって?」
その声の意図する所に、疑問を返しつつもイミトは躊躇いも無く容器にアーティーを注ぎ入れつつ、返す答えを思案した。
「別に俺は、アディ・クライドの事は好きでも嫌いでもねぇし、アレの恋だの愛だのを邪魔する筋合いも無い。まぁ強いて理由をくれてやるなら——」
思案しながら容器にスライムを注ぎ終え、それでもまだ思案しながら自身の行動の論理を組み上げていくようなイミトの返答。
アーティー・ブランドは、その答えを静かに待った。
そして——、答えは放たれる。
「すんなりと罪の意識を感じて体を返すような人間より、未練たらたらで自分の幸せの為に歯向かってくる相手の方が歯ごたえがあって、アイツが喜びそうだからな」
「それに、あの状況でお前の好きな奴は——俺達が殺すつもりだから諦めろ、ってアディに言う訳にも行かないしな」
悪魔的に悪魔らしく優しく嗤いながら、度し難い己の身勝手さを自嘲する口調。
とにかく酷い答えだった。
「——……極悪人め。ロクな死に方はせぬと思……え……——」
「報いは受けるさ。当然の如く、な」
最後の問いに真摯に応え、意識を失っていく様子の容器の中身に最後の言葉を贈り、魔力で創った蓋で塞ぐイミト。
「よし……こっちは一段落だ。まさか向こうは負けてたりしないよな、流石に」
一つの戦いが終わり、彼は戦場に恋する想い人を想う。




