セティス・メラ・ディナーナ。1/4
引いて開く観音扉は開かれた。
蹴破ることも無く、扉を守っていたアルバラン国の騎士の剣を鞘ごと肩に担ぎ、朝の始まりに我が家のトイレに足を進めるような軽い足取りで、守られていた部屋へと押し入ったイミト。
「……塩だと? そんな物で私の分身体を容易く殺したと」
「まぁ、半分は賭けだったよ。お手製のスライムで色々と実験をした成果だ」
彼は今、部屋の中に居た個にして全のように一つの意志の下で動くアルバラン国の人間と、その筆頭であるクジャリアース王子の顔をした敵と相対している。
昨晩に出会ったクジャリアース王子の表情と声。記憶にあるそれらは紛れもなく現在の——目の前にいる存在が放つそれと全く以って同様と思える。
しかしながら、敵。
観念しているのか、素知らぬ顔をすることも無く落ち着いた口振りで暗躍者——扉前のアルバランの騎士に化けていたスライムの残骸しか知らぬはずの事柄についての疑問を吐露する相手。
——名は、もう既に明らかになっている。
アーティー・ブランド。リオネス聖教の聖騎士の一人にして、此度の騒乱暗躍の首謀者であるリオネス聖教最高司祭、レザリクス・バーティガルの共犯者。
「手製のスライムだと……?」
「ああ。でも、こっちのダサ苦労の話なんざする気もねぇさ。俺は出来る限り、戦いなんて面倒なモンは避けて通りたいんだが、今から降参して——大人しくクジャリアース王子とアルバランの連中を返してから、セティスに殺されてやってくれないか?」
イミトとは昨晩に出会った程の旧知の仲。肩に担いでいた剣を降ろし、イミトは親しげにアーティーの疑問に頷き、そして小首を傾げて飲めやしないだろう要求を重ねた。
「もう、お前らの計画はズタズタだろ? 近場に隠してる本物のクジャリアース王子が見つかるのも時間の問題だぞ?」
その呆れ果てているような表情で放たれるそれは最後通告であり、脅迫。
或いは——
「……ふん。確かに、貴様やツアレストの騎士どもにアルバランへの乗っ取りが暴か《あば》れた時点で当初の計画は瓦解した」
「だが——まだ我らの優位は変わらない。貴様の言う通り、まだアルバランのクジャリアースは我らが手中だ——私の意志一つで殺せることに変わりは無い」
「くだらぬ和平調印など、意図も容易く——……‼」
水場で悠々とあがく溺れかけの虫に差し伸べた最後の慈悲だったのかもしれない。
イミトに強気で返す言葉の最中、更なる異常に気付いたように絶句するクジャリアース王子の顔をしたアーティー。
「壊せるってか。はは、だからこそ——土台は、しっかりと支えてやらねぇとな」
そんなアーティーの気付きに気付き、イミトは溜息を吐くように悪辣に嗤い、再び肩に剣を担いだのである。
事は、既に始まっていた。時を経るごとに不利へとなって。
「ば、馬鹿な……早すぎる……いったい何故、何故、この場所が分かった‼」
目の前のイミトの相手など出来る余裕が唐突になくなり、ここではない何処かに話しかける奇行を見せるアーティーは、室内の窓の外に急ぎ歩んでいく。
しかしその時、イミトの服の右ポケットに入っていた【何か】が振動を始め、異変に対する戸惑いと怒りに満ちているアーティーの表情や首を有り得ぬ真後ろへとグルリと回させた。
『……イミト。何人かの顔のスライムが溶けたから始めたけど良かった?』
——赤い光に染まる魔通石。そこから聞こえた声は彼女の声。城塞都市ミュールズにてイミトと別行動を開始していたセティス・メラ・ディナーナの声。
「ああ。やっぱり、そっちの分身体と繋がってたか。こっちでスライム野郎が間抜け面を晒してるから良いタイミングだったんじゃねぇかな」
「王子たちは無事か?」
怒りに震えるアーティーを他所に、魔通石越しに始まった会話。
『命に別状は無いと思う。ただ、視覚や嗅覚を封印する術式は解くのに時間が掛かる、救助が必要』
どうやらアーティー・ブランドがクジャリアース王子を監禁している場所に予定通りの如くセティスは潜入を成功させ、救出作業を行っている様子。
そして、今まさに囚われたクジャリアース王子に救助の手を掛けようとしていた。
「なぜ分かったと聞いている——るぶうぶうううわっ‼」
目の前で通話を続けるイミトに状況の理由を問い詰めようとしたアーティー。
しかしながらイミトの服の襟を掴む寸前に顔は爛れ溶け、知らぬ顔の死体は液体と共にイミトを横切り、倒れ伏せる。
「……俺も今からソッチに向かう。結構な数を守らなきゃいけないだろうが、頼んだぞ」
そのアーティーの分身体であろうスライムの最後に対するイミトの反応は足に付着した液体を、足首を軽く振って飛沫を散らすに留めた。
何の感傷も無く、続けるセティスとの通話。
『この人数なら結界防御で覆える範囲。問題ない……けど、これ以上の我慢は限界かも。早く来て欲しい』
「悪いな、こっちの事情を優先させちまって。最速で駆けつけてやるよ」
『——了解。通信終わる』
人間の死体に貼り付いていたスライムが次々に溶けていく静寂の部屋、背後に迫る足音の気配に首を僅かに振り返らせてイミトは魔通石を服のポケットの中に押し戻す。
「……反リオネル聖教の刻印か。なるほどな、一応の保険って訳だ」
そしてイミトはクジャリアース王子に化けていた死体の首の動脈に指で触れるべく腰を屈ませるや、首の後ろに刻まれた紋章のような印を見つけるに至る。
と同時に、マリルデュアンジェ姫を安全な場所へと導いたツアレストの騎士たちが部屋へと剣の柄を握りながら押し入ってきて。
「イミト殿、加勢に来たぞ——……これは‼」
その部屋の惨状を見て、彼らは何を思ったろうか。
「サムウェル殿、報告が二つある。しっかりと聞いておいてくれ」
「は……?」
水浸しとも言える床が濡れたカーテンが半分だけ掛かる薄暗い来賓用の部屋。数人の蒼白い顔をした溺死体が転がる中で、鞘に納められたままの剣を肩に担ぐ黒い男。その男が、何一つ顔色を変えずに声を掛けてくる。
故に状況の把握も出来ぬままに戸惑う騎士たちを代表するように名を呼ばれたサムウェルは、疑問の声を漏らしてしまう。
「一つは、クジャリアース王子が既に敵に囚われているという事、もう一つはミュールズの外で何か異変が起きているかもしれないという事だ」
けれど、イミトは説々《せつせつ》と言葉を続けながら部屋を徘徊し始めて——
「しかし……クジャリアース王子の方が囚われている場所は私の仲間のセティスが突き止め、既に護衛している状況にある。私は、これから直ぐにセティスの援護とクジャリアース王子の奪還に向かう」
窓に掛かるカーテンをバッと開いて、部屋に溢れんばかりの陽光を取り入れる。それからイミトはベランダへと通じる硝子張りの窓も開けて、外の空気を取り入れた。
或いは、そう——絨毯に溶け出した液体に何かしら有害な毒物があるかもしれない。
そういう想いもあったのだろう。
だが——、
「事態は急を要するが、和平調印式を控える現状で大事にはしたくない。クジャリアース王子の事は我らに任せて、ミュールズの騎士団は平時を装いつつ外の警戒に当たってくれ」
更にキチンと閉めていた服の首元を緩め、言葉を締め括ったイミトは窓の外に向かいながら騎士たちの衆目に晒されつつ服の胸部分に隠していた虹色の魔石を取り出し、その石に黒い魔力を注ぎ込むように溢れさせたのである。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいイミト殿‼ 貴殿は何を——この状況は一体……」
逃げる為か——否、向かう為。
その惨状を見せられて騎士たちは何を思った事だろう。
「悪いが、事情の説明は後だ——騎士団長たちに今の言伝を頼む。追い掛けたいなら勝手に追い掛けてこい」
しかしながら時は有限である。窓際で最後にサムウェルたちに振り返ったイミトは、是非を問う暇も惜しんで広々としたベランダへと駆け出し、魔力を注ぎ込んでいた魔石を空に放つと共に屋外の空へと飛び出してしまう。
無論、来賓用の豪華絢爛な部屋から見える景色は、常人が飛び立てば死は免れぬ見晴らしの良さ。しかし、咄嗟に彼の背を追ったサムウェルは彼が常人では無い事を目撃する。
「——召喚魔法⁉ イミト殿‼」
イミトが空に放った魔石から黒い巨大な怪鳥が現れ、城塞都市ミュールズの天空へと浚って行く光景。騎士たちは何を思った事だろう。
唖然と見送る他も無く、暫くの間、ハンググライダーの如く空を滑走していくイミトの姿を、彼らは一様に見つめ続けていた。
——。




