因縁の顔色。3/3
「けど俺達には、聞く資格がある。アンタの娘——メイクティス・バーティガルが元気にしているのかってな」
——メイティクス・バーティガル。
「……ああ。息災と聞いている」
「やはり、私の大まかな目的には気付いているようだな」
かつての戦友を裏切り、信仰する宗教における禁忌を犯してまで生かした彼の娘の名をイミトが言葉にして紡げば、心内を悟られまいと瞼を深く閉じゆく。
よって些細な表情の変化から何かしらの情報を得ようとするイミトは、すかさずとレザリクスの傍らに立ち控えるアーティー・ブランドに目線を流したのだが、彼は全く話を聞いていない程の様相でポーカーフェイスを徹底していた。
故にイミトは更に心を揺さぶるべく、悔し紛れに辟易と首を鳴らしながら次なる口撃の為の息を吸うのである。
「一人の為に世界を犠牲にする。国や世界や人々の為に身を粉にして戦った御大層なアンタが、そういう行動をするなんて誰も信じねぇんだろうさ」
けれど口から先んじて現れたのは深く重い徒労の息。世捨て人が世に期待しても無駄だったろうと諦めた後進の同志に漏らすような滑稽。世を作り上げてきた老獪な男に若人が告げる事も殊更に皮肉めいていて。
さぞかしそれは、レザリクスの心に響いた事だろう。
「国や世界……人々の為、か」
ふかふかの座椅子に深々と倒れ込むように、イミトの言葉で過去を振り返り始めた様相のレザリクス。幾度と己が胸に掲げたる正義に駆られ、盲目とも思える程に意気ばかり吐き、振り抜いてきた幾千幾万の太刀筋——思い出すのはそれらと親兄妹、友人、仲間、そして家族。
或いは敵の断末魔、叫び、命乞い、血飛沫。
「——……恐らく、いやきっと、私は初めから己の為にしか生きてきてはいなかった。私を含め、私を支えた者たちはレザリクス・バーティガルという幻想を見ていたのだ」
「だろうな」
かつての息切れの狂気を自嘲するレザリクスの様は、イミトがせせら笑うには十分な代物で。あたかもドブ泥に塗れた負け犬のブルースが流れ出すが如き雰囲気が、絢爛豪華な王城の応接室に漂うのである。
惜しむらくと存在しないロックグラス。しかしそれでも丸氷がカランとグラスを叩くようにイミトが嗤えば、それもまた体を成し。
そして——その笑みを受け、レザリクスは似通る悲哀を感じさせるイミトに問うた。
「君は、神をどう思うかね?」
宗教家らしく——、或いは宗教家らしからぬ問答。
彼の答えは如何ばかりか。
「……別に何も思わないな。お願いしても聞いてくれる連中じゃないだろうし、何かを邪魔された訳でもない。喋ったことも無いから好きも嫌いも無いよ」
彼は無宗教だと、そう言った。崇拝する事も無ければ敬服する事も無い、かといって神を憎悪するサタニズムに傾倒する事もなく、ただ道端ですれ違う通行人と変わらぬと宣うのである。
されど決して無神論を唱えるでもなく、無宗教だと彼は騙るのだ。
「そんな質問をいきなり投げかけて、そっちこそ最高司祭としてどうなんだ」
そして彼は見透かすように同志を再び嗤う。口角を片方だけ上げた皮肉笑いは、とても悪辣で意地の悪さを滲ませていて。
——すると、レザリクスは既に分かっているのだろうと彼が神に向けるのと同じ笑みで穏やかに待ち侘びていた答えを語り始めるのだ。
「……私は神を嫌悪している。これまで、幾度となく神から与えられたという教義の為、世界の為にと懸命に生きてきたつもりだ」
我ながら呆れ果てたものだ——その言葉が自らの頑張りばかリを主張する無能の理不尽と知りながら、それでも心にこびりついて剥がれない穢れ。
「しかし神が私に与えたものは、理不尽と思える程の試練ばかり」
「親や兄弟、友人……愛した妻、そして愛娘たち。救ってきた人々に理不尽に殺され、病に侵されていく……メイティクスが病を発症したのは、まだ生まれてから三年しか経っていなかった」
「わかりみが深いな……」
酒場でくたびれる男の愚痴を聞くが如く、イミトは同調の意を溢し、再びテーブル中央の瓶の中——角砂糖を一つ手に取ってテーブルに置いたままにしている紅茶のティーカップに陥れる。
「今では神など利用できる道具でしかない……私は、娘を守る為になら悪魔にでもなろう」
「娘さんは同意してんのかよ」
その様子を横目に自らの思想を語り続けるレザリクス。小匙で回し掻き混ぜられる紅茶は、色こそ変わらないが僅かに甘ったるい臭いを立ち昇らせ始めていて。
「……思う所はあるのだろう。だが、娘には私の為に生きてもらっている……生きてくれている。例え娘に蔑まれようと、己の存在を嘆き悲しんでいようと、生きてもらいたいのだ」
「優しい娘さんだな」
「——……ああ。自慢の娘だ」
それでもイミトは紅茶を飲まず、交わす会話を一区切り。
身を乗り出していた身体を深々とソファーに戻し仕切り直すような佇まい。
だが——、
「だが俺は愛しちゃいない。美人だって噂を聞いて縁談を持ち込みに来たわけでもない。俺にとって、アンタの娘がそうであるように……クレアは俺が世界を敵に回すだけの理由になる女だ」
話題は変わる事がなく、イミトは己の胸の内を晒し——レザリクスへと真正面からぶつけるのである。そして仕舞いの如く言葉を並べ始めた。
「純愛なんざ性に合わねぇし、まだ出会って一か月も経ってない女に愛してるなんて言葉の重みは軽いんだろうが……それでも俺はアイツに惚れちまった」
「……彼女には悪い事をしたと思っている」
「それはアイツに言ってくれ。ただでさえ、アイツの口から昔の男の話なんて聞きたくも無いんでな」
気軽に、フランクに、饒舌に。会話を成そうとするレザリクスを矢継ぎ早に追い立てて——そして最後に細やかな脅迫を織り交ぜるべく、一世一代の息を吐きながら締め括りの言葉を選ぶイミト。
「とにかく、今回の俺は和平調印式を成功させるために動いてる。邪魔する計画を立てているなら辞めておくことを勧めるぞ」
——さしずめ、惚れた女に復縁を求めて言い寄りそうな昔の男を牽制するように。
彼は、若さで踊って魅せる。けれど、その双眸に光るのは真剣の殺意。
無論——、
「それは出来んな。戦が起きねば娘が死ぬのだ」
「「……」」
相対する道化の仮面の裏にある顔を晒し合えば、互いを燃やし尽くそうとする静寂な炎の如き敵意と覚悟が垣間見え——二人の男は、己こそが全てを手にする者だとその穢れた眼で語り合う。
——決裂。決定的な断裂。
ほぼ同時に瞼を閉じて、短くも長い談話が終わる事を想起させる剣幕。
「一つだけ言っておく。娘は今回の件に何の関わりもない、私が意図的に争いを起こそうとしているなどとは思っては居ないだろう」
「……ご自慢の娘を馬鹿にし過ぎねぇ方が良いぞ。とは俺も言っておくよ」
やがて去り際の細やかな会話に至り、重くなりかけていた腰をよっこらと持ち上げて座椅子から立ち上がるイミトは、気怠さを残しつつ余計なお世話を焼く始末。
「それから俺の家族は、アンタみたいな神様を道具にする奴らに殺されたってのもな」
見下げるように静かに紅茶を啜るレザリクスに一瞥をくれて歩き出そうという構え。
そんな背中にレザリクスが尋ねた。
「——……紅茶は飲まないのかね、随分と心配そうに掻き混ぜていたが毒など仕込んではいないよ。私の故郷の特産茶葉を使っている、砂糖で台無しとはいえ——ひと口くらい飲んで欲しいものだ」
するとイミトは足を止め、レザリクスには振り向かずに何故か瞳を閉じて佇んでいるままのアーティー・ブランドに横目を流す。
「食べ物を無駄にしないのは俺の流儀の基本だけど、不味そうな食い物に最後まで付き合ってやる義務は無いさ」
「アンタの部下は、少し紅茶の淹れ方を勉強した方が良いよ。それに、俺は砂糖入りの紅茶は飲まないことにしてるんだ」
「……」
その言葉が何を意味するのか——少なくとも表情をピクリとも動かさない二人の男には通じたのであろう。
ただ——沈黙。それが答え。
「話は終わりだな。あんまり長居もお互いの為に良くねぇし」
「そうだな。束の間ではあるが、君と話せて良かった……ルーゼンビュフォアに話を聞いて以来、少し話をしてみたかったのだ」
答えを待たず歩き出したイミト。レザリクスは咳ばらいを喉を唸らし、調子を整えて彼に別れを告げ始める。
「君は聞いていたより、ひたむきで賢明な男だった」
そうして互いに肩の力を抜いた嘲りに、決別に、嵐の前が如く平穏と静寂が吹き抜けて。
「は、俺が賢明な訳も無いだろ。煽ても大概にしてくれ、結局は同じ穴の狢……風呂場や台所の水垢と何も変わらない。ドブ滑り野郎さ」
「随分と己の卑下をする……これでも私は怯えているのだよ。かつての魔王と剣を交える決戦前の緊張感を思い出す」
「そりゃ……若さを取り戻していて何よりだよ」
時勢に押され、イミトが辿り着いた応接室の出入り口。名残惜しい談話を切り捨てて扉の取っ手に手を乗せるが、取っ手を捻るその前に——、ふと彼は思い付いたように手を止める。
「ああ。最後に質問なんだけど、ルーゼンビュフォアの所に女の子が居たと思うんだが、元気にしていたか?」
「——……ルーゼンビュフォア殿の情報を与えるのは義理に反しよう」
白々しく最後の最後で腹の探り合い、
座椅子に腰を置いたままの瞼を閉じるレザリクスと、
「そりゃそうだ。聞いてみただけだ、こっちも言えない事は多いからな」
振り向かぬままに期待の欠片も無かった様子のイミト。
「だが——今宵の出会いを神に感謝し、君と君の仲間……蛇の娘に祈りを捧げておく」
「マーゼン・クレックに御冥福もお祈りしておけよ」
「「……」」
それでも様々と応接室にて顔を合わせた因縁の顔色は明確に、
「君たちに良き神の采配があらん事を」
「アンタにもな。俺は、思ったほどアンタの事が嫌いになれそうには無かったよ」
「……意外な事を言うものだ。敵に対する最大の賛辞と受け取っておこう」
やがて来る対決の色合いを鮮明にして。
「アーティー……彼を会場まで送って差し上げなさい」
「……はい。かしこまりました」
そして——、覆った英雄レザリクス・バーティガルはイミトが去った扉を締まる音の余韻に耳を浸しながら、
「——……世界を敵に回すとは、彼のような者も敵に回すという事なのだな」
「ふふ、この年にして貴様の言葉が身に染みる。魔王ザディウスよ」
過去の因果が責め立ててくる声の響きに、ふと——思い出し、嗤う。
——。




