今、ここに至りて。3/4
「……アンタ、元の世界に戻りたいとか思わないピョン? アンタはまだ人間ピョン、そのままの体でコッチに来れたなら、戻れる方法だってあるかもしれないピョン」
しかしながら思い付いた話題は、彼らの故郷の話。
もはや帰れぬであろう故郷の話。
「いや、普通に向こうで死んでるしな。戻れたりはしないだろ、この体は召喚魔法だとかの死者蘇生なんたらの魔法に巻き込まれた時の副産物だよ」
彼らは経緯こそ違えど、死を経験した。その抗いがたい別離の果てに別の世界へと生まれ変わり、転生を果たした奇跡か——或いは悪意の申し子なのである。
記憶に残るこの世界より満たされている別世界での出来事、或いは全く違う文化や常識。そもそもユカリに至っては人では無く兎に生まれ変わり、兎としても死に、魔物と化している。
比べようもない身に染みた便利さや過ごしやすさを、この世界の拙い物と比べて卑下する事も多いのであろう事は容易に共通の認識として彼女らにはあった。
けれど、それでもイミトは嗤うのである。
「仮に戻れたとして死亡届が出ているだろうから、新しい戸籍だのなんだの取得したりと申請はクソほどにメンドクサイと思うし……市役所で書類とかの手続きした事あるなら分かるだろ」
決して以前の世界と比べて美しいとは言えぬ小麦粉や固形バターを掻き回しながら、心を込めて美しいものにしようと試みながら、彼は嗤うのだ。
「市役所の書類って……何の話ピョンよ」
「いや、戸籍が無いと社会保障が受けられないじゃねぇかよ。保険証での治療費控除やら身分証が無けりゃ車の免許も仕事も、ローンも組めないし」
「戸籍を取るのもそう簡単じゃねぇだろ。お役所に行って戸籍が欲しいんですけどって言って「はい、どうぞ」と言われると思うか?」
「……」
イミトの言動を理解出来ぬと眉根を寄せるユカリを尻目に、帰ろうとせぬ理由をつらつらと並べ立て帰りたいと思う気持ちを嘲笑う。
「家族も知り合いも殆んど死んじまってるから異世界から生まれ変わって戻ってきましたなんて話は信じられないだろうから、取り敢えず病院に送られて精神病かどうか調べられて、その間に警察にも事情聴取を受ける事になるだろ?」
そんな様相で、さらさらと言葉を並べ立てている内に、冷水を吸い取り固まっていく小麦粉。まだ粒立つ固形バターの黄色を粘着して取り込ませ、器の中で一つの塊へと混ぜ進めるイミト。
「そこからどうしようもないなって話になれば、病院で入院生活か、そうじゃなくても法律的にどうなのかを弁護士と相談しつつ、何処かの施設で泊まらされて、その間の生活保障を受ける為の生活保護の手続きを済ませたりなんやかんや、なんやかんやだ」
「もし友人知人と思い出話でもして異世界帰りが証明できたとしてもだ、ニュースやらネットで呟かれたりして追い掛け回され炎上ネタにされ、しばらく普通の生活なんざロクに送れやしないだろ絶対」
「どうだ? お前が俺だったら、前の世界に戻りたいと思うか?」
ようやく見えてきた完成の形に、割と満足げな声で長話を締め括り、最後に会話の形として疑問を投げ返す。
けれど——、
「……頭いたいピョン。良く分からなかったし、もうその話は良いピョン」
ユカリは思い出していた。凄惨の過去の中で美化されていた以前に暮らせていた世界の、難儀な負の側面を思い出させられ、悩まし気に頭を抱えていて。
イミトの疑問調の同調圧力に対し、反論も同意も出来ぬ程の煩わしさを感じていたのである。
「それに——飯を美味そうに食ってくれる奴が居る分、こっちの方の居心地が良くなっちまってるからな」
「確かに向こうの世界は生活の質も良くて便利で、誰でも簡単に生きられて正しい世界なのかもしれないけどよ。俺は——、一食に命を込められる……命を感じられるこの世界、この生活も——あながち間違ってないと思ってる」
「ゆっくり腐って死んでいくより、生き甲斐があって楽しいよ」
そして清濁を併せ持つイミトが語る思想に、穢れた大人の雰囲気を感じながら人間として若くして死んだ彼女は複雑な胸中で彼を見つめる。
——彼女は人間のその後は兎だったのだ。
あまりにも脆弱で肉食獣に捕食されるばかりの小さな兎。
世界を恨み、憎悪と嫌悪にその身を浸し、魔物と化した哀れな兎だったのである。
「——……それは、力があるから言える事だピョン」
弱肉強食の理の前に詭弁など無意味と宣うように、彼女は寂しげに背後の厨房に腰を預け、諦観の如く静やかに赤い瞳を燻らせる。
実際——、イミトやクレアに相応の力が無ければ、彼女はカトレア・バーニディッシュの心と魂を食い破り、今こうしてイミトと話す事など無かったのだから。
「はは、違いねぇな。俺もクレアに会ってなけりゃ、今頃は死んでただろうし」
それについては、思い出し笑いをする程にイミトも同意する所。
平然と料理に勤しんでいる彼も、それらを勤しむ為に必要な厨房や道具を魔力で創れなければどうしていたかも分からない。
もはや器の中身を混ぜるというより練り込む作業に使っているヘラや器を愛しそうに握り直しつつ、彼は自虐も声にして。
故にか、或いは話題を変える為か、
「……それで? あの中だと誰が好きなんだピョン? パッと見、美人が多いピョンが……あの顔を布で隠している女の子の顔は分からないけど。良い子ちゃんピョンよね」
陰鬱とした雰囲気から僅かに明るくなった場にて、ユカリはイミトに何の気なしにそれを尋ねる。赤い瞳の視界の先には、イミトに任せられた作業を続ける彼女らの姿。
性格的に明るい純真無垢なデュエラを中心に会話を重ねている彼女らに目を配りつつ、そっとイミトへと横目を流すユカリである。
するとイミトは、その質問に少し考えを巡らすべく空を眺めた後で、質問そのものの不完全さを問うて魅せた。
「俺がゲイだって可能性は考えないのか?」
「え、そうなのかピョン?」
「いや違うけど。そういう配慮が必要な世界だったろ、素晴らしい俺達の世界は」
「……アンタ、やっぱり凄い面倒くさい人間ピョンね」
何の事はない悪戯心、世相を斬る皮肉の如く不敵な笑みを漏らし、ユカリの心を揺さぶる。彼にとってそれは代価だったのだろう。
「——まぁ、あの中だったらクレアだよ。隠すことも無い話だ」
自らの胸の内を晒す為の、ほんの細やかな照れ隠し。ユカリがイミトの性格の悪さを呆れる最中の深い瞬きの後。冗談めいた勢いで彼はそれを語る。




