第4話 微妙な関係
松の枝が門扉の上で庇のように伸びていた。元彼は鉄製の扉を開けて私を招き入れる。丸い石の連なりを踏み締めて奥へと進む。両側は木々や花々で埋められ、正面に銀色に輝く瓦屋根が見えてきた。
元彼は重厚な作りの木製の引き戸を開けた。
「飲み物を用意するから、上原は先に俺の部屋で待っていて」
「うん、わかった」
元彼は靴を脱ぎ捨てて廊下を走っていった。
私は靴を揃えて脱いで来客用のスリッパに履き替えた。等身大の木の衝立を避けて廊下を真っ直ぐにゆく。突き当りを左に曲がって間もなく、右側の坪庭が目に付いた。苔むした石が折り重なって合間を水が流れている。山々に囲まれた渓谷を表現しているように見えた。
奥まったところにある階段を上がって最初のドアの前に立った。以前と同じならば元彼の部屋は相当に汚れている。衣服と雑誌が部屋に散乱して、時に手付かずのコンビニ弁当が発掘されることもあった。大きなベッドの上は菓子類の置き場と化し、ジュースの飲み零しの跡でシーツはカラフルに染められていた。
「行きますか」
大きく息を吸ったあと、ドアノブを回して部屋に入った。
自分の目が丸くなっていることがわかる。敷き詰められた絨毯の上には何も落ちていなかった。深緑の草原を思わせた。窓際にあるベッドは白く光って見える。近づいて目を凝らす。
「本当に綺麗なんだ……」
真っ白なシーツに鼻を近づけると洗い立てのような香りがした。私はベッドの縁に腰掛けて上体を倒した。冷静になった途端、別の感情が湧き上がってきた。鼻筋に強張りを感じる。腹の中心が熱く、はっきりとした怒りを自覚した。
ここに訪れることは最初から決まっていて、私は美味しい撒き餌に釣られたのだ。部屋の状態が雄弁に語ってくれた。
ドアの開く音がした。
「飲み物を持ってきた」
その声で私は上体を起こした。麦藁帽子を被り直し、勢いよく立ち上がってずんずんと歩いた。元彼の笑みが弱々しくなる。トレイのコップを無言で引っ掴み、一気に飲み干した。
「ごちそうさま」
半開きのドアから出る間際、元彼が焦った声を掛けてきた。
「ど、どうしたんだよ、急に。もう少し、休んでいったらどうだ?」
「うるさい! このメダカ野郎!」
元彼は唖然とした顔になった。
一人の帰り道、私は思い返していた。どうして元彼がメダカなのか。言い放った言葉に改めて首を傾げる。
「どうしてだろう」
不思議に思いながら家に帰り着いた。上り框に腰を下ろして靴を脱いでいると背中越しに母親の声が聞こえてきた。
「今日も早い帰りね」
「門限の五時を守っているから」
「うちにそんな決まり事はないよ。また男絡みなんじゃないの」
私は振り返って素っ気なく答えた。
「今度は元彼を振ってきた」
「元彼を振る?」
難問に出くわした生徒のような表情で母親は固まってしまった。私は自室に向かいながらスマートフォンを取り出してネットに繋いだ。煩わしいカエルの検索に精を出した。
オレンジと水色のマーブル色の夕方。私はメダカのエサを持って縁側に立つ。火鉢の奥の平らな縁にカエルがいた。背中には緑の線が入っているので雄とわかる。
今日もメダカは元気に泳いでいた。昆虫が主食なのでカエルに食べられることはないだろう。私は適当にエサを撒いた。
その後、縁側に腰掛けてカエルの様子を眺めた。全く表情が読み取れない。考えていることもわからない。でも、疎ましい存在ではなくなっていた。
突然、カエルが鳴き始める。自発的に鳴く姿を初めて目にした。私は注意深く周囲を探る。ホテイアオイに縋るようにして別のカエルが顔を出していた。壮絶な縄張り争いが見られるかもしれない。
「そろそろ家の中に入ったら」
「静かにして」
その一言で母親はすんなりと引き下がる。私は火鉢を食い入るようにして見つめた。
水中のカエルはホテイアオイを足掛かりにして飛び出した。火鉢の縁に大きな尻を乗せる。背中には白と黄色の中間くらいの線が見えた。ネットの検索で調べた雌の特徴に符合する。
雄は鳴き続けた。おそらく求愛の意味で鳴いているのだろう。
「男ってヤツは」
私は縁側を離れた。
数日後、火鉢の中のメダカがいなくなった。ネットで詳しく調べるとトノサマガエルは小さな魚も食べるらしい。私はでっぷりした尻の雌を疑ったが、残念ながら証拠はない。仕方がないので近所のおばちゃんに可愛らしくおねだりして新しいメダカを貰ってきた。カエルのエサになるかもしれないが。
寝苦しい夜のせいで早くに目が覚めた。首に張り付いた汗を手で拭って自室を後にした。相変わらず階段が軋む。防犯用の鴬張りと思うことにした。心がほんの少し豊かになった。
一階の薄暗いキッチンに立ち入る。壁沿いを小走りして隅に置かれた冷蔵庫を開けた。漏れ出す光に少し目を細めた。変化に乏しいラインナップの中から牛乳を選び出す。左右に振ると軽い音がした。
私は直に口を付けて豪快に飲み干した。控え目に息を吐き、口元をさり気なく手の甲で拭いた。
一服すると意識は外に向かう。縁側に出ると火鉢の縁には二匹のカエルがいた。
「全く君達ときたら」
大きな雌が雄を軽々と背負っている。自分も将来はあんな風になるのだろうか。
無表情な二匹を見て私だけが笑った。