第3話 心の距離
高校の宿題は六日間で終わった。夏期講習には間があり、私は暇を持て余していた。昼間から自室のベッドに寝転がってぼんやりと窓外の景色を眺めている。その時を狙っていたかのようにスマートフォンにメールが届いた。
「なんで?」
差出人の名前に『前島将太』とあった。普通は女性が男性にメールをするのではなかったのか。元彼の常識が根底から変わったらしい。長々と書かれている内容を大雑把に訳す。暇だから会わないか、という単純な話になる。
現在、私と彼に繋がりはない。愛の告白をしたのは向こうであって、それまでは存在さえ知らなかった。知り合いや友達の期間を素っ飛ばしているので、恋人関係が解消された今は通行人Aと呼んでも差し支えない。
「でも、まあ」
私は涼しげな色合いのワンピースに着替えた。ドレッサーの鏡を覗き込むと髪の毛の一部に寝癖が付いていた。手で撫で付けてもすぐに元に戻る。かなりの跳ねっ返り者なので麦藁帽子を被って対抗した。
軽く息を吐いてドレッサーの前に置かれた丸椅子に座る。鏡の中の私は柔らかい表情をしていた。胸中ではあるが通行人Aは言い過ぎた。顔見知りくらいなので、たまの誘いに乗ってもおかしくはないだろう。
財布と油とり紙をポケットに入れて私は部屋を後にした。
弾むように歩いた。目的地が近づくに連れて腕の振りは小さくなる。待ち合わせ場所は以前に振られた駅前の噴水になっていた。会いたいと呼び出していながら罵倒されるような気がしてならない。それらしい一場面を頭が勝手に作り上げる。
自分の表情が強張っていることを感じる。元彼が噴水の縁に足を組んで座っていた。横顔なので表情がはっきりしない。髪型はソフトモヒカンではなかった。手櫛を入れたようなナチュラルさで元の黒髪に戻っていた。
「来たけど」
私は素っ気なく言った。多大な期待は自分を傷つける。強固な疑念で心を覆って臨んだ。
「やあ、久しぶり。元気にしてた?」
「うん、まあ。それなりに」
爽やかな笑顔を見せる元彼に私の警戒心は最高レベルに達した。全ての言動を見逃さない覚悟で平静を装う。
「それで今日はなに?」
「暇だし、ちょっと顔が見たくなってさ。今日は暑いだろ? そこの喫茶店で涼んでいかないか」
返事を待たずに元彼は歩き出した。話の流れに引っ掛かるところはなかった。実際に暑い。立っているだけでじんわりと身体に汗が染み出してくる。油とり紙を額や頬に使った結果、べったりと油が取れていた。今日はツイている。
選択肢は一つしかなかった。私は元彼と一緒に喫茶店に向かった。木製のドアの上部に取り付けられた土鈴が軽やかに鳴る。ひんやりとした空気が肌に気持ちいい。
「何名様ですか」
きびきびとした動きのウェイトレスがにこやかに声を掛けてくる。二名を伝えると私達は窓際のテーブル席に案内された。向かい合わせで座る。間もなく水の入ったコップが置かれた。
テーブルにあったメニューを元彼は笑顔で差し出した。
「好きなものを頼んでいいよ。俺はコーヒーフロートにするから」
「本当にいいの?」
「もちろんだよ。そうそう、ここのパフェは名物らしいね」
元彼は白い歯を見せて笑う。別荘を所有している家の人間だけあって太っ腹。以前と変わらない態度であっても警戒を緩めない。今の私達の関係は、ただの顔見知りにまで落ち込んでいた。
「じゃあ、これにする」
受け取ったメニューを元彼の方に傾けて一品を指差した。
「ああ、それね。わかった」
元彼は通り掛かったウェイトレスを呼び止めて、さっさと注文を済ませた。私は無表情を貫きながらも内心では驚いていた。デザートの中で飛び抜けて高いパフェを平然と受け止めた。今の私達の関係は、それはもういい。この気前の良さは、もしかして縒りを戻そうとしているのだろうか。
元彼は店内をのんびりと眺めるような感じで話し始めた。
「一年の時とは違って、今年は宿題が多かったよなぁ。上原も、そう思うだろ?」
「まあ、一年生の時よりはね」
適当な受け答えで相手の様子を窺う。
「どれくらい進んだ?」
「全部、終わったよ」
嘘を吐いても仕方がない。根が正直というだけでなく、腹の探り合いは面倒と思う気持ちの方が強かった。
「すごいな。俺なんか、半分くらいだよ。かわいいだけじゃなくて頭もいいんだな」
元彼は気になるキーワードを口にした。可愛いとは仕草のことではないだろう。話の流れで容姿に思える。いや、それしかない。一重まぶたと勘違いされることが多い、私の二重を元彼はさりげなく言い当てたのだ。
気分が上向いた。もう一度、同様の言葉を引き出そうと思った矢先にウェイトレスが割って入る。
元彼の前にはほっそりとしたコーヒーフロート。私の前にはバケツが置かれた。小さな子供が砂遊びで使っている物とよく似ていた。その中にアイスの山がそそり立つ。表面には赤いシロップが掛けられ、フルーツが飛び出すように刺さっていた。ボルケーノという名前に今更ながら納得した。
元彼は遠くを見るような目で言った。
「それ、食べられるのか」
「がんばってみる」
スプーンを握った私は冒険者の気分でボルケーノに挑んだ。十分も経たないうちに遭難して元彼の救助にあった。二人の健全な共同作業で山を征服した。辛うじて食べ切った。
元彼は腹を突き出すような格好で座っている。目に生気が見られない。自分自身の姿を見ているような気分になった。テーブルの下に隠れた腹部をそれとなく摩った。
「……お腹が苦しい」
「俺も限界だ。少し歩きたい」
私達はゆらりと席を立った。
たくさんの人を見ると気持ちが悪くなる。元彼も同じ様子で寂しいところを選んで歩く。閑散とした商店街の中を遭難者の態で進み、川辺の歩道に突き当たる。私は水気を含んだ風を思いっ切り吸い込んだ。横目をやると元彼も似たような状態で目を細めて深呼吸をしていた。
「こんなに美味い空気なら大歓迎だ」
「お腹も太らないし」
「思い出させるなよ」
元彼の苦笑いに自然な笑みを返す。
川面で揺れている光の帯を見ながら並んで歩いた。元彼が急に立ち止まる。私が後ろを振り返ると歩道に落ちていた石を拾っていた。水切りが出来るような川幅ではない。
不審に思った私は訊いてみた。
「そんな石を拾ってどうするつもり?」
「あそこを見てみろよ」
元彼は川の方を指差した。砂利と繁みが混在する中に澄ました顔でカエルがいた。脇腹には黒い斑点模様。背中には緑の線が入っていた。
「俺の腕前を見せてやる」
石の握りを確かめて元彼は鋭く腕を振った。放たれた石はカエルの手前の砂利を勢いよく弾いた。標的となったカエルは無反応で川面の方を見ている。
「少しずれたか」
言いながら元彼は歩道に目をやり、新たな石を探し始めた。
「そんなカエル、どうでもいいじゃない」
「なんでだよ。当たったら、面白いだろ」
その面白さ、私には理解できない。先程の石の威力は命に関わる。雨上がりに道路で轢かれているカエルの姿を思い出し、少し気分が悪くなった。パフェの影響が残っているのだろうか。
その中、石は投げられた。カエルに届く前に出っ張った石に当たって砕けた。飛び散る破片に紛れてカエルは川に飛び込んだ。それとも弾き飛ばされたのだろうか。
「当たったか微妙だな」
「どうでもいいよ」
私は川から目を逸らしてすたすたと歩き出す。元彼は小走りで横に並んだ。
会話は途絶えた。横手から視線を感じるが、今は話したい気分ではなかった。
家並みが緑に浸食されていく。川は過去を遡るように自然な姿を取り戻していった。私は不自然な早足をやめた。歩幅も狭めてゆったりした気分に切り替える。首筋に手を当てると少し湿っていた。
「だいぶ歩いて疲れただろ?」
「そうだね。それと少し喉が渇いたかも」
「ここから俺の家はすぐだし、休んでいかないか」
元彼は強く出ない。遠慮を含んだ柔らかい調子で言った。
「じゃあ、寄って行こうかな」
元彼は小鼻を膨らませて喜んだ。