第2話 ゆるゆると
雨の日が続いた。その間、メダカにエサは与えていない。落ちてきた虫やボウフラで空腹を凌げるような気もするが、よくはわからない。ネットの検索は手間が掛かるのでメダカの試練ということにしておいた。
じめじめとした陰湿な期間を抜けた。今日は祝日。朝から気紛れな太陽がひょっこり顔を出し、アリに等しい人間をこんがり焼き上げる。私はタンクトップとホットパンツ姿で縁側に立っていた。その身を蚊に捧げるのは嫌なので虫除けスプレーを全身に使った。
「生きているかな」
メダカのエサを手にして火鉢に近づくと、そこにはカエルがいた。縁の平たいところに堂々と座っている。背中には緑の線が入っていた。あの時のカエルなのだろうか。私には判別できないので、以前に見たトノサマガエルであると思うことにした。
じりじりと近づいても逃げる気配がない。目の前に来ても平然としている。全身がつやつやした瀬戸物のカエルを容易に想像させた。
視線を水面に移した。数匹のメダカが元気に泳いでいる。大きな個体が小ぶりのものを追い回していた。恋の季節なのだろうか。心に受けた治り掛けの傷が疼く。
私はカエルを意識しながらもエサを撒いた。足音をさせないようにその場を離れ、縁側の隅に腰掛けた瞬間、カエルに配慮した自分に気付いて少しムッとした。
メダカは健在であった。現状の数を把握していないので詳しいことはわからない。二年くらい前に近所のおばちゃんに五匹のメダカを貰った。雄と雌が揃っていたらしい。気付けばホテイアオイの根に卵が産み付けられていた。その数日後、透明な糸くずに思える稚魚がたくさん泳ぎ始めた。
ゆるゆるとした思考の合間に火鉢の縁を眺める。カエルは動かないで一方を向いていた。その下ではメダカが夢中になってエサを食べているのだろう。
ふと頭に浮かんだ。カエルはメダカをエサと見なしていない。あるいはとんでもない希少種に巡り合ったのか。水田で発情して鳴くだけのカエルなどではなく、パンダが笹を食べるように固有の物しか受け付けない。その法則から外れたメダカとは良好な共生関係を築いていたのだ。
「それはないね」
妄想が過ぎた。自分でも少し呆れてしまった。今日の太陽に炙られた脳みそが梅干し大に干からびたと思うことにしよう。
それよりも考えることは他にある。あと数日で夏休みに入る。高校の宿題を最初の一週間で終わらせて嫌々ながらも塾の夏期講習に備える。あとは何も予定がない。海に行って泳ぐ計画はなくなった。別荘で過ごす贅沢な三日間も幻に終わる。
「彼氏がいればなぁ」
そのことが今頃になって響いてきた。終わったことをあれこれ考えても仕方がない。改めてカエルを見た。全く動いていない。座して死を待つ心境なのかと思えば、突然に火鉢の中に飛び込んだ。私は中腰になった。波打つ水面が穏やかになるまで見続けた。
「よくわからないね」
本当に世の中はわからない。あんなちっぽけなカエルのことでさえ、私にはよくわからなかった。
夏休みに突入して三日が経った。私は早朝から起き出して学校の宿題に取り組んだ。初日から快調に飛ばしている。今の段階で薄っすらと終わりが見えていた。一週間は掛からないかもしれない。
鳥の囀りが煩くなってきた。机上の置時計をちらりと見る。鳥タイマーはかなり正確でいつもと同じ、六時の辺りを指していた。
背筋を伸ばした。身体の中に残っていた余熱を口から吐き出す。急に喉の渇きに襲われた。私はパジャマの上にピンクのカーディガンを羽織ると部屋を抜け出した。
薄暗い中、軋む階段をゆっくりと下りていく。
誰にも気づかれずに冷蔵庫に行き着いた。中には牛乳に豆乳、麦茶の瓶が入っていた。身体は甘いものをせがむ。食品の中に突っ込まれたグレープのペットボトルを引っこ抜いた。
食卓に置いたコップになみなみと注ぐ。盛り上がって見える部分にそっと唇を寄せて啜った。染みわたる味に身体が喜びに震えた。残りはコップを持ち、喉を鳴らして飲んだ。吐き出す息が鼻に香る。
シンクに空のコップを入れた。少し開いたカーテンに目がいった。急に朝の新鮮な空気が吸いたくなる。素足で縁側に出た。身が引き締まるような大気の中で大きく伸びをした。
視界の隅に違和感が生まれた。風がない状態で一部のミツバが揺れている。目を凝らすと中程にカエルがいた。葉の部分に後ろ足を乗せて火鉢の中に入ろうとしている。葉は体重を支えられないみたいで、ごめんなさい、と謝るように下がる。伸ばす前足は虚しく大気を掻いた。
カエルは無表情でもがいている。努力は一向に報われない。
「仕方ないなぁ」
私はサンダルを履いた。柄杓を手にカエルの元にいく。柄杓の先を尻に宛がい、下から押した。
「どうして踏ん張る?」
以前と同じように動こうとしない。少し力を強めると僅かに身体を動かして奥へと逃げる。その先で同じように柄杓を当てると、また動かない。
瞬間的に私の頭は沸騰した。空いている手でカエルを鷲掴みにして火鉢の中に投げ込んだ。くぐもった悲鳴のような鳴き声を耳にした。
私は急いで駆け出す。家に戻ると洗面台のハンドソープを壊れるくらいの勢いで押した。手にこんもりと盛られた泡を使って懸命に洗う。泡のぬるぬるが先程のカエルを握った感触を思い出させて躍起となる。
擦り過ぎた手が赤く染まる。私は片方の掌に怖々と鼻を近づけた。ハンドソープの甘い残り香にほっとする。同時に先程の自分の行動に疑問を持った。
どうして火鉢の中に投げ込んだのだろう、と。どこか遠くに投げ捨てることもできた。メダカのことを思うのならば、そうした方がいいに決まっている。
私は窓から火鉢の様子を窺う。カエルの姿はどこにも見当たらなかった。
「ま、いいか」
気分を切り替えて自室に戻った。ふらふらと歩いてベッドに前から倒れ込む。柔らかい枕を引き寄せて頬を埋めた。角砂糖に似た意識は温かさに溶ける。甘い眠りに落ちていった。