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第1話 彼氏の常識

 涼しい日曜日の午前中、何をしようかと考えていた時に彼氏からメールがきた。私に会って話したいことがあるらしい。

「仕方ないなー」

 ほおは自然に盛り上がる。久しぶりに表情筋が大活躍だ。かなり浮かれて部屋でスキップをした。少し息が上がる。太ってはいないのだが明らかに運動不足であった。

「読書は程々に」

 自分に言い聞かせて着替えを始めた。高校のジャージから可愛らしい水色のチュニックに着替えた。あまり似合っているとは言えない。根が正直なので自分のことでも滅多めったに褒めない。

「下は黒のレギンスかな」

 合わせてみると、トータル的には悪くない。メイクはどうするか。母親から譲り受けたドレッサーの前の丸椅子に座った。ボブカットの眠そうな目の私が鏡に映し出された。実際は眠くない。一重に見える目のせいだろう。まぶたを指で軽く引っ張り上げれば二重とわかる。友達はしわを主張したが私は断固、受け入れを拒否した。

「面倒だし、いいか」

 メイクは本当に手間が掛かって困る。鏡を見ながらアイラインを引いてもなぜか歪む。引いては即座に消した。執拗しつように擦ったことで睫毛まつげはかなく散り、著しく人相を悪くさせた強者が、この私だ。

「あとは……」

 使う気はなくても財布は持っていく。それと油とり紙は夏の必需品。使用して油がべったり付くとかなり嬉しい。反対に汗をかいたと思った時に使って、目に見える効果が得られないと騙された気分になる。

 用意が出来た。私は部屋を出て行こうとして机の上の帽子に引き留められた。今年は冷夏であまり暑さを感じない。窓に視線を移すとぼんやりした空が見える。

「必要ないかな」

 こうして私は家を出た。頭の中では彼氏の行動を色々とシミュレーションして気分を盛り上げていった。


 最寄りの駅に到着した。ロータリーにある噴水の前に彼氏がいた。何故か不機嫌な顔をしていた。茶色いソフトモヒカンが刺々しい凶器に見える。私の姿を見つけると競歩の選手になって迫り、いきなり言葉を浴びせた。

「上原とは別れるから」

「言い間違えた?」

 彼氏が目をく。端正な顔を歪ませて詰め寄ってきた。小柄な私は少し視線を上げた。

「ふざけるな。俺は本気だ。付き合って一カ月だぞ。その間、おまえから何の連絡もないってどういうことだよ」

「そっちからもなかったんだけど」

「普通は女からするもんじゃねぇのかよ」

 彼氏の普通を初めて知った。残念ながら活かすことはできそうにない。意外と衝撃を受けていた。口の周りが強張って自分の表情がはっきりしない。

「じゃあな」

 彼氏はジーンズのポケットに両手を突っ込み、荒んだ様子で行ってしまった。どうやら振られたようだ。自覚した途端、ちょっとした倦怠感に見舞われた。路上に立ち尽くした私は油とり紙を取り出し、取り敢えず一枚を鼻の上や頬に押し当ててみた。

「油は付いてないね」

 本当にツイてない。少し喉が渇いた。財布を持ってきて正解だった。近くの喫茶店に目を向けたあと、私は自動販売機でジュースを買った。腰に片手を当ててゴクゴクと飲んだ。甘酸っぱいオレンジが喉と心にみた。


 立ち寄るところがない私は真っ直ぐに家に帰った。あまりに早い帰宅に母親が居間から顔を出す。

依美えみ、もう帰ってきたの? 彼氏と喧嘩でもしたのかな」

 含み笑いの母親に私はいつもの調子で答えた。

「振られたよ。まだメダカにエサはやってないよね」

「え、まだだけど……」

 ぎこちない笑顔で母親はすっと居間に引っ込んだ。今晩のおかずが豪華になることを期待してキッチンに向かう。花台の隅に置かれたエサの袋を掴んだ。備え付けのスプーンを手にして縁側に出た。

 いつ見ても野性味に溢れた庭だ。雑草が伸び放題。ネギとニラは同化して見分けが付かない。自然農法と母親は言うが、ただのナマケモノにしか思えない。おまけに猫は被るし、狸寝入りも多い。一人動物園という言葉がしっくりくる。

 取り留めのない脳内話に幕を下ろし、私は庭に置いてあったサンダルに足を突っ込んだ。辺りを見回してから庭の隅に向かう。放置されたミツバが密林のように繁っていた。めり込む形で大きな火鉢が置かれ、その中ではメダカが気持ち良さそうに泳いでいた。浮いているホテイアオイは薄紫の大輪を咲かせている。亡くなった祖母の家から貰い受けた火鉢が池の役目を担うとは誰も思わなかっただろう。

 私は身を屈めた。エサの袋を開けて、また閉じる。ホテイアオイに紛れるようにカエルが潜んでいた。背中には緑の筋があった。私が見つめていても動じる様子がない。どんと構えた姿はトノサマガエルに相応しいが、ここにはいて欲しくなかった。あの大きな口が否応なく想像させる。

 そろそろと火鉢から離れた私は水撒みずまき用の柄杓ひしゃくを手に戻ってきた。ホテイアオイに寄り添うカエルの尻の部分を柄杓で軽く押したがびくともしない。無関心と無表情を貫く。水の中で踏ん張っているように思えた。

「ちょっとカエルさん」

 呼び掛けは無視されて私は方法を改めた。柄杓をカエルの顔に被せるように持っていく。すると触れる前に跳んだ。自ら柄杓の中に収まったのでミツバの中にポイと捨てた。

 ようやくエサを撒ける。メダカは先程から水面に集まって口をパクパクさせていた。条件反射とはわかっていても可愛らしい。私はエサを撒いたあとも、その場にとどまって眺めていた。

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