005
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――【定言・灰眼・目・睨・眺・測・視・正・具・審】
――断じる・四方三界を見渡す灰色の眼よ・目し・睨み・眺め・測り・視よ・正しく・具に・審らかに
暗闇の廃墟に、極々静かに観測のさざ波が点描されていく。
カツカツ、コツコツ、トントン、と、三種類の足音が一列になって床と思しい平面を漸進している。
そして辛うじて人だと分かる程度に、細長い輪郭線が暗黒の中に浮かび上がっている。
「尖った鉄筋、右、注意。」
アルト。音程の低い、女性的で無感情な声。
先頭を歩く、カツカツという足音の主。
「それだけじゃ分からないよ。もう少し具体的に僕に教えてくれる?」
テノール。音程の高い、男性的でおおらかな声。
コツコツの声の主。
「そのまま前進でいい。頭の右側。丁度今、髪に接触。」
「危なっ!?」
順に、アルトの声とテノールの声。
言葉少なく端的に答える者と、感情豊かに応える者。
「ご主人様、危ないって。」
そして前から三番目、トントンとほとんど無音で歩く者の、音程の高い、女性的で可憐な声。
ソプラノ。
デイル。
さして危機感のない声色。
「このくらいの暗さなら、俺にも辛うじて見えるから大丈夫だ。」
四番目の声の主。無音で歩いていた者の、音程の低い、男性的で冷静な声。
バリトン。
ファット。
さして危機感のない声色。
「それよりも、暗闇で手を繋がれている方が危ない。離してくれ。」
「辛うじてじゃ駄目。危ないから。もっとこっち。」
順に、ソプラノとバリトン。
「後。」
「後でね?」
順に、アルトとテノール。
「これは…、いや、すまない。」
「ごめんなさい。」
「素直に謝罪できるのはお前の美点だな、デイル。しかし、俺の社会的評価を尊重しないのは、それを打ち消すには十分過ぎる欠点だ。」
「くすくす。また怒られちゃうよ? 私、こんな暗い所でシャネに怒られたくないわ。」
「私は注意。怒るのはグイン。」
「僕の怒りは一般的でありきたりなものだし、デイルちゃんを怒ったりするなんてことはありえないよ。」
「シャネもグインも、デイルに弱みでも握られているのか?」
「ふうん、そうやって話題を逸らすんだ、君は。ねえファット君。」
「…悪かった。社会的に弱いのも悪いのも俺だ。」
「後でケーキを奢ってあげるからね、グイン。」
「階段、瓦礫。迂回。」
暗闇の中で、特徴のある四種類の声が散文的な音階を作りながら少しずつ進んでいく。
真っ暗な廃墟の中を三階まで昇った時、シャネと呼ばれたの声が告げた。
「明かり。気配なし。警戒。」
真っ直ぐな通路の奥に、ほんのかすかに褪せた色の照明が灯っている。
「…ひどい匂いだ。」
グインと呼ばれた声が、諦観するような声色で告げた。
その臭いは既にファットにも届いていた。遅かったか、と内心で呟き、確固とした足取りで光の元へ進む。
荒廃した大部屋の病室に、六つの簡素なベッドが等間隔に並べられている。
室内の色は黒。とっくに赤ではなくなっている。壁も天井も、変色した血の色でまだらに染まっていた。
部屋中の床の上にバラバラの惨殺死体。ベッドの上にではなく、床の上に乱雑に。
一見しただけでは、それがどの部位なのか分からない程に細切れにされていた。凶悪な力によって殺害されたとしか思えない状態。被害者の数を特定できない程に細断された肉片が、無人の廃墟に放置されていた。
悪夢の中でも見ることがないような、見るも無残な遺体が凝固した血溜まりに沈んでいる。
「これは、酷いな。」
微かに点滅する蛍光灯の下で、ファットが諦観の染みついた表情を露にした。呻くように悪態をつき、白豚族特有の大きく平たい鼻を片腕で覆い隠した。
「被害者は四人。死後半日以上経過。直ちに通報する。」
フードを目深に被ったシャネが遺体の頭部を数え終え、声と同様の感情の起伏に乏しい表情で事務的に告げた。
「くそっ! こんなことをした奴は、今すぐ死ぬべきだ!」
シャネと同様のフード姿のグインが、一度激昂した後に声を抑えて室内を見回す。しかし、全く怒りを隠し切れていない。
二人とも、揃いの灰色のコートを纏う。背格好はほぼ同じで、ファットとデイルの中間に位置する。
シャネが短い金属製の魔導の杖を左手に携え、右手の遍話機で然るべき機関に通話を行う。その間、グインは自身の頭身よりも遥かに高い薙刀を抱え、最大限の注意を払ってシャネを警護していた。
「ご主人様、大丈夫?」
デイルは床に散らばった内臓や肉片にはさして興味を示さない。何よりもまず主人を心配し、ファットへとハンカチを渡した。
「ああ、助かる。」
若手の同業者達の様子を視界の端に収めながら、ファットは努めて冷静に殺害現場を検めていった。検分に支障が出るほどに敏感な嗅覚は、厚みのあるハンカチで減衰させるしかなかった。
――ここには、食料も、必需品もない。
殺害者の遺留品も、凶器もない。
血文字もなく、被害者たちを弄んだ形跡もない。切られた形に何らかの芸術的な意味が見いだせるわけでもない。
――【定言・走査・拡・映】
――断じる・万象を査べる賢者の手よ・拡がり・映せ
念のため、習得している捜査用の魔法を行使する。シャネの観測魔法と比べるとはるかに下級だが、周辺の把握と生命反応の発見にはこの位でも十分だった。
――周囲に、自分たち以外の体熱も鼓動も感知できない。
シャネも何も言わない。この病院の廃墟にはもう、自分たちを除いて誰もいないだろう。いたとしても、後は警察に任せることになる。
一方で、まだ足を踏み入れていない隣の病室の方に、直方体の形をした大きな物体が存在していることを感知した。
グインとシャネに断りを入れ、ファットはデイルを連れて足早に隣室に向かう。
――【色彩・白月】
――彩る・虚空の龍の白き月よ
初歩の初歩、零位の色彩魔法を使い、照明替わりの淡い白色光を空中に灯す。
ファットはここも殺人現場と同じ大部屋の病室であることと、部屋の隅に大きな木箱が無造作に置かれていることを確認した。形としては何の変哲もない、どの製造工場でも使われている業務用の箱。それが、四つ。
全ての箱の蓋には小さく『回収品』という文字が書かれていた。蓋が外されたままのものが一つ。考察は後にし、中を検める。
箱の中には毛髪と血液が底部にこびり付いていた。
「この箱に入れられて、ここまで運ばれたのかな。」
デイルが、ファットの背後から当然の推測を口にした。
「そうだろうな。大きさを考えると、膝を曲げて、一つの箱に一人ずつ。しかし…。
どうやって、誰にも気づかれないように…、誰が、どこで…。」
ファットは独白的に思考を羅列していく。グインたちと合流した後も、冷静にというよりは執着的に呟き続けた。
「残酷だが、機械的で、猟奇的ではない…? ただここに連れてきて、殺してきただけか? しかし、この回収品という文字…。回収されるものとして扱われ…。」
「それを、ただ運び、殺し、放置した。
だが、だからこそ、あの惨たらしい光景は異常だ…。」
「…死体が切り刻まれている、という点で、ギードの事件と共通している。しかし、あまりにも切り刻まれすぎている。
被害者のテイデル・タジューは、一体幾つに切断されていた?」
「被害者は、頭部や手足が切断されて殺された。公表されているのはそれだけだ。」
「ここの被害者たちも切断されている。しかし、一人につき二十回以上は切断されている。
腕一本だけで、五、六個の肉片になっていた。
何の理由もなくそこまで細かく切り刻む必要はない。異常性が疑われる。しかし、それ以外に異常性がどこにもない。普通、猟奇的な事件では複数のサインが意図的に、誇らしげに残される。自己顕示の為に。」
「しかし、ここにはそれがない。明らかに異常だ。」
「異常だよ。人間がしたことだとは思えない。」
呟きの最後の断言に、グインが感情を抑えて応えた。
「僕たちが追跡している連続誘拐犯が、浚った人たちをこういうふうに殺していたってことを、今の今まで知知らなかった。どんな殺し方でも、殺人は殺人で、許されることじゃない。でも、これはあまりにも酷すぎる…。
僕達がもっと早く来ていれば…。」
「それは違う。死後半日以上経っているということは、お前たちがここを突き止めた時にはもう手遅れだった。そうだろう?」
「犯行時刻は未明以前。ここを突き止めたのは正午過ぎ。阻止は不可能。」
ファットが若いグインの後悔を年長者の立場から否定する。
シャネも無感情に、しかし彼女にしては珍しく、多くの言葉を続けて口にした。
「内実の隠蔽は、警察局のいつもの手口。類似した事件の犯人を特定するため。全ての捜査で有効な方法。それを口実にし、恣意的に情報隠蔽。」
「…この犯人の追跡がお前たちに委任されているということは、少なくとも容疑者の身元は特定されているということだ。ギードとの関係は…、デイル、どうした。」
「足りないところがあるみたい。」
いつの間にか、デイルは足元の肉片の散乱を見下ろしていた。
その表情に現れたのは、興味ではなく憐憫。
その立ち姿を目聡く見つけたファットに答えるように、床の上の死体に向けて、悲しげに言葉を零した。
「かわいそう。大事なものを奪われちゃったのね。」
「…どこを。」
ファットは短く尋ねる。
「心臓を。」
デイルは短く答えた。