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022

 022




 自我が消え去りそうな闇の(うろ)で、唇だけが残された感触だった。


 俺は今、デイルの口付けを受けている。俺は蘇生の奇跡を受け続けていた。


 あれは、単なる夢。いや、夢ですらない、一方的に放たれた記録の羅列だ。しかし、意識を奪う悪夢でもあった。


 口付けを通して何よりも大切な恋人の熱を感じ、奪われかけていた自由をこの手に取り戻す。

 意識を構成する言葉を(ほしいまま)にするこの恐るべき敵は、人間の天敵だ。精霊の力だけでは抗い切れなかった。


 ――【定言・指針・求・示・顕・正・赤・赤・赤・赤・過・標・尚・現】

  ――【断じる・因果を指し示す光の短針よ・求め・示し・(あらわ)せ・正しく・赤く・赤く・赤く・赤く・(とが)を・(しるべ)へと・(なお)(うつつ)へと】


 ――【十二乖・彷徨(さまよ)う罪人は自ら(はりつけ)(すが)(うつつ)となる】


 鮮血色ではない、光り輝く鮮紅色の短針が俺の鳩尾(みぞおち)に突き刺さり、体内の一点を指し示す。


 デイルがかつて断言し、押印した裁断の道標。

 その罪が盗人の手に宿っているのなら手に。逃亡者の足に宿っているのなら足に。あるいは目や口に。そしてもし、頭脳ですらなく人格そのものに罪が宿っているのならば、消せない(とが)は人格に宿るのだろう。


 そうして、赤い短針によってセキゼスの位置が確定し、道標ごと存在が空間に捕らえられた。


 頭脳と脊髄には至っていなかったが、既に胸部と腹部の細胞がセキゼスという知性自我に支配されていた。自分の肉体が内側から他者の疑似的な神経に置き換えられていく(おぞ)ましい感覚。意識を奪われていた間にここまで侵略され、ほとんど手遅れになっていた。


 しかしデイルならば、それが生きているのなら、生体に宿るものであるなら、大いなる運命の流れから掬い取ることができる。


 セキゼスの自我、自立化した人格に侵された部位が周囲の組織ごと体から除去される。俺に残されたのは肩から上の両腕と頭部と、宙に浮かぶ両脚。


 そして、二人で協力して削り取られた肉塊を丸め、新しい心臓が象っていく。

 同時並行で右足を蒸発させてエネルギーに還元し、空っぽになった龍の心臓の首飾りを隔離する。また、左足を蒸発させてエネルギーに還元し、意識を失ったままの幼児を保護することに成功した。


 為すべきことは、あと一つ。


 俺から造られた疑似心臓が醜く蠢く。

 俺とデイルが二人がかりで力を注ぎ、セキゼスを閉じ込める檻とする。


 再びの拮抗。生と死、血と火、生命と精神の均衡。三者とも、赤い世界の只中で動くことができない。


 疑似心臓の中のセキゼスが叫ぶ。心を壊すような絶叫。怒り。そして恐れだ。




 ――再び、言語化された知識と記憶が放射される。幾千万の、出鱈目で、嵐のような、言葉の奔流。

 全てが黒い線分と文字で構成されていた。

 人の顔も、手も、体も。家も、木も、山も、太陽も。魔物も、死体も、心臓も。

 夢の中で垣間見た人間たちと光景の全てが黒く。セキゼスの家族が。小さな王国が。龍が。奴隷たちが。大地が。絵のように。映像のように。この世界の文字で。表音文字で。表意文字で。この世界に伝えられた異世界の文字で。漢字で。平仮名で。カタカナで。アルファベットで。記号で。数字で。点で。線で。まるで無秩序に。しかし一定の法則を持って。

 ああ、そして。

 あの心臓が俺の体で出来ているからだろうか。まるで逆流するように。反射し、投射されるように。投影のように。広がっていく。展開されていく。俺の記憶も、そして重なり合った俺を通じ、デイルの記憶もまた――


 ――言葉の渦。二人の、二つの人生。全てが線と文字の表象に変換され、交ざりながら渦巻いていく。遥かな過去の、子どもの頃の思い出。とある世界の原初の光景。とうに忘れてしまっていた記憶。光と闇。懐かしい光景。拓かれた世界。

 それらは自分自身であり、彼女自身であり、恐れるものではなく、どうということはない。

 線と文字で出来た過去がこんなにも美しいのなら。いつまでも眺めていられる――


 ――事故に巻き込まれしまった妻と娘が血を流して――

 ――裸のまま鎖に繋がれたデイルが血を流して――




 目ではない目を、手ではない手でそっと塞がれた。

 分かっている。見なくていい、気にする必要はないと言いたいんだろう?

 すまない。悪かった。男というのは、こういうことをいつまでも引き摺って、気にしてしまう生き物なんだ。

 お前はもう大丈夫だと言っているのに。過去は過去だと。

 ああ。俺だってもう大丈夫だ。だからお前と一緒になった。そして、お前の過去よりも、今の方がずっと大事だ。今、幸せでいてくれるならそれでいい。それでいいんだ。


 じゃあこうしよう。あの頃の思い出を描こう。果てしない冒険の思い出を。

 言わば、これはあいつの執念の記憶と俺達の冒険の記憶の戦いだ――




 ――悪徳の残骸疑似楽園。

 旅を始めて早々、魔界という大自然の迷宮で迷い続けて数々の遺跡に迷い込み続けて、ようやく辿り着いた人間の街。やっとの思いで着いたというのに、なぜか住人が半分も減っていて、いつの間にか街の復興に協力することになってしまった。その結果、世にも奇妙な美徳の街に変貌したのは決して俺達のせいじゃないはずだ。――バイオリン弾きも長老も画家もいる。懐かしいな。

 ――変容する千尋の螺旋渓谷。

 この渓谷は本当に美しかった。ただただ、圧倒された。こんなにも美しい光景があるとは夢にも思っていなかった。魔物の巣窟でさえなければ、もっとゆっくりと探索したかったな。――そう、これだけでも、あの輝きを思い出す。色が付いていないのは仕方がない。それに、色が付いていたとしても、あの光と色彩を再現することは難しいだろう。

 ――第二奇跡の狂奔派生を封印する四次元迷宮。

 この迷宮には手こずった。神話時代の遺跡の中でも、あれ程血反吐を吐きながら攻略した場所はない。独自の規則に支配された悪夢のような四次元の迷宮。初めて発狂を覚悟した。正直、もう思い出したくもないくらいだが、最後に見た狂奔する奇跡の閃光だけは素晴らしかった。――筆舌に尽くしがたい、明滅する宇宙の花火。はは、あの光を描画するのは人間の奇跡ですら手こずっているな。

 ――銀河の流れる虚空峡谷レッセオ、その中空に浮かぶ球大陸リグーゼン。

 この圧縮された小世界を語り尽くすためには七日七晩が必要だ。それでも、ああ、あの日々だけは語り尽くせないだろう。お前が妖精の忠告を聞かず、小人の国で禁断の実を食べて赤子になり…、これだけ聞くとまるで喜劇のようだな。いや、もう喜劇でもいいさ。お前だってそうだろう? ――育ち直し、記憶を取り戻すまでの二十年。まるでアルバムのようだな。あれはお前が初めて料理をした時か。あれは水晶の森の泉で釣りをした時。あれは反抗期のお前と本気で喧嘩をした時…。本当に大変だった。本当に、幸せだった。まるで、長い冒険の中で、全く別の人生を送ったかのようだった。…手を出してもよかったのに、だと? バカを言うな。パパと呼ぶな。


 ――楽園を目指しながら、好奇心を満たすために未知を探し、偉大な自然を旅し、希少な人里を訪れ、方々の遺跡を巡った。無論、美しいものだけではなかった。壊れた奇跡の爪痕と、汚れた神話を知った。精霊と人間の過去を知った。人間の欲望から生み出された異端の奇跡を幾つも破壊した。身に余る絶対的な正統の奇跡を手にし、忌むべき太古の業から生み出された大敵とも戦った。

 俺の身勝手な好奇心から、多くのものが失われ、多くの後悔が生まれた。


 それでも。それでも。


 俺もまた、叫んでいた。無意識の内に。心を燃やすような絶叫。怒り。そして喜びだ。


 言葉だけでは、全く足りないと。






「グイン!」


 セキゼスが怯んだ隙を、俺は見逃さない。

 大人として、為すべきことを為す。

 残った左腕の全てを蒸発させ、超越の力へと変換する。同時に、遠く離れた若者たちに力を託す。


 返事はない。しかし、その代わりと言わんばかりに一筋の流星が赤い空を翔け、空間をも切り裂く七色の刃の閃きがセキゼスの正真正銘最後の心臓を両断した。返す刀で切断し、袈裟切りで断ち割り、横薙ぎで切り裂き、さらに加速し、縦横無尽に断ち斬り――


 ――刹那で心臓はバラバラに切り刻まれた。今までの被害者と同じくらいの数の肉片となった。


「シャネ。止めだ。」


 七色に輝く瞳に浄化の剣が映える。


「視えるな?」


「うん。」


 短くも、明瞭な返答。


 宿るべき肉体を失ったセキゼスは死者となった。たとえ、色も形もない、奇跡の存在だとしても。


 魔法もまた、奇跡だ。それどころか、全てが奇跡だ。
















 せめて、書き記す。(つづ)り、書き残そう。

 同情でも憐みでもない。

 ただの激情だ。そう。書き出さなければ気が済まない。臓腑に溜まったこの言葉を吐き出さなければ鬱屈でどうにかなってしまいそうだ。

 これは、どうしようもない人間の物語だ。他の誰でもない、セキゼスの人生。俺が持っていていいものではない。

 こういう人間がいた、という事実を広める為でも、理解し合うためでもない。

 あくまでも自己満足。


 それでも。


 せめて(はなむけ)となるように、と願うのは感傷が過ぎるだろうか。


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