002
002
日の出と正午の間。
工場や農場に勤めている一般市民は、とうに出勤して働いている頃合い。
カラフルな家屋の連なりと、黒く鉛直な断崖に挟まれた青空の下をあまり真っ当でない主従関係の二人が並んで歩く。
細い青空は、見事に晴れ渡っていた。
「平和だな。」
内心で溜息をついて、ファットは一人ごちた。
「平和だねー。」
間延びした声で伸びをし、デイルは応じる。
二人が歩く大通りの両脇には色鮮やかなレンガ造りの商用の建築物が所狭しと立ち並ぶ。
通りの奥の路地裏には、赤茶色や焦げ茶色の一戸建ての住居、数世帯分の小規模な集合住宅が見え隠れしている。
そして、それらを収める巨大階段。
人が働く虹色の区画と人が住む褐色の区画が、街一つ分を収める巨大階段の各段にモザイクのように点在する。
巨大階段は一つではなく、無数ともいえる程に軌跡を描き、群れをなし、上下左右に立体的に連結し、その全てが一体となって緩やかに円弧を描きながら遥かな天井へと続いている。
俯瞰するのならば、それは天を衝く円環の壁に挟まれたとぐろ。
最上層の光り輝く庭街は農場と牧場の街。
最下層の暗く沈んだ底街は工場と工房の街。
それらに挟まれる中層、物と人を乗せて渦巻く段街は商業と住宅の街。
そして、更なる彼方と、更なる地下には――
ファットは、蟻のようだと思い、感慨にふける。
ここが楽園の一部。楽園の第二外環と呼ばれる領域。
安全性と利便性、人口密度の面で問題は山積しているものの、死の大地の恐怖を堰き止め、ここは人が主役の世界だと錯覚させることができる程度には、最期の繁栄を謳歌している。
「よく崩れないよね。こんな大きい階段の街に暮らしてることが、今でも不思議。」
「太古の奇跡で巨大階段のフレーム全体を空間に固定しているらしい。それで極めて壊れにくくなるだけじゃなく、経年劣化もしなくなるという。大したものだ。」
「へー、そういえば、そんなことをどこかで聞いたかも?」
徹夜の暗鬱とした追跡劇があったというのに、少女は機嫌よく笑顔を浮かべ、スキップするように巨大階段の端の回廊を歩いていく。階段の街を収める大気の気流を受け、くすぐったそうに目を細めた。
背後の暗鬱とした主人の、眩しいものを見るような視線に気づくと、にこりと笑って手を繋ぐ。
ここは、上下左右が階段の層に挟まれた街の中。
しかし、少女の笑顔を見て取れるように、決して暗くはない。
街角のそこかしこに燈台が設置されていて、主要な街路全てが柔らかな白色光に照らされている。
「…しかし、子どもが気楽に出歩けないくらいには、平和じゃないな。」
「そうだねー。そんなことができるようになるのは第一外環からだって。第二のここじゃ無理無理。」
「子どもの安全を思うなら、通学以外はなるべく引き籠らせるか、大枚をはたいて守護者資格のある使用人を雇うしかないか。」
「うん。それから、もっとお金を貯めて内側に引っ越すとか。
あっちなら、毎日二十四時間警備された百貨店も公園もあるって聞いたから、噂の天国の内苑ほどじゃないにしても、ここよりもずっと安全で幸せな生活を送れると思うよ?」
「…この街は、内と外で格差が大きすぎる。」
「こっちに引っ越してきて最初に捕まえた逃亡者も、他人を自分の餌だとしか思ってないような外道だったね。そういう人間はどこにでもいると思うけど、好き勝手できる環境が問題っていうことかな。」
「…正直なところ、最近は人間よりも魔物を相手にしていた方が気が楽だと思うようになった。奴らにあるのは生存本能で、邪悪という訳じゃないからな。」
「じゃ、そうする?」
「今回の件が片付いたら、そうするのもいいかもしれない。人間の悪意を相手にするのは、どうやら俺にはあまり向いてないようだ。ここに来てようやく、それを自覚するようになった。」
「くす、そうだね。ご主人様はそういう人だもの。人間のの悪性を楽しめない人。」
デイルが面白そうに笑い、ファットの手を握り直した。
「私はご主人様に従うよ。だから、好きなように決めてね。」
「ああ。そのつもりだ。…しかし、そうなると、実入りが厳しいからな…。」
「毎年恒例の魔竜戦争に参加できなかったら、それ以外の狩りのお仕事は不安定で、運が悪いとご飯がお粥とお漬物だけになっちゃうからね。世知辛いね。」
「世知辛い。特に、ここに来たばかりの時に今年の戦争が終結寸前だったのは運がなかった。あのひもじさは遠い過去のようでもあるし、つい昨日のことのように鮮明に覚えている。」
「それで、ちょっと無理して、この街に引っ越して、収入のいい追跡者の仕事もするようになったんだよね。それ以来、柔らかいベッドでぐっすり眠れて、美味しいものをお腹いっぱい食べられるようになりました♪
でも、あの頃の貧乏な生活も、あれはあれで好きだったよ。」
口を綻ばせてデイルは続ける。
「第三外環の捨て値同然のおんぼろ小屋で、ご主人様と身を寄せ合って寒さを凌いだこともあったね。今となってはいい思い出。」
「そうか。お前がそう言うなら…」
「なんだいなんだい、折角こっちに引っ越したばかりなのに、地獄に戻っちまうのかい、お二人さん?」
女性の肉声。
二人が日課のように楽園生活の世知辛さを話題にしながら歩いていると、道の脇から親しみのある声がかかってきた。
「今日も仲がいいねえ。景気はどうだい?」
その挨拶の主は、ビービー青果店と印字された軒先に立って接客をしている、恰幅のいい中年の女性だった。接客用の笑顔に気安さを混ぜて二人に顔を向けている。
「シトさん。こんにちは。」
「はい、こんにちは。どうだい、いいの入ってるよ。」
デイルがすぐに明るく挨拶を返すと、シトと呼ばれた青果点の店主がすぐさま商品を勧めてめてきた。ファットは商魂逞しいと評価する。
「んー、じゃあこっちのイチゴ買っていこうかな。ご主人様、ビタミンが足りてなくて。」
「お目が高いねえ。このイチゴはね、ちょっと…、かなり値は張るけど、なんと内苑の農場でできた極上品、極楽品なんだよ。味と栄養は、保証書付きだよ。
一個ずつ特別にバラ売りもしてるから、おひとつどうだい?」
「珍しいな。内苑産がここまで流通してくるのか?」
「そうそう、たまに、本当にたまになんだけどね。そういうこともあるんだよ。見てごらん、この艶。輝き。まるで宝石みたいだろう?」
「きれーい。すごいね。ええっと、じゃあバラ売りで三つ!
いい? ご主人様。」
見た目は本当に可憐で愛想のいい従者に、とびきりの笑顔でそう請われ、こういう時の笑顔は芸術れべるだなと内心で思いつつ、ファットは軽い財布を取り出す。
店頭にうやうやしく置かれている籠から三粒の赤い宝石を取り出し、その内一粒を女店主に渡した。
「折角だ。店主も食べてくれ。」
「まあ、いいのかい?」
「ああ。いつもまけてくれているからな。デイルもそのつもりで三つと言ったんだ。だろう?」
「うん。ふふっ、一緒に天国の果実を堪能しましょ。生きるために必要な物を良心的に提供してくれる人には、多少の役得はあってしかるべきだもの。」
「まあ、ありがとうねえ。本当にいいのかい? …じゃ、遠慮なくご相伴にあずるよ。…んーっ、美味しい!」
「おいし♪」
「…旨いな」
たった一粒でも、目が覚めるような甘味と酸味。
「魔法でもかけられてるみたい。」
しばしの間、三人共がその極上の味を堪能した。
ファットは大きな硬貨を釣銭として受け取る。重量だけは増した財布を感じつつ、遅い朝食はこの果実と帰ってからの茶漬けと漬物だけだな、と頭の片隅で諦めた。
しかしこれはいい買い物だったとも認め、極上の笑顔の浮かべているデイルへと視線を移した。
「幸せだね、ご主人様。」
「…ああ。」
「はあ…、なんだろうね、煉獄の王国の人たちの考えてることはまるで分からないけど、天国の人たちは、それこそ天上のお星さまだよ。」
女店主は、目前で繋がれた手にまるで気付いていないかのように会話を続ける。
「…天国と呼ばれる本当の楽園が、この楽園の中央に存在していることを俺たちに忘れさせないために、こうして奇跡のような産物を小出ししているのかもしれない。庭街の農園は勿論、煉獄…第一外環の生成装置ですらこんなものは到底作れないから、一番分かりやすい証拠になる。」
「アハハ、旦那さんは面白いことを考えるねえ。
でも、そうだねえ。何十年、何百年もここで暮らしてたら、内苑のことなんて夢のまた夢で、本当に存在しているかも分からなくなってくるかねえ。私にとっては、こんな極上の果物があるからだよ。本当に美味しくて美しいものが生み出されているっている楽園の中心が、本当にあるかもしれないって思えるのは。
本当、旦那さんの言う通りかもねえ。
おっとっと。いけないいけない。私なんかのことより旦那さんたちのことだよ。本当に外に引っ越すのかい?
いや、首を突っ込んじゃいけないことだとは分かってるけどね…。」
「ああ。」
ファットは深刻なことではないというふうに軽く頷く。
「別に話せないようなことじゃない。第三外環の地獄にも、この辺獄と同じくらい住みやすい家と、狩猟以外の安定収入の副業があれば、という条件付きの話だ。」
それは予想していた話題だった。この話も噂話として近隣に広まるのだろうかと考えつつ、生真面目に答えていた。
「しかし、実際は難しいだろう。結局は、相応の収入に満足して、犯罪者と魔物の両方を相手に治安維持の仕事を続けることになりそうだ。」
「そうかい。」
その返答を聞き、シトは安心したように表情を緩める。
「そうだね。それがいい。この段街に旦那と嬢ちゃんが越してきて、まだ二月も経ってないだろう?
やっとここの生活に慣れてきた頃じゃないかい?
今まで、ちょっと働きすぎてたんだよ。少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないさ。」
「助言、感謝する。確かに、楽園に来て、まだ三ヵ月だ。」
――最初の一ヵ月は、地獄と呼ばれる第三外環で魔物の狩りに明け暮れ、次の二ヵ月は、人としてようやく文明的な生活を送ることができる、辺獄という名の第二外環で奇跡的に無事に暮らすことができていた。
ファットとしては、煉獄という、思索と文学、芸術と娯楽に明け暮れる第一外環の暮らしも体験してみたいという興味もなくはなかったが、その程度の思いでは決して届かないことも分かっていた。
そして天国と呼ばれる内苑は、謳われる御伽噺と、このイチゴ。夢のまた夢。
自分たちがこうして生きているのは幸運のお陰で、まだまだ地に足がついていないことは理解している。
「短い間に、この新天地で知人、友人と呼べる関係を多く持つことができた。住み慣れてきた場所を離れるのは抵抗がある。もちろん、この店もその一つだ。」
「私もっ! ここ、いいところだもの。私、ここの人たちのこと好きよ。もちろんシトさんも。」
「そうかいそうかい。そう言ってくれて嬉しいよ。あたしも、旦那さんたちがいなくなると、寂しくなるよ。」
「主にデイルが、だろう? 陰気で醜悪な私よりもずっと人気なのは知っている。分かっている。月とスッポンだ。」
「あはは、そんなことないって。旦那さんだって人気さ。ぐっときたよ、さっきの。」
「ご主人様だって人気者だよ。貧乏貧乏言いながら、お金を落とすことに躊躇いがないもの。」
「…そういうことは一々言わなくていい。」
ファットは溜息をついて続けた。
「つまり俺は、この街で幅を利かせて始めている新参の魔法使いという訳だ。」
「そうそう。旦那は真っ当に、この街の住民から信頼を勝ち取ったんだ。もっと誇ってもいいと思うけどねえ。」
「だよね。第一印象なんて最悪だったじゃない。可憐で可愛そうな女の子を奴隷にしている悪い魔法使いだって。その頃と比べたら雲泥の差だよ。」
「その他者評価は今でも覆っていないような気がするな。自尊心に溢れる、お前の自己評価の方は知らないが。」
そう言って、ファットは半眼になって従者を見下ろす。デイルもシトも、陰気だが義理堅い魔法使いの珍しい嫌味に、大きな笑い声をあげた。