015
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ベージュ色のタナー製鉄社員寮第二棟三〇六号は、人工の小川を渡った先で静かに佇んでいた。
ツシイン夫婦の住居での出来事は、目撃した光景も結末も、おおよそ予想していた通りのものだった。
向かった場所で対面したのは、ナウン・テスとは対照的な、鮮やかなマゼンタ色の髪の女性だった。
呼び鈴を鳴らした後、事前に危険人物が訪れることを知っていたかのように、ツシイン・テットは非常に緊張した様子で僅かにドアを開けて顔を覗かせた。
しかし、予想していたよりも遥かに異様な来訪者だったのだろう。こちらを認めた瞬間にヒュウ、と息をつき、ひどく慄いていた。友好的なコミュニケーションは極めて困難だと判断せざるを得なかった。
一般家庭の女性を怯えさせてしまったことに申し訳なさを感じつつ、テット夫人がアテターの姿に最も驚愕し、どのような抵抗手段も無意味であることを悟った表情を、俺は静かに観察していた。細かく震える彼女は自分が何を話しているのかもよく分かっていなかったかもしれない。
決定されている事柄の確認という意味しか持たない言葉が二、三回交わされ、俺達は部屋の奥に案内された。
夫が四級の製造者というだけのことはあり、室内に貧しい冷やかさは見受けられない。
夫人の手作りであろうレース付きの暖簾が部屋と廊下の間を仕切り、木製の格調高いテーブルには高価ではないが上品な織物が掛けられていた。
そしてリビングの天井には高価な魔導照明。柔和な白橙色の光を無音で放っていた。地下空間の居室であることを考慮してか、照明は地上の物よりも一際明るい。
その明かりに照らされるレコード盤とラジオ。大きなソファーと絨毯。棚には琥珀色のウィスキー。それらが夫妻にとっての贅沢品であり、楽園市民の人生という戦いでの戦利品であることは口にするまでもないことだった。
下世話な言い方をするなら、中の下程度の家。
居住空間はやや狭いが、れっきとした中流階級の範疇に入る。俺よりもずっと平穏で安定した生活を送れていることは間違いがなかった。
地下とは思えないような明るい空間を抜け、閉められたカーテンと消された照明、そして僅かに盛り上がった敷布団だけの暗い部屋に入る。
目が覚めるような空色の髪が床に散らばっていた。
膝を付いて顔を確認する。
頬がこけ、重病の患者のように肌が青白くなり、手足の血管が浮き上がっている。写真で見た風貌とは似ても似つかないような有様に成り果てていたが、本人だと判断した。
そっと髪を撫でたデイルも断定した。
ナウン・テス。
最重要の参考人が目を閉じて静かに眠っていた。
「薬物を投与されて意識を失ってる。適切な処置をしないと目が覚めることはないわ。…胸に魔導心臓。手首に、傷痕。」
左手の手首には何本ものリストカットの傷痕と、手首を一周する輪の形の傷痕が残されていた。
後者の傷は予想通りに。
前者の傷は、そうだったのだろう、と考えるに留めた。
多くの汗と涙を流しながらたどたどしく話すテット夫人によると、昨日の七月二日の未明にギードが意識不明のテスを連れてここに押しかけてきたのだという。
ツシイン夫婦はギードとの面識はなかったが、カンクナットとは別の、二股を許してくれている上に生活の援助もしてくれる変わった愛人だという話をテスから何度か打ち明けられていた。
『明日までこの子をここに置いてほしい。必ず迎えが来るから。』
ギードはそう断言し、数十枚の高額紙幣を無理矢理握らせ、夫妻に頼み込んだらしい。馬鹿な奴だ。
今は七月三日の十八時過ぎ。地上では間もなく日が沈む時刻。この地下のコンパートメントでも天井の照明が少しずつ発光を減らし始める頃合い。ぎりぎり及第点というところだろうか。要求の厳しい奴だ。
そして、夫人の震える手から一通の簡素な手紙を手渡される。迎えに来た白豚族の追跡者に手渡すようにと、ギードから預けられたという。
『信頼できる人間に託してくれ。どうかこの子を助けて欲しい。報酬は、俺の全てだ。』
そう、書かれていた。
『わざわざ俺なんかの為に事件を追っているんだから、まさか、途中で呑気に日銭稼ぎなんてしてるはずがないよな?』
手紙の隅に小さく書かれていた追伸には、デイルと二人で苦笑するしかなかった。
「これは捕まる前に書いたものだろう。あいつは予知能力者かなにかか。…ずっとグチグチと言われそうだな。」
「そうだね。余裕がない奴が人助けなんかするなって。」
「いかにも言いそうだ。」
一体、俺のことを何だと思っているのか。まあ、いい。
俺はギードの過去と苦痛を理解できているわけではない。理解しているとは口が裂けても言えない。
ただ一度だけ、贔屓のバーで偶然出くわした時に、互いに強い酒の摘みにした程度だ。何をとち狂ったのか、交代で陰惨な体験談を零し合い、不思議とそれが心地よかった。
あいつを友人と呼ぶ理由は、それだけで十分だ。
「…アテター・ラエル殿。」
俺は居住まいを正し、格調が高すぎてどこまでも場違いな出で立ちの長身の男に向き直る。
「はい。」
「規律と安寧を重んじる、帝国の奉仕者の一員であるあなたを信頼します。疑似心臓の魔導器には手を付けず、この未覚醒の状態のままナウン・テスの生命維持をお願いします。」
「畏まりました。抜本的な治療方法が解明されるまで、あるいは、それが不可能だと判断されるまで、この状態での彼女の生存に努めることを約束します。」
「その判断に不服がある場合は、異議申し立てを行うことは可能ですか。」
「可能です。帝国の司法が法に則って可否を下すでしょう。」
「治療方法が解った後の、実際の治療は?」
「疾病の種類を問わず、帝国庇護下の患者の方々はいつどこでも治療を受ける権利を有します。医療機関の選択も可能です。選択し直すことも。」
「ありがとうございます。」
その後、アテター・ラエルが手元の最先端の遍話機で連絡をしてから程なく、暗々裏に救急隊と警察隊が駆けつけてきた。魔導列車や魔導バスと同じ原理で動く、四輪の魔導車の車列が車両用の地下連絡通路を通り抜け、公園を静かに横切ってきた。
人の目は皆無ではないが、ああ何かあったのだろうな、という程度の静かな視線だけだった。
ナウン・テスはこれから地下帝国内にある特殊な専門病院に搬送されるのだという。
俺はその説明を信じる。
機脳族は、帝国は、彼らが定めるところの臣民を蔑ろにしない。
ならば、底街でなすべきことも終わった。
玄関に目を遣ると、機脳族の警察官に事情聴取を受けているテット夫人が静かに搬送されていくナウン・テスを言い様のない複雑な表情で見送っていた。
安堵と不安と親愛と――いや、やめておこう。
「帝国領内に入るのなら都合がいい。一緒について行ってもいいか。」
「と、申しますと?」
「ギードに面会に行く。警察局本部の留置場にいる。そうだろう?」
ギードの件だ。もう敬語は必要ない。
「はい。昨日の内にバーデイ支部から移送されました。数日以内に、地下法廷で裁判が始まるでしょう。」
「面会は可能か?」
「可能です。そちらもすぐに手配しましょう。」
万事が上手く転がっている。
いい感触だ。経験上、こういう時は躊躇せず最後まで勢いを保った方が良い。
しかし、個人的には疑問が残る。
「…あんた達は、どうして俺達のすることに口を挟まない。」
「それは、私どもがあなた方に敬意を払っているからです。ファット様。デイル様。」
アテター・ラエルは感情の希薄な双眸で俺と視線を合わせる。二つの瞳には何某かの色が滲んでいるように感じられた。
「圧縮された大峡谷レッセオ、そしてその虚空に浮かぶ丸き大陸リグーゼンの栄光の横断者。」
薄く開かれた口から、決して軽くはない言葉が放たれた。
「魔界深部の莫大な遺産が帝国に売り払われ、更には、永らく封印されていた精霊骸が売却された事件は瞬く間に地下全土を駆け巡りました。近辺の外界から集まる、ただの流入民とはお二人の立場はまるで異なります。」
「あの腕については、死蔵されていたと言った方が正しいだろう。…魔界を横断してきたことについては、自分でも評価がまだ定まっていないな。多分、買い被り過ぎだろう。」
「謙虚な方ですね。」
「そうでなかったら、とうの昔に死んでいたから仕方がない。職業病…冒険病のようなものだ。」
俺とデイルは一つの長く険しい冒険を完遂した。成就した。そして、今また、新しい人生の冒険を始めようとしている。
では、楽園の地下に巣食う帝国は、甘んじて穴倉の人形という嘲笑を受ける機脳族はどうか。かつて、何かを成したからこその今なのか。何かを新しく始めようとしているのか。
「あなた達は、高い計算能力を活かして、一人一人の他人の幸福を願い、実現しようとする優しい種族だ。こんな世界の数少ない良心と言っていい。」
「勿体ない言葉です。我々はそのために身を捧げ、しかし未だにその頂を眺めるばかりです。」
「それは、心を満たすものなのか? その最中、いつ死んでもいいと。あるいは、本当に大事なのは自分の家族で、仕事は生きる手段でしかないか?」
「頭脳を満たすものです。家族は私の一部分であり、私の死は、彼らの糧となるでしょう。」
「失礼なことを聞いて、悪かった。」
そう謝罪する以外、もう何も言えなかった。