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半開きの鉄扉に身体を滑り込ませると、腐ったような、鼻につく粗悪なアルコール臭と錆びた血の臭いが纏わりついてきた。
「……。」
淀んだ暗闇に数十個の木箱が積み上げられている。十段積んでも余裕がある程、天井は高い。
出入口の扉から見て左右の壁際には、薬品や塗料の缶が並べられた硝子棚と、合成機の部品が乱雑に押し込められた木棚が設置されている。
一つの結論として、ここが秘密工場の倉庫だと判明する。
「…て…。」
木箱と棚に大半を占められた床の残りの面積には、切断された人間の片腕と、その断面から噴出した大量の血の跡が落ちていた。血痕は曲がりくねりながらファットのいる扉の隙間に続いている。
他には、切断された箱と瓶、散乱したガラスと、大量のアルコールの液体。
箱や瓶の切断面は、今までの遺体のものと同じように滑らかだった。検分をすれば容易に一致するだろう。
「た…。」
そして、正面奥の灰色の壁一面に、赤い塗料でとある二行の文字列が残されていた。倉庫に入って来た者がすぐ気付けるように、一つ一つの文字が人間の腕の長さと同じくらい大きく書かれている。
その文字列は一つの住所を記していた。
イルンカ底街の、とある集合住宅の部屋番号を。
「…けて…。」
最後に、ファットは住所の描かれた奥の壁に寄りかかり、膝を抱えていることを確認した。
青年の男性。見知らぬ人間。ならば、恐らくはフェンブレンの誘拐事件の被害者かカンクナットの従業員、あるいはその両方だと推察した。
「助けて…。」
ファットはわざと足音を消さずに男に近づく。助けを求める、あまりにも小さな、喘鳴のような掠れた声が耳に届いた。
髪は汚れ、服は煤けている。
そして、血痕が身体のあちこちに残されていた。
「助けて…。」
「お前は誰だ?」
ファットが応えた。見下ろす両眼に、迷いはない。
男の膝に乗せられた右手首に、真新しい傷痕が刻まれていた。それは丸く、まるで、手首が一度輪切りにされたかのような線を描いている。
「ああ…。」
男の目にまず映るのは、白豚族の巨漢。
陰険さと威圧感はあるものの、革の手袋をはめた両手に何も所持していない。一般市民の男にはこの自分が人一人を即座に殺せる魔法使いだと一見で判断できないはずだ。
背後のグインたちは、男に見られないよう手元の武器を視界の陰にさりげなく隠している。
「俺たちは追跡者だ。ここには――」
「助けて…。」
見慣れた絶望の表情が感情を抑えた言葉に重ねられる。
見慣れてはいけない絶望だった。
「――助けに来た。立てるか? すぐに救急隊を呼ぶ。こっちへ――」
「助けて!」
男の掠れた叫びと同時に、赤黒い液体が致命的な勢いで放たれた。
ファットに向けて上に伸ばされた右腕。その手首を一周している輪の形の傷跡から血液が噴出する。滲み出るのではなく、滴り落ちるのでもなく、右手首の皮膚と血管を突き破って噴水のように空中に放出された。
そして血液の一筋の流れは弧を描いて右手に巻き付き、掌全体を覆い尽くし、その勢いのまま若芽の如く伸長し、弾けるように五本の細長い刃へと分裂する。
指の一本一本が片刃で、血管のようにも触手のようにも見える、曲がりくねった赤黒い巨大な手が形成された。
という現実。
目前のファットの手足や胴体を切り刻もうと迫ってくる。
という危機。
――【色彩・氷壁・遮・結・断・暗】!
――彩る・氷れる冥府の壁よ・遮り・結び・断て・暗く
ファットはそのような現実への覚悟を決めていた。動揺することなく無言で叫ぶ。ほぼ即時で四乖位の遮断の魔法を発動した。
空中に描かれた薄水色の壁面に五本の大きく広げられた血の刃の手が突き立つ。壁は軋み、僅か二秒で六つに切断、粉砕された。
しかしそれは、ファットがそれだけの時間を稼いだという事実でもあった。二秒という戦果。
――【形象・撚糸・伍・奔・結・堅・固・硬・靭】
――象る・麗しき精霊の撚り糸よ・伍つ・奔り・結べ・堅く・固く・硬く・靭やかに
ファットの背後に控えていたデイルが、得られた二秒を費やして捕縛の魔法を紡ぎ出す。
油断も遠慮もない、彼女が所持する最硬度の撚り糸の魔法。
懐に忍ばせていた大量の縫合糸を魔法によってさらに堅く撚り合わせ、相対する指の刃と同数の五本の束を解き放って交錯させる。血の刃が糸を断ち切ろうとするが、鋼鉄の強度を持った堅くしなやかな糸が何重にも細長い刃を絡め取り、互角以上の攻防を繰り広げる。
「助けて助けて!」
絶望は鳴り止まない。
赤い右手を糸束が抑え込こみ、まだ血に染まっていない糸が男の胴体に絡み付こうとした時、傷痕のなかった左手首からも血流が湯水のように噴出した。
七乖位の魔法と同等の力を持った血の刃の手がもう一つ形成される。
その突発的な狂乱に三人目の追跡者が応じる。
――【形象・猛鬼・豪・豪・豪・豪・豪・豪・豪・豪】
――象る・吠え猛る暴虐の大鬼よ・豪く・豪く・豪く・豪く・豪く・豪く・豪く・豪く
唯々、生まれついての鬼の戦士が求めたのは、純粋な武の強さだった。
剛力の魔法を薙刀と肉体に宿したグインが、倉庫内の隙間を縫ってファットより前に躍り出る。
乖離を八度重ねた破壊力が軽妙な一薙ぎによって振るわれ、五本の指の刃がまとめて斬り散らされる。続けて、遠心力がそのまま乗った長柄の横殴りの一撃が男の脇腹に吸い込まれる。鈍い打撃音と共に、男は胴体をくの字に曲げて反対側の壁まで吹き飛んでいった。
続いて発生した激しい衝突音から僅かな間だけ、静寂が生まれた。
「…手応えがおかしい。ゴムの塊を殴ったみたいだ。」
「強敵。三級敵生体相当。段街に潜んでいていい存在ではない。決して。」
グインは険しい目つきで構えを解かず、倒れ伏した相手を睨みつけたままでいる。背後のシャネも臨戦態勢を維持していた。
相手は助けを求めている。敵対することは望んでいない。助けられるのならば助けたいと、ファットは本心からそう思っていた。
本当に、それが可能だと判断できるならば。
「助けて助けて助けて…」
男は膝を付いて上半身を起こし、口の端から泡を吹いて助けを求め続ける。
助けるべき相手の、やせ細った首の内側から鮮血が迸った。あまりにも突然に。
手首と同様、首が内側から輪切りになったかのように円型に皮膚と血管が破れ、溢れるべきものが溢れていく。
「た――」
男の頭部は両手と同じ末路を辿った。
噴出した血液は一滴たりとも床に零れず、空中で渦を巻き、頭を丸ごと包む。新しい赤い器官が造られていく。
それは脈打ち、心臓に似ていた。
頭部の心臓が大きく脈動する。
「ぶべ、ふべっ――」
その側面から、触手に似た、片刃の細長い血の管が幾つも生まれ出た。
上大静脈(右腕頭静脈、左腕頭静脈)、下大静脈、右肺動脈、左肺動脈、右肺静脈、左肺静脈、腕頭動脈(右鎖骨下動脈、右総頚動脈)、左総頚動脈、左鎖骨下動脈、下行大動脈。
比較的太い管や、いくつかに分岐した細い管。心臓に繋がっている静脈と動脈と同じ構造だろう。
ファットはその光景を見た瞬間に直感で確信した。
何か、とても良くないものが裏で蠢いている。
人間を人間と思っていないこの所業は――
「あれは駄目だ! 敵だ! ファット!」
グインが絶叫する。
同時に、心臓の血管を象った血の刃が乱舞した。左右の手からも、再び血の指の刃が放たれる。
グインが敵の真正面へと吶喊し、薙刀を全力で振り払う。室内の空気が切り裂かれ、その横向きの衝撃波によって全ての血の刃が粉砕された。
それでも敵の赤い頭部も、生身の胴体も損傷は少ない。血の指、血の管がすぐに再形成される。再度、血の乱舞が巻き起こる。
――しかし、上下左右から振るわれた指の刃と管の刃がグインに届くことはなかった。薙刀が斜めに切り払われたと思われた一瞬後に、返す刀が逆方向から伸びる赤い刃を断ち割っていた。床を這って突き上げられる刃が事もなげに割かれ、また、頭上から迫る三本の管が横薙ぎにされた。
相手の首も両腕も、血の管諸共に一気に加速した剣舞によって断ち切られた。切られた管の断面から血流が噴き出てて新たな刃が作られたが、瞬く間に全てが斬られ、最終的には胴体が胸の位置で真一文字に切断された。
グインが、心臓の化け物に変貌した相手の息の根を止めた。荒々しくも研ぎ澄まされた武術を振るい、目の前の敵を沈黙させた。
ファットはその蹂躙の一部始終を見ていた。
直接手にかける相手を見定め、邁進する戦士に横槍を入れることは、愚鈍な魔法使いには決してできないことだった。