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009

 009




 惜しげもなく灰眼の観測魔法を発動し続けるシャネに導かれ、バーデイ段街とイルンカ底街の境界線の手前、人一人が辛うじて進める細い路地裏の迷路の終点にたどり着く。


 正面の百八十度は垂直に切り立った断崖になっている。常に、底の見えない下方から強風が吹きあがる場所だった。


 高度な飛行魔法を使えなければ、一歩踏み間違えると地の底まで墜落して血の華を咲かせることになる。

 そしてその死体は、地の底の更に下に広がる地下帝国の職員によって日常業務の一環で片付けられるという結末を迎える。


 地の底は地下帝国の天蓋でしかない。


 ここから帝国の領域までの間の地層は、底街と呼ばれる工場の坩堝となっている。

 段街で暮らす下級の労働者階級の半数近くが半強制的に通い詰める、楽園の中で比較的暗い場所でもある。


 住宅区と商業区の密集する段街に、民間人が工場を構えることは許されていない。

 地下に潜り切れていないモグラの隠れ家で、税や供給制限を逃れるために秘密裏に作られた製品は表の市場に出られない後ろ暗い者たちの為に闇市場に流されていく。


 帝国の警察は無能ではない。だが、どのような犯罪に対してもとにかく腰が重い。善意の市民からの通報と、厳格な規定に基づいた警邏に引っかからない程度の些末な悪事ならば、好きにしてもいいと言わんばかりの態度だった。


「そこに。」

「あった。分かりにくいけど…、これは確かに、心臓だ。」


 果たして、行き止まりの断崖の横に積み重ねられていた廃材の山の陰に、黒い屋根と赤い壁の小屋が隠されていた。

 続けてシャネの指示を受け、廃材の向こう側へと入り込んだグインが目的の物の発見を告げる。


 シャネのパッシブな観測魔法は物体表面の色素すら識別することを可能としている。直接的な視界に頼らずに、彼女は最大で半径約二百メートル、三百六十度の外界が三次元的に隈なく色づいて見えるという。


 対してファットのアクティブな探査魔法は、白黒の表象で辛うじて物の輪郭が分かる程度のもの。魔法の定義が異なっているとはいえ、乖位の差は歴然だった。その才能の差も。


 周囲全てのものの形と色が同時に見える世界というのは、一体どのようなものだろうか。

 ファットにとってそれもまた未知であり、羨ましく思うものの一つだった。


「ここの板が外れるみたいだ。…当たりだ。」

「警戒。」


 隠された入り口の向こうには、細く短い通路と、しばらく進んだ先の下りの階段が暗闇に沈んでいる。


「単純な隠し方だね。どうして今まで見つからなかったんだろ。」

「単純だからこそ、盲点をついていたのかもしれない。あるいは、最近作られたばかりか。


 外された壁板をもう一度よく見る。

 色褪せた赤い塗装の壁に鮮血色の真っ赤な心臓が上塗りされていた。指先程の小ささながらも、二心房二心室と大静脈、大動脈、そして肺動脈と肺静脈まで見分けがつくように精緻に描かれていた。


「なんだろうね。」

「心臓のシンボル、か。安直ともいえるが…。心当たりはあるか?」


「安直というと、命とか、あ…、愛とか?」

「…そうだな、愛とかだ。」

「愛だね。」

「愛。」


「全員で繰り返さなくてもいいよ。でも、こんなデザインのものは初めて見るよ。」

「解剖学的で、偏執的。」

「うーん、えっと、どこかで見たような気がするかな…?」

「…デイルが知っているかもしれないことか。…碌なものじゃないな。」


 場を和ませるために少しだけふざけ合ってから、ファットは真剣な表情で言った。


「ご主人様?」


 どういう意味、と、デイルは従順なだけではない別の顔の笑顔で追及した。


「そこまで。」

「はいはい。緊張も解けたところで、そろそろ行こうか。虎穴か、はたまた…。…精霊の加護があらんことを。」






 岩盤の隙間の空洞に合わせて無理矢理作られたような、歪んだ螺旋の階段を降り切ると、そこは狭い詰め所になっていた。


 白橙色の魔導灯がぼんやりと板張りの直方体の内部を照らしている。


 壁には十数枚の手書きの紙が直接貼り付けられ、製造物の物品名とスケジュールらしきものの羅列が踊っている。

 部屋の隅には簡素な机。その上にも数字主体の書類が散らされている。


 そして、奥の粗末な扉のすぐ近くに、血溜まりと死体。


 一人の人間が片腕を失い、踊るように倒れ伏し、大量の血液を床や壁に散らしていた。


「カンクナット・ライだ。」


 膝をついて死体の人相と服装を確認し、ファットが告げる。ナウン・テスの自宅から辞する前に、ナウン・セナから見せてもらっていた写真の人物と一致した。

 どこかの庭街の観光地で、テスと並んで映る中年の男。表面上でも清廉潔白とは言えないような鋭い目つきでレンズのこちら側を覗き込んでいた。


「…およそ四十時間前から二十時間前の間。死因は失血死。右腕の切り口の断面は、病院跡の遺体のものと酷似。」


 ファットたちが扉の向こう側や背後へ警戒を飛ばしている間、シャネが冷静に検分を行った。灰眼の能力を活かし、彼女はそのような技能も習得している。


「今が午後二時過ぎだから…、早くて一昨日の七月一日の深夜にはもう死んでたってことだね。ナウン・テスが行方不明になった、七月二日の未明と時間帯が重なる。もし、全て同一犯の犯行だとすると…。」


 グインが推論を重ねる。


「経営者という比較的自由な身分のせいで、昨日から一日くらい姿を見せなくても不審に思われなかったのだろう。

 …それにしても、七月二日に事件が動きすぎているな。ギードとフェンブレンも含め、四人の間に何が起こった。それとも、まだ見ぬ五人目、六人目がいるのか。」


「そうだね…。…通報は?」

「行う。しかし撤収はこの奥を確認してからでも遅くはない。追跡者には、最初に発見した事件現場の状況を正確に報告する義務がある。」

「物は言いようだね。」


 肩をすくめるグインの方も、内心では異論はないようだった。それぞれ制圧力と観察力に優れた女性陣の二名も、真剣な眼差しで血痕が付いた扉を見据えていた。


 ファットは遍話機を取り出し、昨日の病院跡での通報のように事務的に警察局へと連絡した。

 簡潔にまとめた説明の後、「捜索を続行する」と付け加える。特に反論も警告もなく、『了解しました。』と局の通信士は機械的に答えた。


「…不審者がいた場合、第一にこちらの身の安全を、第二に相手の捕縛を優先する。その時は、デイル。」

「うん、任せて。」


 非人間的な帝国の公務者とのやり取りを終え、ファットは気持ちを切り替えた。ここでは既に血が流れている。冷静沈着な判断が必要だった。


「不審者、か。」


 この秘密の場所の主であるカンクナットの右腕を切り落とし、死に至らしめた何者かが扉の向こう側にいるのは明白だった。そしてその何者かは、シャネの鑑定が正しければ連続大量殺人の実行犯である可能性が非常に高い。


「……。」


 事件解決のためには、逃亡者の身柄の確保が必要で、それにはデイルの撚糸や砂の棘といった搦め手の魔法が非常に有効だ。今までの数々の追跡や狩猟でも、ファットが肉の盾と牽制の役割を徹底している隙にデイルが相手を縛り上げて無力化するという方法が必勝戦術となっていた。


 加えて、今はシャネの観測魔法もある。完全な闇や密閉された空間でなければ、遥か向こうまで見通せる俯瞰の視点は破格であり、途方もないアドバンテージになる。昨日の病院の廃墟でも、彼女の目がなければああまで安全かつ迅速に進むことはできなかった。


 そして、グインは唯一の矛。温和な物腰とは裏腹に、パートナーであるシャネが危険に晒されるような場では無類の強さを発揮するだろう。


 こちらの布陣は問題ない。コンディションもよく、これ以上は望めないくらいだ。これでも解決に届かないのであれば…。


「……。そうだ、見落とすところだった。カンクナットの心臓は、どうなっている?」


 この事件で為すべきことは、敵対者の打倒と追跡だけではない。徹底して謎を解き、真相を追い求めなければギードに負け惜しみを言う破目になる。


「…血で服が肌に張り付いていて、上から見るだけでは確かめられない。通報してから現場を荒らすことは避けたい。」

「そうだな…。デイル、頼む。」

「うん。」


 遺体の首元の血に汚れていない素肌に振れ、デイルは静かに告げる。


「…この人も、心臓がないわ。…代わりに、見たことのない人工の臓器が埋め込まれてる。心臓そっくりだけど、心臓じゃない。でも、完全な人工物でもない。中途半端に見通せるから。」


 ありとあらゆる、生体の把握と理解。

 それこそがデイルという生命の誕生の経緯に由来する、()()()の彼女特有の能力だった。


 昨日の廃墟で彼女が最初に気付いたように、デイルは生命という存在に精通している。それは瞬間的な理解であり、包括的な見識であり、生命に限定した全知に近い。

 視界に映る人間の動きを一目見るだけでも健康状態や身体能力を見抜くことができるだけでなく、直接触れれば体内の状態を瞬く間に透視し、事細かに分析することすら可能としている。


 なぜそのようなことが可能なのか、と問われればファットもデイルもこう答えることにしている。

 目はなぜ物を見ることができるのか、と。


「…お前でも見たことのない、心臓そっくりの人工臓器? それはまさか、こうして殺される前から心臓を抜き取られていて、その代用品によって生かされていたということか?」

「多分、そう。」


「何のために。」

「分からないわ。ただ、循環器の機能は生身の心臓と遜色ないと思う。もしかしたら、生身以上かもしれない。」


「中途半端に見通せるということは…。」

「専門外だから自信がないけれど、生体を素材にした魔導器…かな。形象魔法の一種で、蓄えられた魔法の力で動き続ける魔導心臓。考えられる候補がそれしかないもの。

 そして、胸部にほんの小さな切開の跡がある。人間が手術をして移植した証拠。」


「魔導器の心臓…、移植手術の跡…。それがどのくらい前のものかは?」

「古すぎるということはない。真新しいということもない。数か月から数十年の間かな。」


「そうか…。ありがとう、助かった。」


 真犯人でなくても、その協力者だと考えていたカンクナットですらこうして殺され、しかもそれ以前に本物の心臓を奪われていた。しかも、代わりの魔導器の心臓を移植されて。

 突然浮かび上がった事実で、にわかには信じがたいことだった。

 しかし、それが別の事実によって否定されない以上、受け入れる必要がある。


「…心臓を…。どうして…? それに、一体誰が? それに心臓そっくりの魔導器って、そんなもの、どうやって? なんのために…。」

「情報不足。未知の領域はあまりに広大。魔法も、奇跡も。」


 グインが茫然とした顔で疑問を呈し、シャネが諦念を滲ませた双眸で応える。


「そうだな。分からないことだらけだ。それでも、確実に迫っているはずだ。」


 ファットは宣言する。


「俺たちは追跡者だ。だから、追い続ければいい。犯人も、真相も。たとえそれが遺失した奇跡であっても。」

「…うん、そうだね。」

「方針継続。」


「ああ。…しかし、危険だと判断したら、どれほど無様でも逃げることを優先するからそのつもりでいてくれ。」

「君らしいね。もちろん、リーダーの判断に従うよ。」

「命優先。」


 この世には奇跡も魔法も存在している。

 自分だけでなく、他人にとっても。敵にとっても。見えないだけで、遺失しただけで、それらはそこら中にゴロゴロと転がっている。小さな滅びの奇跡を誰が手に取ってもおかしくない。


 故に、生き延びるためには傲慢を捨てなければならない。崖の縁で奇跡と絶望と死を恐れる必要がある。あり得ないような光景を見て叫び、怯え、尻餅をつく。後ずさることも(いと)わない。

 その覚悟と行動が、ファットをここまで生き延びさせてきた。


「デイル。フォローは任せた。」

「うん、任せて。ご主人様。」


 あの日、あの時からずっと。






 血糊がこびり付いたドアノブを回し、鉄製の重い扉を押し開けると、その先の闇と静寂は地下とは思えないほどに途方もなく大きく広がっていた。


 楽園が建造された第五奇跡時代――魔法が未だ生まれず、五種の奇跡しか存在しなかった神話時代に造られた不滅のコンクリートが剥き出しになっている。

 扉から出た先はその巨大空間の天井付近にへばり付いた踊り場で、一人分の幅の細い階段が眼下の暗黒に続いていた。


 底の方では、微かに、橙の非常灯が並列しているのが見えていた。


 これほどの空間が地図にも載らず、個人に占有されてきたとは。


 ファットは内心で感嘆し、同時に溜息をつく。


 位置的に、ここは底街の最上層に当たる。元々は底街の地下工場だった場所が何らかの事情で廃棄され、その記録が失われたのかもしれない。

 あり得るとすれば、千五百年前の楽園内乱から地下帝国勃興までの暗黒期の頃だろうか。


 瞬間的にそこまで思考を巡らせてから、ファットは迅速に行動を開始する。

 もう無駄口を叩く者は誰もいない。

 四人の間で無言のまま身振り手振りが交わされ、階下から続いているカンクナットの血痕を辿り、速やかに歩を進める。


 都合三階分の高さを下り切った先には、複雑怪奇な製造機が平らな床面に整然と並べられていた。

 それらの機械は電源が完全に落ちているわけではなく、パネルに赤や緑の光が灯って待機状態にあった。


 機械群はパイプとベルトコンベアで繋げられ、全てが一体となって一種類の製品を造るために設置されていることが見て取れた。

 そして、空間の底に溜まっている、この臭い。腐敗臭に、アルコールの臭いが混ざっている。


 機械のラインを辿っていくと、最初の投入口の横手には腐った野菜や肉、調理された食料が満杯になった木箱が配置されていた。


 答えが出た。ファットは確信する。


 ここで行われてきたことは十中八九、違法酒の密造だろう。

 しかも、その原材料は廃棄された食材と残飯。それを可能としていたのは、電気と魔法によって稼働する工場用の複合魔導器を内蔵した、いつ壊れてもおかしくないような年代物の魔導合成機だった。


 一市民としては、これだけで通報すべき案件だ。

 依存性においても高額の脱税においても、合成酒の密造と密売は極めて悪質だった。所有者のカンクナットは、もし生きていれば容赦なく地下深くの監獄へと送られたはずだ。


 ……カンクナットの血痕は続いている。


 だが、ここでは間違いなくそれ以上の犯罪が行われている。違法酒の秘密工場ですら、単なる舞台に過ぎない。

 腐敗した食料が詰め込まれている、あの頑丈そうな木箱には見覚えがある。

 つい昨日のことだ。病院の廃墟で、惨たらしい殺人現場の隣の病室に放置されていた木箱。全く同じ、工場用に量産された規格品だった。


 ……カンクナットの血痕は尚も続いている。


 ……。

 ……。


 …一応の終点は、大きな両開きの鉄扉だった。


 扉は半開きになっていた。

 その隙間から、嗅いだことのない異臭が漏れ出していた。恐らくは、辺獄の地下に染み出した地獄の一端。


 カンクナットの血痕は、まるで吸い込まれるように地獄の闇へと続いていた。



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