001
完結前に、001から021まで加筆と修正を行います。
001
どこかで夜が明けている。
冷ややかで薄暗い街路を三つの人影が走る。
先頭を走るのは痩身の影。距離を開けて、大柄な影と、比較的小柄な影が一組になって続く。
逃げる者一人と、追う者二人。
規則的な呼吸音と疾駆の足音が短く響いていく。
――【色彩・火球・翔・狙・朱】!
――彩る・赫々たる火の天球よ・翔け・狙え・朱く
それは口から発せられない言葉。
しかし、理に乖いた、空間を震わせる魔法の言葉。
痩身の逃亡者を追う、大柄な追跡者が生み出した魔法。
意味と力を持つ魔法の定式が編まれ、発せられ、その一瞬の後に彩り鮮やかな火球が空中に発生した。
必死の形相で先頭を走る逃亡者が赤橙色の球体を横目で視認し、声にならない呻き声をあげる。その体には腹部から片腕にかけて太い茨のようなものがきつく巻き付いていて、動きを大きく阻害しているようだった。
逃亡者は体を捩じりながら自由を制限されていない方の腕を火球に向けて片手を振り上げ、意味のある魔法の言葉を紡ごうとし――
――【形象・撚糸・奔・結・固】
――象る・麗しき精霊の撚り糸よ・奔り・結べ・固く
最後尾を走る小柄な追跡者が、その直前に、また別の魔法の言葉を鋭く紡いでいた。
その結果、一連の現象の発生が確定し、逃亡者の敗北へと帰着する。
つまり、鋼鉄のように堅い糸の群れが空中を奔り、飛翔する火球をも追い越し、火球に照らされて影ではなくなった痩身の逃亡者に殺到し、自由を一瞬で奪い、そこに火球が迫り。
ドン、と、鈍い爆発音と共に、黎明の街路の一角が赤く照らされた。
「あー、くそ…」
逃亡者は、今度こそ声を発して悪態を付いていた。
生半可な覚悟で逃げていたわけではない。
死を覚悟して逃げ続けていた。何せ、この都市の中で、資格を持った追跡者に捕縛されることは破滅を意味するのだから。
「なあ、見逃してくれよ。頼むよ。」
「駄目だ。お前はこれからブタ箱行きだ。」
魔法の糸の束に簀巻きにされた逃亡者を見下ろし、大柄な人影が答える。
彼は大きなコートで筋肉質の体躯を隠し、フードを目深に被る魔法使いだった。そして、その肌はやけに艶やかで、生白い。
「人一人を殺して逃亡。立派な重罪犯だ。諦めろ」
「仕方がなかったんだ。どうしようもなかったんだよ。星の数ほどよくあることだろ? この『楽園』じゃあよう。」
痩身の逃亡者が嘆く。
「言い訳としては三流以下だな。…というか、なんでそんなに元気なんだ。ギード。」
大柄な魔法使いが溜息をついて被疑者の名を呼ぶ。
「ね。四乖位の火の玉が直撃したはずなのに。ホントしぶといね、ギード。」
そしてそのすぐ後に、追跡劇で多大な貢献を果たした小柄な魔法使いも追随した。
彼女の横顔が、新しく輝き始めたばかりの曙光に照らされ、美しく輝く。
大柄な魔法使いを醜い大男と評価するなら、小柄な魔法使いは誰もが目を奪われる可憐な美少女だった。
「うっせ。殺す気で撃ってきやがって。本気で死ぬかと思っただろーが。ファット。デイル嬢ちゃん。」
「あのくらいじゃお前は死なないだろう。」
「生身に当たったら普通に大火傷で死ぬっつーの。つーかその前の嵌め技で実質詰んでんの。なんだよ、白光の衝撃波に砂の茨って。人間に撃っていい魔法じゃねえよ。気絶寸前でよくここまで走って逃げられたなって話だ。寧ろ褒められるべきじゃねえ?」
「本当に減らない口だ。俺が言いたかったのは、あれで大人しく気絶しなかったお前が悪いということと、治癒をする必要もないくらい丈夫で気味が悪い、ということだ。」
「そうそう。二人がかりでちょっと痛い目に合わせて捕まえた後は、ちゃんとご主人様が治療する予定だったのよ。病院に行けば火傷の痕でも綺麗さっぱりだし。」
「こわっ。その発想にドン引きだわ。」
「でも、その様子じゃあ、全然大丈夫みたいね。
…んー、ちょっと見せて。念のために確認して…」
「あー、いてえ! 転んだ時に全身打撲で痛くて死んじまう! 激痛のショックでサツに行くまでに死んだらどうすんだ!?
デッドオアアライブじゃあねーんだろ!? 被疑者死亡だと追跡者の経歴に傷がつくぜ!!?」
「ハア…。どうせ、当たる直前に一瞬だけ防護魔法を使ったか、事前に魔法をかけていたんだろう。はじめからそれを見越して攻撃したわけだが…、本当にそういう腕だけは一流だな。」
容赦なく魔法を行使する、二人の追跡者が逃亡者をギードと呼び、そのギードが二人をファット、デイルとそれぞれ呼んだ。
そしてデイルと呼ばれた美しい少女が大柄な男を主人と呼んで慕い、男はそれを日常として受け入れているようだった。
――【定言・治癒・和・律】
――断じる・遍く慈悲の癒しの手よ・和らげ・律せよ
「はー、沁みるー。ありがとさん、じゃあ逃げるとすっかね。この程度の強度の糸束なら…って、嬢ちゃん、さっきから話をしながら何を練ってらっしゃるので?」
――【定言・指標・宿・示・正・青・青・青・青・青・過】
――断じる・因果を指し示す裁断の道標よ・宿り・示せ・正しく・青く・青く・青く・青く・青く・過を
「はい。特別に九乖位の魔法の楔を打ってあげたわ。ギードにはこの定言を簡単に無効化することはできないでしょう?
いくら逃げ隠れしてもすぐに見つけて捕まえてあげるから。」
「はあー。はい終了ー。マジで容赦ねー。」
「また誰かに頼み込まれたか嵌められたかして、身代わりで罪を被ったのか? お人よしめ。」
「お人よしー。」
「…なんのことだか。」
「だが、今回ばかりは笑って済ませられない。事情はどうあれ、前歴のない一般市民に対する魔法殺人は、極めて重い罪だ。それ以外の被害者、それ以外の凶器ならともかく。」
「このままだとよくて無期労働刑。最悪死刑だよ。」
「……。」
つまりこれは、『楽園』という人類最後の都市で起きた、身内同士の追跡劇。業と狂気の、ほんの一端。
身内だからこその、悲壮と虚脱感がそこには横たわっていた。
暴力と死、犯罪と悪の関係が、現実の底にわだかまっていた。
魔法と奇跡をもってしても。
魔法と奇跡というものがあるからこそ、余計に。
「真犯人を追う。いいな。」
魔法使いにして追跡者、そして勝者のファットはあくまで義務的に告げた。それが彼の信念であるかのように。
「…勝手にしろ。」
魔法使いにして逃亡者、そして敗者のギードが、全てを諦めたかのように脱力する。
「デイル嬢ちゃんも大変だな。愛想も尽きるだろう。こんな不愛想で甲斐性なしの堅物。」
せめてもの意趣返しとして、ふと思い出したのように口元を歪ませて。
「おい。」
「ううん。ご主人様は素敵な人よ。人にはあまり見せないだけで、とても紳士的で、情熱的なんだから。」
従者のデイルが可憐に笑う。
「おい…」
「じゃあ、しばらく冷たいご飯を食べて待っててね。」
そう続けながら、デイルは非難めいた主人の様子を見て、手の甲にそっと触れることで応えた。
「そうするさ。…なあ、紳士的で情熱的なご主人様よ。」
「…なんだ。ったく。」
「気をつけろよ。相当根深いぞ。お前が思っている以上にな。
もし俺より先に地獄に落ちてたら、向こうで思い切り笑ってやる。」
「…心配しなくても、地獄とは地続きだ。それに…」
「それに?」
「いや、なんでもないさ。」
そう言って言葉を切り、ファットは傍らに控えるデイルに目を遣る。
少女は主人の静かな視線と朝日を浴び、芸術のような微笑を返した。