良い教師になれない
先生の過去編は一旦今回で一区切りです。
次回から夏休み編に戻ります。
それでは続きをお楽しみください。
-side 柏木奈々-
今でも田島は私のことを時々『奈々ちゃん先生』と呼ぶ。
そしてそう呼ばれた時、私は大抵『その呼び方をやめろ』と田島に言い返す。
でも私は別にその呼び方をされるのが嫌いだというわけではない。むしろ親しみを感じるからその呼び方は好きな方だ。
それでも私は『その呼び方をやめろ』と言う。
--だって。
出会った時のことを思い出して頬が緩みそうになってしまうから。
君が明るく笑って私を励ましてくれた日々を思い出してしまうから。
記憶を失っても君の根元が全然変わっていないことに気付いて嬉しくなってしまうから。
だから私は彼に『奈々ちゃん先生と呼ぶのはやめなさい』と言う。
--そう、私はただ照れ臭いだけなのだ。嬉しくて頬が緩んでしまった私の情けない表情を彼に見られたくないだけなのだ。
だから私は彼に『奈々ちゃん先生』と呼ばれた時には決まってこう言い返す。
『(照れ臭いから)その呼び方はやめなさい』、と。
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屋上で行った『怒る練習』の成果は私が思っていた以上のものだった。
授業を聞いていなかったら注意する。雑談をしている生徒が居たら静かにさせる。
そして生徒から質問された時は優しく丁寧に教えてあげる。
この当たり前のことを行うだけで生徒は私の話を真摯に聞いてくれるようになった。そして、『先生の授業が好き』と直接私に言ってくれる生徒も徐々に出てくるようになった。
こうして、それまでは『怒る』という行為に少し抵抗があった私であったが、生徒を指導していく上では怒ることも必要なことであるということを身をもって知った。
それからの私の教師生活は順調なものだった。
駅伝部OGという経歴もあって駅伝部の副顧問に就任。生徒達の放課後の生活も見届けるようになった。
また、生徒、特に女子からは勉強面以外の相談も時々受けるようになった。進路、部活、そして時々恋愛について。生徒は様々な相談を私に持ちかけてくるようになった。おそらく他の教師に比べて私が若いというのが大きな理由だろう。
...まあ、恋愛相談に関しては全然力になることはできなかったのだが。
そして6月には妊休に入った先生の代理として1年6組の臨時担任を務めることとなった。私は教師として初めて自分のクラスを受け持つことになったのである。
生徒に信頼してもらえるようになった。全てが上手くいっている。このまま順調にいけば私は良い教師になれる。
この時の私はそう信じて疑わなかった。
でもこの時の私は忘れていたのだ。
--そう、私は元々要領が悪い人間であるということを。
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事件は7月末の1学期の期末テストで起きた。
当時の私にとっては教師として初めてのテスト作成。だからこの時の私はいつもより気合が入っていた。勉強の成果が反映されやすいテストを作ってあげようという思いで胸がいっぱいだったのだ。
だから私は長い時間をかけてテストを作った。真面目な生徒が報われるようなテストを必死に考えた。とにかく生徒のことを想って私は必死にパソコンと向かい合った。
そして無事に私が担当するクラスの分のテストは完成。あとはデータが入ったUSBメモリを学校に持っていき、印刷すれば作業終了という段階まできた。
--しかし私はテストの印刷前に盛大なドジをやらかしたのだ。
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テスト前日の朝。私はいつものように家を出ようとしていた。
「じゃあ行ってくるね、金太郎」
金太郎というのは私が飼っている金魚の名前だ。鮮やかな紅色の体をしたとてもかわいい金魚である。
...ええ、そうよ。笑いたかったら笑いなさいよ。私は玄関で飼ってる金魚に『行ってきます』を言っちゃうような恥ずかしい女よ。
でもしょうがないじゃない! 1人暮らしって寂しいんだもの!
...まあここまではいつも通りの朝だった。金太郎に一時の別れを告げたのまでは普通の朝だったのだ。
--そう、ここまでは。
「いたいっ!!」
家を出ようとしたら、なぜか何もないところで足がもつれた。
もう一度繰り返す。別に足元には何も無かったのに足がもつれた。
足がもつれた私は転倒。玄関横の棚に思いっきり身体をぶつける。そして、私がぶつかった棚の上には金太郎が住んでいる水槽。私がぶつかったせいで棚が揺れて水槽が上から落ちてくる。
そしてその水槽はよりにもよってパソコンとUSBを入れている私のバッグの上に落下。しかもその日に限って私はバッグの口を閉め忘れていた。
......つまりパソコンとUSBがズブ濡れになってデータが破損した。
「あ、あはは...」
目の前に転がっている水が激減した水槽と、運良く水槽の中から放り出されなかった金太郎を見ながら絶望にくれる私。
...もう笑うしかなかった。
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そして翌日の朝。
「ダ、ダメだ...結局徹夜してもテスト完成しなかった...どうしよう...テスト今日の1限なのに...」
私は懸命にあがいた。でも間に合わなかった。要領が悪い私にとってテスト作成を一晩でこなすのはやはり無理難題だったのだ。
「はぁ...色んな人に迷惑がかかっちゃうな...じゃあ行ってくるね...金太郎...」
私は気分がどん底に落ち込んだまま家を出た。
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...はい。出勤したらめちゃくちゃ怒られました。それも色んな先生に。
「どうして前もって僕に相談しなかったんですか!」
ごもっともな指摘です。学年主任の井沢先生。最近は全てが上手くいっているからテストも一晩で完成させられるだろうと甘く考えていた自分が悪いのです。
「テストの日程は私の方で変更しておきます。今後はこんなことが起きないように注意しておいてくださいね!!」
本当に申し訳ありません。学年副主任の長岡先生。ご迷惑をおかけします。
...そして本当にごめんね。生徒の皆。
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「はぁ...」
昼休み。私はまた『あの日』のように屋上のコンクリート壁に身体を預けていた。
「はぁ...皆に気を遣わせちゃったな...」
1限目にテスト作成が間に合わなかったことをクラスの皆に伝えると、皆は優しく私を励ましてくれた。皆は『やった! テスト勉強する時間が増えた!』、『ふふ! 先生も偶には失敗しちゃうんですね!』と言って私のことを責めなかったのだ。
でも本当は皆もテストなんて早く終わって欲しいと思っているだろう。テスト期間が伸びて面倒だと思っているだろう。きっと皆は落ち込んでいる私に気を遣ってくれたんだ。
...ああ、この考え方は私の悪い癖だ。落ち込む時はとことん落ち込む。全てを悪い方向へ考えてしまう。
--私はそんな自分が嫌いだ。
「はぁ...」
溜息が止まらない。早くも今日3回目の溜息である。
...そして彼はなぜか私が溜息をつくと現れる。
「あっ! やっぱここにいた! やっほー! 奈々ちゃん先生!!」
屋上の戸が勢い良く開き、私がよく知る少年がこちらに手を振ってきた。
「はい、じゃあ隣失礼しまーす。よっこらせっと」
そして私の方へ駆け寄り、『あの日』と同じように私の隣に腰掛けてきた。
「...なんだよ田島。私をからかいに来たのか?」
出会って以来、田島はちょくちょく私をからかうようになっていた。だから私はこの時も彼が私をからかいに来たと思ったのだ。それに今日の私は盛大に失敗をしている。からかうなら絶好の機会だと思えた。
「いや、違いますよ。今日は先生を励ましに来たんです」
「え...?」
「だって今日の先生は初めて会った時と同じ顔をしてましたから。もしかしたら屋上にいるのかなーって思ったらやっぱり居ました」
「...すまない。疑って悪かった」
何をやっているんだ私は。私が彼の善意を疑ったらダメだろう...!
「はは、別に謝らなくてもいいですよ。普段の行いを考えたら俺がからかいに来たと思われてもしょうがないっす」
「...なんで君はいつも私をからかいに来るんだ?」
「決まってるじゃないですか。先生と話すのが楽しいからですよ」
「っ! そ、そうか...」
「はは、赤くなってる。話し方は変わってもそういう所は出会った頃と変わってませんよね」
「う、うるさい...」
この子も出会った頃と全然変わってないな...
「で、先生はなんで落ち込んでるんですか? つっても大体理由は分かってるんですけど」
「分かってるなら理由を聞くなよ...そ、そうだよ。君が察している通りテスト作成が間に合わなかったことを気にしてるんだよ」
「えー、そんなの気にしなくてもいいのに」
「いや、気にするだろ! 色んな教師や生徒に迷惑をかけたんだぞ!?」
「まあ、そうかもしれませんね」
「そうだよ。だから私は落ち込んで...」
「でも生徒はそんなこと気にしてないと思いますよ?」
「え...?」
「まあ確かに先生以外の教師陣には迷惑だったかもしれません。仕事上の話ですしそれは仕方ないことだと思います。まあ俺は生徒だから詳しいことはよくわかりませんけど」
...え、この子本当に私を励ましに来たの!? むしろ私の傷を抉りに来てない!?
...と思ったが、それは少し違ったようだ。
「でも俺らはそんなことどうだっていいんですよ。他の教師が迷惑を被ろうが俺たち生徒が知った話じゃないっす」
「で、でも君たちのテスト期間が私のせいで伸びちゃったじゃないか。テストなんて早く終わった方が良いだろ? 今朝は皆私に気を遣ってくれたみたいだけど本当は文句の1つでも言いたいんじゃないか?」
「かぁー! 先生は相変わらずネガティブっすね! 俺は悲しいっすよ! 俺たちが先生に文句を言うような生徒に見えるって言うんですか?」
え...? もしかして呆れられてる!?
「い、いや、別に生徒たちを悪く言うつもりはなくてだな!」
「まあ確かに最初は皆先生の授業をちゃんと聞いてませんでしたよ。でも今は違います。今の俺たちは先生が生徒とちゃんと向き合ってくれる教師だって知ってます。それは普段の先生の様子を見てれば簡単に分かることなんですよ」
私の隣にいる彼は先ほどの呆れた表情とは打って変わり、今度は真剣な表情でこちらを見つめてきた。
「つーか俺らは大人に気を遣えるほど育ちが良い子供じゃありません。もしもテスト作成が間に合わなかったのが数学の井沢とか英語の長岡だったらメチャクチャ文句言ってますよ」
「え...? じゃあなんで私には文句言わないの...?」
「はぁ...先生? ここまで言ってもまだ分からないんですか?」
「ご、ごめん...」
「はは、奈々ちゃん先生は本当にしょうがない人ですね。じゃあ今回は特別に先生が文句を言われていない理由を俺が教えてあげます」
「う、うん...」
すると彼は白い歯を見せてニコリと笑いながらこちらを見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺たちは先生のことが大好きだからですよ」
「...!」
「皆先生のことが大好きなんです。もちろん俺も」
......ちょっと。
「俺たちはなんでも一生懸命取り組める先生のことを尊敬してます」
......やめて。
「生徒に寄り添ってくれる先生のことを信頼してます」
--それ以上言わないで。
「あとは...はは、たまーにドジなことをやっちゃう先生のことをかわいいなーって思ってます」
--泣いちゃうから...!
「だから目にクマができちゃうまで俺たちのために頑張った先生に文句を言えるわけがないじゃないですか。俺、今日ずっと心配してたんですからね?」
...もうダメだ。耐えられない。
「うっ...! ぐすっ...!」
「え!? ちょ、奈々ちゃん先生!? 泣いちゃうの!? え、えっと...なんかゴメン!!」
「ぐすっ...ぜ、絶対許さない...!」
「ありゃりゃ。先生、涙で顔がぐしょぐしょじゃないですか。これじゃ美人が台無しですよ? はい、ティッシュどうぞ。使ってください」
すると彼はポケットから未開封のティッシュを私に差し出してくれた。
「ぐすっ...あ、ありがとう...」
「はは、どういたしまして」
...これじゃあどっちの立場が上か分からないじゃないか。私が教師としてのスタートラインを切れたのもお前のおかげ。私が教師として上手くやってこれたのもお前のおかげ。私が失敗から立ち直れたのもお前のおかげ...
--今の私があるのは全部お前のおかげじゃないか。
なんでお前は生徒のくせに私に色々教えてくれるんだよ。なんでお前はいつも私を励ましてくれるんだよ。なんでお前は私のそばで明るく笑ってくれるんだよ。
なんで、なんで、なんで...!
--なんで私はお前を特別に思ってしまうんだよ...
「...ほら、奈々ちゃん先生、そろそろ昼休み終わりますよ。屋上から出ましょう」
泣き止んだ私に優しく手を差し伸べてくる彼。
「わ、分かった」
そして彼の手を取って立ち上がりながら私は思う。
--ああ、きっと私は良い教師にはなれない、と。
君は私が絶対良い教師になると言ってくれた。俺が保証しますとも言ってくれた。
...でもごめんなさい。どうやら私は君の期待には応えられないみたい。
--だって。
「ほら、何ボーッとしてるんですか! 行きますよ! 奈々ちゃん先生!」
--私はどうしても1人の生徒を特別扱いしてしまうのだから。




