茜色の空
魔法陣に用いる血液の増産は、滞りなく終了した。
これなら数回分になるだろうし、万が一足りなくなってもサンプルが手元にあれば
自力で複製する事も可能だ。GD-X10はもともと完全な生体ユニットなので、
貯血用として作った臓器の中なら血液の劣化はかなり防げる。
要するに、ここからはもう、あたしが自分でどうとでも対処できるって話である。
ならば、もはやここに留まる必要はない。そして、二度と来る必要もないだろう。
『行きましょうか。』
「うん。」
短い言葉を交わし、あたしたちは外の通路に通じるドアへと向かう。
すでに、日は傾き始めていた。
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内側の開閉ボタンを押してドアを開けると、新鮮な外気が我先にと入り込む。
淀んだ空気が一新されるのが、実感として判った。ま、そんな感慨は後にしよう。
身を細めてドアを潜る。入って来た時は楽勝だったけど、今はちょっとキツイ。
理由は言うまでもない。血の飲み過ぎで、胴体が少し膨れてしまっているからだ。
「太ったね。」
『いいから!』
からかうように言うリューノの声が、何となくホッとさせられる響きだった。
GD-X10に続いてリューノも外に出る。それを確認して、ドアを再びロック。
さらにドア脇の端末を操作し、もう一度内部の管制に干渉して室内のドアを開く。
メディカルルームと小ホールを隔てる移動壁を収納し、廊下に通じるドアも解錠。
ドアの横の窓から窺えば、小ホールからメディカルルームに2体のナノゾンビが
よろよろと迷い込んできているのが判る。そのすぐ後ろからは、あの男女2人も
似たような歩調で足を踏み入れて来た。そして、ゆっくりとこちらに目を向ける。
強化ガラス越しに、ほんの少しの間だけ視線を交わした。
2人の浮かべている表情を、どう形容すればいいのかは分からない。
絶望でも怒りでもなく、そして怨嗟でもない。かと言って、感謝では決してない。
おそらく虚無ではないけど、あたしの知るどんな表情とも違っていた。
彼らがあたしたちに、どんな感情を持っているか。断言など間違ってもできない。
だけど、何となく分かる事がある。
おそらく彼ら自身も、あたしたちをどう思えばいいのかが分からないのだろう。
あたしたちがもたらした事実をどう捉えるかは、これからの話だろうから。
だったら、あたしたちが彼らに何をすべきかもまた、今は定まっていない。
だから謝ったりもしない。
「行こう。」
『ええ。』
リューノを乗せて翼を開き、そのまま飛び立つ。
見送る彼らの姿は、あえて顧みなかった。
お互い、そうすべきだと思ったから。
お邪魔しました。
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「ちょっと遅くなっちゃったね。」
『そうね。』
「レンが心配してるかも知れないから、早く戻ろう。」
『ええ。』
そう答えつつ、あたしはGD-X10の飛行進路をほんの少しだけ変えた。
目的地に向けてではなく、夕日に向かう方角に。同時に、速度をわずかに落とす。
「あれ、どうしたの?」
『ちょっとだけ、遊覧飛行と行きましょう。』
我ながら、実に似合わない事を言ってると思う。
だけど間違いなく、そんな気分だったから。
「…そうだね、ちょっとだけ。」
『付き合わせて、ごめんね。』
「いいよいいよ。空もきれいだし。」
そうね。
そうよね。
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『ねえ、リューノ。』
「ん?」
『あの通信センターには、全部でどれくらいの生存者がいたと思う?』
「うーん…まあ…建物の規模からすれば5、60人ってところじゃないかな。」
『そんなもんかな。』
「あたしの経験で言えば、だけどね。」
やっぱり、それなりに色々なものを見てきたんだな。この子は。
まだ、あのラスよりも若いのに。
こんな世界を、その目でずっと見てきたんだな。
リューノは、この終末世界ではかなり孤高の存在だ。
彗星衝突によるナノマシンの暴走と、それに伴う人間社会の崩壊。
それは等しく世界を呑み込み、ナノマシンに依存していた人間たちを破滅させた。
ナノゾンビになる事を免れた人たちも、生きるためには厳しい選択を強いられる。
彼女の祖父は、彗星衝突の危険性を早くから訴えていたらしい。
世界中から無視されたその主張は、それでも彼女の両親を救う道標になった。
崩壊した世界に足を踏み出した彼女の両親は、ナノゾンビによって命を落とした。
それっきり、彼女は独りぼっちになってしまった。
普通なら、生きていけるはずもない。
だけど彼女の体内には、彗星衝突による暴走を免れたナノマシンが存在していた。
生存に必要な物質を生成できるその存在が、彼女という小さな命を保ち続けた。
何の事はない。
新しい世界に降り立った時の、拓美とあたしにそっくりだ。
決定的に違うところと言えば、たったひとつだけ。
歩き出した世界に、希望や未来があったか無かったか。ただそれだけ。
拓美と比べれば、リューノはどこまでも非力だ。
あたしのような規格外の自己進化など望むべくもない体内のナノマシンたちは、
戦う力は何ひとつ持ち合わせていない。それが当たり前だ。
だけど。
彼女が拓美より弱いというわけでは、断じてない。
むしろその心の強さは、拓美のそれをはるかに上回っているだろう。
こんな悲しい世界で、たった一人で生きてきたのに。
リューノはいつも明るく話し、そして笑う。
3000年の恐るべきギャップをものともせず、蓮に当たり前の好意を寄せる。
冗談を言い合いつつ、彼の隣に立って生きる自分を当然のように思い描いている。
彼女は、どこまでも非力で、そしてどこまでも人間だ。
人間としての自分を、決して失わない強い子だ。
きっと、拓美のいい友達になれるだろう。
だからこそ。
この空を。
せめて、この空の美しさを。
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『リューノ。』
「うん?」
『よく見ておいてね。この空を。』
「…どうして?」
『きれいだと思うから。』
それは、あたしの正直な思いだった。
この世界に生きる人たちは、どこまでも無慈悲で醜い。
そうでなければ生きていけない彼らの姿は、悲しいほどに醜悪だ。
そんな中で出会ったリューノは、どこまでもこの世界には不釣合いな存在だ。
どこか似ている。
自分の住む世界に愛想を尽かして旅立った、あの日の拓美に。
だからこそ、あたしは心から思う。
ほんの少し。
たったひとつでもいい。
自身の故郷の、美しい何かを憶えておいて欲しいと。
おそらく今日か明日には、永遠に去るであろうこの世界の美しい光景を。
「そうだね。」
言葉足らずなあたしの意図を汲んだのか、リューノはじっと夕焼けに目を凝らす。
出来るだけ速度を落とし、GD-X10は静かに茜色の空を進む。
たとえ世界が変わってしまっても、変わらないものだってあるんだ。
ねえ、拓美。
あたしはリューノを、そして蓮を、ちゃんと導けているかな。
ちゃんと導けるのかな。
その答えは、もう間もなく出るだろう。




