ヒゲさん
「…どうして、ここに?」
「ヤバい感じがしたんだよ。今までも何度かあった。」
空気が漏れるようなあたしの声に、ヒゲさんはためらいがちに答える。
「上の人間が秘密裏に連絡して、よその支部から物騒な奴が派遣されてくる。で、
俺たちが働いているすぐ下でこういう事が成される…って話だ。」
言いながら、ヒゲさんは後ろに回り込んだ。どうやら、手首に半ば食い込んだ鎖を
四苦八苦しながら外しているらしい。
「…こんな事に首突っ込んでいいの?」
「何とかするさ。たとえならなくても、こんな職場はもう願い下げだ。」
ようやく外れた鎖が、ジャラッという音と共に床に落ちる。
崩折れそうになるあたしの体を支え、ヒゲさんは血を吐くように言った。
「…すまない。こんな事になる前に、ここに来られればよかったんだが。」
「あなたが気にする事じゃないですよ。」
折れた歯の隙間からそんな言葉を返し、あたしは笑みを返す。
しかし、恐らく紫色に腫れ上がっているこの顔では、さぞ不気味な表情だろうな…
などと考えてもいた。
もはや、立つ事もできないあたしの体を大きな布で包んで抱え上げ、ヒゲさんは
踵を返した。そのまま、足音を忍ばせて陰鬱な地下室を後にする。
消えかけの輝光石ランプの光に舞う埃が、かろうじて見える左目にやけに鮮明に
映っていた。
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2日振りの地上は、まもなく日が暮れる時間帯だった。警吏棟には誰もいない。
恐らく、交代のタイミングなのだろう。
相変わらず足音を忍ばせて建物を横切ったヒゲさんは、そのまま裏口の木戸を開け
何頭かのバリオがつながれている厩舎に入っていく。足を止めた場所にあったのは
一頭用の馬車だった。バリオが曳くものだけど、まぁ見た目も用途も「馬車」だ。
小柄なバリオをつないだヒゲさんは、もう一枚の布を敷いた馬車の後ろスペースに
あたしをそっと座らせた。パッと見なら、布で巻いた荷物か何かに見えるだろう。
「…少しの間、我慢してくれよ。すぐに外に出るから。」
言い終えると同時に、馬車はゆっくりと動き出した。窓明かりが、やっぱり埃を
シルエットとして映し出しているのが見える。思ったほどの振動は来なかった。
やがて、馬車は裏口のスロープを下って建物の外に出た。そこまで隣を歩いていた
ヒゲさんが、勢いをつけて馬車の席に飛び乗る。と同時に、馬車は加速をかけた。
「…まずはとにかく、嬢ちゃんの手当てをしないとな。大丈夫か?」
「ええ。大丈夫です。どうもありがとう。」
「礼を言われるにしては、遅くなり過ぎたよな。本当にすまん。」
電灯というものがないこの世界では、夜になれば人通りなどほぼなくなる。
寒々とした道を、馬車はゆっくりと走っていた。やがて、中央に大きな池のある
公園へと入っていく。誰もいない池のほとりで、馬車はゆっくりと停まった。
「ひとまず、ここまで来れば大丈夫だろう。」
そう言って大きく息をついたヒゲさんは、横になったままのあたしを見やった。
おそらく体に巻いた布のあちこちに、血の染みが出来ているだろう。
「…災難だったなぁ、嬢ちゃん。」
「まったくですね。」
弱々しく答えたあたしから、ヒゲさんは申し訳なさそうに視線をそらす。
「…今までも、こんな事はあったんだろう。だが下っ端の俺には気付けなかった。
あの指輪を見せた時の、上司の変な反応。あれがあったから、何かが起こったと
今さら分かったんだ。…まともな役に立てなくて、本当にすまない。」
「いいえ。それは、あなたが気にする事じゃないですよ。」
「……………。」
言葉に詰まったのか、沈黙が流れる。
正直、あたしの言葉はそのままの意味だ。この人に謝ってもらう義理は何もない。
むしろ、こうして連れ出してくれた事に感謝すべきだろう。
「とにかく、だ。」
ようやく気持ちがまとまったらしいヒゲさんは、あらためて声を上げた。
「医者に診てもらうにしても、今日はもう時間が遅い。せめて嬢ちゃんの家まで
送って行ければ、明日の朝まで俺がついてるよ。何なら、家の前で見張るから。
もちろん、家族にもきっちり説明する。」
「…その流れで考えると、責められますよ?」
「仕方ないさ。2日間も手を出せなかった時点で、俺もある意味共犯だ。」
「それは…」
「俺の事はいい。完全に夜になる前に送って行くから、場所を教えてくれ。」
その言葉に、あたしは少しだけ黙る。
家族の待つ家に、か。何だか、すっごく新鮮な言葉だ。正直、ちょっと惹かれる。
だけど、あたしは…
「…分かりました。でも、あたしは今は宿住まいなんです。家族はちょっと遠くに
いますから。とりあえず、そこに送ってもらえれば。」
「信用できる人とか、いるのか?」
「いなくはないです。この街にじゃなくて、森の中の村ですけど。」
「そうか。…じゃあ、明日になったらその村へ行こう。それで事情を話そうか。」
「あたしも、そうしたいです。」
「じゃ決まりだな。とりあえずはその宿に向かう。場所は?」
「走りながら説明します。」
「分かった。もう少し頑張れよ。」
「はい。」
頷いたヒゲさんは、あらためて手綱を手に取った。そして、膝を折って休んでいた
バリオを立たせる。
「暗いから少し揺れるけど、我慢できるか?」
「ええ、大丈夫です。」
「じゃ、出発だ。」
「その前に。」
「?」
訝しげに動きを止めたヒゲさんに、あたしは初めて顔を向けた。そして、どうにか
開けた左目でじっと見据える。
「どうした?」
「被らなくていいんですか?」
「何を?」
抑揚のない声で、あたしは答えた。
「皮袋を。」
星の見え始めた空に、鳥が一羽、渡っていくのが見える。
訪れた沈黙は冷たく、そしてそれ以上に重い意味を持っていた。




