シェルター
【僕の物語】
1
僕にはどうしようもないくらい好きで、大好きで、愛せずにはいられない人がいる。
その子は白百合のように真白に染まったとても長い髪、紫黒色のガラス玉のような瞳、綺麗に筋の通った高すぎない小鼻、厚さも色も薄い唇をしている。端的に言って、綺麗な顔立ちをした女の子で、名前をリエという。
彼女なくして僕の世界は成り立たない。彼女と同じ空間にいないとき、僕は世界から放り出されたような絶え間ない孤独を感じる。
きっと、僕はリエと出会うために、彼女と恋をするために生まれてきた。
しかし彼女はたった十畳ほどの世界で人生の大半を暮らしている。
場所こそ大病院の最上階の角部屋だけど、その部屋に入ればたちまち全面ガラス張りの壁に隔てられる。文字通り彼女は隔離されていて、僕は彼女に近づけて二、三メートル。彼女がガラス壁に近づいてくれれば、ガラス一枚分の厚さ──三センチの距離。
リエが外界と隔離されている理由は、ひとえに彼女の体質が人類を滅ぼしかねないから──と僕は本人から聞いている。物心がついて間もない頃から狭苦しい空間で生きているらしい。
リエと出会ったのも、やはりこの病院だった。
記憶が正しければ、たしか秋の乾いた晴れの日だった。母親が幼い僕を連れてこの病院に訪れた。僕ではなく母親が診察を受けるために来たのだけれど、家に僕を置いていくのが不安だったようだ。当の僕と言えばそんな心配症の母親の思うところなんて露知らず、受付で手続きしている母の隙を見て病院の探索を始めた。
世界の広さを知らない当時の僕にとって、町で一番設備の整っている大病院はうってつけの小さな未知の世界だった。未踏のダンジョンを探索せずにはいられないのは、子供の性だと思ってほしい。
僕は病院のあちこちを歩き回った。
車いすの老人、点滴スタンドを引いて歩く青年、綺麗な看護師さん。すれ違う人みんなが僕を物珍しそうに見ていた。それもそうだろう、一桁の折り返し地点を周ったばかりの子供が病院を一人で歩き回っているのだから。
知ってか知らずか、僕はどんどん病院の奥へ進んで行った。進めば進むほど待合ロビーの喧騒から遠ざかり、不気味な静けさに包まれた細長い空間になった。その静寂が恐れ知らずの僕の胸を躍らせた。
エレベーターの乗った時は階層ボタンがジャンプしないと届かない高さにあって焦った。だから思い切り飛び跳ねて適当に押した。その先が偶然、最上階だった。どんどん上昇していく鉄の箱には正直不安も覚えた気がする。
最上階に病室はたった五部屋しかなかった。廊下も電灯が点いていなくて薄暗かった。唯一の光源は廊下の窓から差し込む陽光だった。
僕が歩く。靴と床が擦れる音がする。僕が歩く。靴と床が擦れる音がする。音という音も僕が発生させる音しかなかった。静か過ぎると耳が痛くなるというのをこの時初めて知った。
五部屋しかない病室を順々に見て回った。最初の部屋、空っぽ。次の部屋、鍵がかかっている。次の部屋、開かない。次の部屋、扉は固く閉ざしている。
そして廊下の突き当り──最後の部屋だった。そこの引き扉に手をかけると、最初の部屋のように容易く開いた。同時に、目を瞑らんばかりの光を浴びた。
そのまばゆい光が病室の窓から入る外の光だと気付くまでに、十秒は要した。
ようやく目が慣れてきて、僕は部屋を見渡した。
まず部屋全体がダイヤモンドダストのような輝きに満ちていた──というのが、部屋を仕切るガラス張りの壁による光の屈折や乱反射だと、知識の乏しい時分の僕にはわからなかった。一歩、二歩と部屋に踏み入って、家の窓ガラスのようなものが目の前にあると、そこで判明した。
僕は何を考えたわけでもなくガラス壁に近寄って、その隔たりの先にある空間を覗いた。
一見、変哲もないただの個室の病室だった。ベッドがあって、枕元の近くにキャビネットがあって、キャビネットの隣に小さな冷蔵庫があって、キャビネットの上に画面の点いていないテレビがあって、部屋の隅にパックの吊るされていない点滴スタンドがあった。
そして、一人の女の子がベッドの上にちょこんと座っていた。
その女の子は未知との遭遇を果たしたみたいに、穴が開くほど僕を凝視していた。僕も同じように女の子を見つめ返した。白くて長い髪、髪色に負けないくらい白い肌、デフォルメされたクマのイラストが特徴的な淡い水色の寝巻。とても可愛らしい子だった。
お互いが奇異の視線を向けていた。時間も長かった。少なくとも時間を忘れるくらいの時間が経った。
そして僕は、恐る恐る──こういう時だけ臆病になりがちだった──女の子に向かって小さく手を振ってみた。あまりに女の子が微動だにしないものだから、もしかしたら人形か何かではないかと思ったのだ。
すると、
「──ッ!」
女の子は花が咲いたような笑顔になった。次いで勢いよく手を振り返してきてくれた。さらにはベッドから下りてスリッパを履き、僕へ近づいてきた。
僕と女の子の距離がガラス一枚分の厚さになったところで、女の子はガラスに片手をついた。僕も女の子の手と重ねるようにガラスに手をついた。また女の子が嬉しそうに笑ってくれた。
「あなた、だあれ?」
先に女の子が問う。ガラスのせいで若干くぐもった声だった。
「けんと」僕は少し声を張って言った。
「けんとくん?」女の子は小さく首を傾げた。
「そう」
「けんとくん!」
それから数回、女の子は僕の名前を連呼していた。呼ばれる度に僕も頷いた。確かめる度に女の子の嬉しそうな笑みは咲くように増していった。
最後に僕の名前をもう一度呼んだところで、女の子は再び無邪気に寝巻の袖で口元を隠して笑った。
「きみのなまえは?」今度は僕が問う。
「ない!」
「ないちゃん?」
耳にしたことのない名前で思わず首を捻った。けれど、
「ちがうよ。なまえ、ないの」と女の子は言った。
「どうしてないの?」
「しらないよぅ」
「じゃあ、なんてよべばいいの?」
「けんとくんがきめて」
僕は狼狽した。まさか初対面の子の名付けを任されることになるとは思いもしなかった。とりあえず当時通っていた幼稚園の女の子の名前を思い浮かべた。けれど、人から拝借した名前だと何だか目前の女の子に失礼な気がした。
適当に名付けるわけにもいかず、悩みに悩んだ末、僕は名前を告げた。
「りえ」
「りえ?」
「うん。きみは、りえ」
「りえ」女の子は嬉々として自分の新たな名前を口にした。「ありがとう!」
「どういたしまして」僕も無意識に口元が緩んでいた。
「どうして、りえなの?」
「きみにぴったりなきがしたから」
そっかあ、と女の子は微笑んだ。
「はじめまして、けんとくん」
「はじめまして、りえ」
そうして僕らは奇妙に出会った。
それが十年前の出来事なのだと思うと、違和感を覚えた。つい先日のような気もするし、十年どころか倍以上の時間がかかっているような気さえした(まだ二十年も生きていないのだから、そんなはずないのだけれど)。
ちなみにリエと初めて出会った日、僕は巡回に来た看護師によって発見されて、当然叱られた。リエに別れを告げられないまま受付ロビーに連れて行かれ、涙を浮かべていた母親にもたっぷりと怒られた。
どうやら最上階は関係者以外立ち入り禁止だったらしい。エレベーターの階層ボタンにも注意書きが横付けされていたようだった。でもろくに漢字も読めない当時の僕が「関係者以外立ち入り禁止」なんて難しい文字を読めるはずもなかった。
でも今後リエと会ってはいけないと警告されることはなかった。僕を発見した看護師から「言いふらしたりしなければいい」と条件付きでリエとの面会を許してもらえた。
それからは母親に連れられて病院へ来るたびにリエのもとに訪れた。もちろんリエも僕の訪問を喜んでくれた。僕が病室に顔を出すと満面の笑みになるのだから、僕も嬉しくないわけがなかった。幼少の頃の僕はとても単純に、女の子の喜びを自分の喜びに置き換えられていた。
僕が小学校に上がると、低学年の頃こそ一人で病院へ向かうのは親に叱責されたものの、年次が上がるにつれてそれも許された。学校が終わればすぐに病院へ行く頭のおかしな奴だとみんなに揶揄されていたけれど、関係なかった。僕と会うだけで喜んでくれる女の子がいるのだから。おかげで学校の思い出なんか、ろくに思い出せやしない。
けれど中学生に進学すると、残念なことにリエと会う時間が減った。
僕の進学した中学校がなんらかの部活動に強制的に入部しなければいけなかったためだ。異性を意識するようになる年頃だから、という邪な理由で彼女に会いに行かなくなったのではない。むしろ部活動なんて放り出してリエに会いに行きたかったくらいだった。だからなるべく他の部活動よりも時間と休日を拘束されない文芸部に所属した。それでもやっぱり許された時間は減ってしまったけど。
中学に進学するまで、僕はリエがなぜあの部屋で過ごしているのか、実は気にしていなかった。いや、訊かないほうがいいのかもしれないと考えていた部分もあった。リエは僕と同い年くらい(リエの正確な年齢は名前と同じく不明だった)なのに、学校へ行くことなく病室で過ごしている。僕と出会った頃から――もしかしたらそれより前から。
だから当初、僕は彼女が病に罹患しているのだと思い込んでいた。指定難病や難病といった疾病に罹っているせいで、あの部屋から出られないのだと。
病院に入院(?)しているのだから普通に考えて病気だと思い当たるだろう。しかしそれでは説明がつかない、納得がいかない点が多々あった。どうしてリエはあんなに健康体の様相なのか? どうして心電図も点滴もつけていないのか? どうしてガラスの壁なんてものに隔てられているのか? どうして本来なら関係者以外立ち入り禁止なのか?
あまり気にしていなかったことを一度気にかけると、僕は数日のあいだ寝不足に陥ってしまった。好奇心で気になっていた、というのも否定できない。けれどそれを容易く足蹴にできるくらい、強大な不安に襲われたのだ。
そう僕はとてつもない不安と心配に駆られた──気づけばリエが好きになっていたのだ。
十五歳にして初恋を自覚した。ともすれば遅すぎる自覚だった。
きっかけや好きになった理由、明確な時期は正直僕自身にもわからない。なにせ彼女と出会うのはあまりにも早すぎた。一目惚れだったかもしれないが、長い付き合いであればあるほど、分岐点なんて一瞬は忘れ去ってしまうものだろう。十年の時間の中で、好きになった瞬間を見つけ出せなんて、それこそ砂漠の中から一粒の砂を探し出すようなものだ。
好きであればいい。それを自認すればいい。
不安と心配に圧し潰されつつあった僕は、愚直にリエ本人に訊ねることにした。
ある土曜日。受付で面会手続きを済ませた僕はいつものように彼女の病室に訪れていた。看護師が配慮してくれたのか、僕専用に鉄パイプ椅子が用意されていた。有難くそれに座らせてもらった。
そして、問う。
「どうしてリエは、ずっとここで過ごしているんだ?」
僕の問いかけにリエは最初、首を傾げた。可愛らしく、あどけなく。伸びに伸びた彼女の絹のような白い髪が水面に落ちた水滴のようにベッドに広がった。
「健人くん、まさか今まで知らなかったの?」ピアノ線を張ったような、細くも響く声だった。「え、本当に知らなかったの?」
ガラスの向こうでリエは、僕が知っているのがさも当然のような口ぶりで言った。お互いに成長したこともあり、子供の頃のように声を張らずとも相手の声は明瞭に届くようになった。おかげで声色に乗った些細な感情の変化にも機敏に反応できるようになった。
「知らなかったよ。だって、訊かないほうがいいかなって思ってたから」
「どうして?」
「どうしてって、それは」一瞬だけ言葉に詰まらせた。「不用意に訊いたら、リエを傷つけるかもしれない、だろ」言って、すぐに顔が熱くなるのを覚えた。
一方でリエは数秒、鳩が豆鉄砲を食ったような表情だった。そして緩む口元を隠すように片手で覆った。恥ずかしがっているのではなく、僕をからかうような笑みだった。
「心配してくれたんだ?」
僕の顔が再度炎上する。充血して腫れあがっているのではないかと思うほど、熱かった。
リエを心配していたのは疑いようもない本心だった。けれど、それを彼女自身に茶化されるのは少し、いい気分ではなかった。僕が拗ねているのは本当で、でも大袈裟にそっぽを向いてみせた。(後から思い返すと凄く女々しい態度で後悔した)。
「ごめん、ごめんね」リエは取り繕うように謝った。口元は緩んだままだが。「心配してくれて、ありがとう。いじわるした後だから嘘っぽく聞こえるかもしれないけれど、すごく嬉しい」
彼女は謝罪してくれたけど、僕はあえて怒った振りを続けた。「はいはい」
「ごめんね。健人くんが珍しく赤くなってたから、つい」
やっぱりリエはニマニマと気の抜けた表情のままだった。
僕は依然として明後日の方向を向き続けていた。
しばらくして、どうしたのか、リエが急に大人しくなった。気になって彼女のほうを一瞥すると、先ほどまで緩みきっていた頬は戻っていた。そればかりか眉尻を下げ、視線は床に向けられ、明らかに落ち込んでいた。
なぜ人は凹んだりすると急に容姿が幼く見えるのだろう? 今のリエは申しわけなさで肩を縮めたせいもあってか、若干幼く見えた気がした。
ちょっとやり過ぎたか、と思って、僕はリエに向き直った。
謝ろうとした矢先に、彼女が開口した。
「あの……本当にごめんね、健人くん。疑っているわけじゃないんだけど、そこまで心配してくれてたなんて思いもしなかったから」声のトーンと声量が幾らか落ちていた。「あ、でも嬉しいのは本当だよ? 本当に、とっても嬉しい」最後は温かな微笑みを浮かべていた。「だから……機嫌治してくれない、かな?」
先にエクスキューズを置いておく。僕も少し度が過ぎたって謝ろうとしたのは本当で、リエが先に言わなければ「僕もからかっただけだよ、だからそんなに落ち込まないで」と謝罪するつもりだった。
けれど──ダメだった。我慢したけれど、限界だった。
僕は抑えきれず、吹き出してしまった。
誓って、暗然とした姿のリエに嘲笑しているのではない。必死に釈明する彼女がとても愛らしかった。どうしようもないくらいに好きだと改めて実感して、思わず笑ってしまったのだ。
声を上げて笑う僕を、リエは呆然と見ていた。状況に脳の整理が追いついていないのだろう。え、え、と間の抜けた声を出しながら戸惑っていた。
ようやく僕は落ち着いて、涙目を服の袖で拭った。こんなにも満たされる一笑どころか十笑は久しぶりだった。最後がいつだったか思い出せないくらい、僕の胸は満たされていた。
リエは今になって僕が演技していたと思い至ったらしく、餅のように頬を膨らませた。
「健人くん、ひどい。私、本当に肩身が縮む思いだったのに」
「ごめん。仕返しにって思ったんだけど、ちょっと調子に乗った」
「ちょっとどころじゃないですぅ。思いっきりですぅ」
「うん、そうだね。結構調子に乗った。それに、リエも文字通りに肩身が縮んでいたから。つい、ね」
「許しません」
今度はリエがそっぽを向いてしまった。これではいたちごっこになり収拾がつかなくなってしまいそうだ。それはそれでいいけれど、僕としては早く仲直りがしたかった。
「リエ、一旦こっちに来てくれる? お願いだから」
と僕は言って、こちらを横目で見てきたリエを手招きした。十秒ほど彼女は来ようとしてくれなかった。けれど、渋々と言った様子でベッドから下りてガラスに歩み寄ってきてくれた。
さすがにリエも恥ずかしくなったのか、出会った頃に着ていたクマの寝巻をこの頃見かけていない。代わりに薄桃色のフワフワとした肌触りと見て取れるルームウェアを着用していた。イラストは一切無い、少しだけ大人びたものだ。
部屋を仕切るガラスの厚さは目測だけど、三センチほどのものだ。
僕は初会のときのように、しかし今度は僕からガラスに片手をついた。
「ごめん、リエ。もうしないから。だからもう怒らないで」努めて柔和な微笑みを浮かべた。「最初にリエにからかわれたのはちょっとだけ拗ねたけど、僕ももうあれくらいじゃ機嫌損ねたりしないから」
そう言って、三センチ越しに彼女を見据える。
ふと、いつの間に、と思った。僕の身長はリエよりも高くなっていた。初めて会ったときは僕のほうが僅かに小さかったはずなのに。今はこうして彼女を見下ろすような背丈になってしまった。嬉しい気持ちもあったけれど、どこか寂しい気持ちもあった。
ガラスに当てている手だってそうだ。おそらく僕の手は彼女と比べれば一回りくらい大きいだろう(そうでないと、男としてはいささか困る)。
そんなことに想いを馳せていると、リエが俯いたまま口を開いた。
「私も、ごめんなさい。ちょっと調子に乗っちゃいました。元はと言えば私のせいだし」
「気にしないで。お互い様だから」
痛み分けということに納得してくれたのか、彼女はゆっくりと僕がガラスについている手と重ねるように手をついた。やはり彼女の手は僕のよりも小さかった。指はどれも細く、けど各所に丸みのある女性の手だった。
「大きくなったね、健人くん」リエは僕を見上げた。
「そうだね。これでもクラスで真ん中くらいなんだけど」
「そうなんだ。私からすれば充分大きいのに」
「たぶん、まだ伸びるだろうね」
「これ以上?」
「いや、伸びてくれないと困るよ。他の男子に負ける」
「負けず嫌いなの?」
「知らなかった?」
「うん。ちょっと意外だな」
ガラス越しに少女の温もりが伝わってきた気がした。彼女が続ける。
「私、健人くんの知らないところ、沢山ある」
「そっか」僕は瞼を閉じて、ガラスに当てる手に意識を集中させた。「僕も、僕の知らないリエのこと、知りたい」
一呼吸の間があった(リエが恥じらっていたのかもしれない)。「私も、健人くんのこと、もっと知りたい、よ」
うっすらと閉じていた瞼を開けると、リエも瞳を閉じていた。けれど、見たことのない微笑みを浮かべていた。嬉しい、恥ずかしい、楽しい、でもちょっと不安。それらが混ざり合ったようで、しかし幸せそうに見えた。
今までもこの三センチが煩わしいと思ったことはあった。
一度のことではない、何度も思った。
けれど、この日、この瞬間ほど、彼女の華奢な体をこちらに引っぱり出して、思い切り抱きしめたいと思ったことはなかった。
仲直りした僕とリエはお互い、ガラスの壁越しに寄り添った。僕は椅子に座って背中を、彼女は僕の背中に肩を預けるようにしていた。背中からじわじわと熱が広がっていく気がした。優しい、けれど燃えるような温かさだった。
「不妊虫放飼?」と僕は訊き返した。
「うん」リエは頷いた。「そんな言葉、知らないよね」
見聞したことのないそれに首を傾げるしかなかった。
リエが説明する。
「簡単に言えば、人工的に不妊化させた〈虫〉を特定地域に放って、不妊化させた〈虫〉と同種の虫を交尾させる。当然、不妊化しているから子孫は残せない。けれど〈彼ら〉はそれに気づかない。そうやって、いわゆる害虫を駆除していくの。長い年月と膨大な費用、専用の施設を必要とするから容易く行えない害虫駆除方法なんだけどね」
「ちょっと待って。話が読めないんだけれど」僕は思わずリエの話を止めた。「僕はなぜリエがその部屋に閉じこもっているのかを訊いたはずだよね?」
それがどうして害虫駆除の話になるのか。
病気関連の話ならまだ理解できる。僕は指定難病や難病に詳しいわけでもないから、彼女の語りに相槌を打って頭に書き留めるくらいしかできない。現実に、僕なんかが聴いたところで解決できるわけではない。彼女にしてあげられることなんて限られている──今みたいに寄り添ってあげられるくらいだ。
けれど、実際に彼女の口から語られたのは予想の線からだいぶ外れていた。脱線なんて程度じゃない、最初から走るレールが間違っていたみたいに。だから僕の脳はリエの話を受け止められずにいた。
一方で、もしかしたらその話は何か関係があるのかもしれないとも思った。
例えばその不妊化させた〈虫〉が製作者の不手際によって何らかの感染病をもっていて、運悪く放たれた地域にリエがいた。そして彼女は〈虫〉に刺され、感染病に罹ってしまった。しかし発病はしていなくて、保菌者として扱われている。だから彼女は昔からずっとこのガラス壁に仕切られた空間に隔離されている……。荒唐無稽な話だけど、僕の頭ではそういう風にしか推察できなかった。
「簡単な話だよ」とリエは僕の思考を遮るように言った。
多分、彼女は他にも告げたいことがあるのだろう。それを後回しにして肝要な部分だけを摘み取って告げる。
「私は生まれつき、その〈虫〉と同じような体質を抱えているの。もっとも、私の場合はより質が悪いけど」
「……どういうこと」
一拍の間を置いて、彼女は穏やかな口調で言った。
「私の不妊体質は、私の意思と関係なく他人に伝染してしまう」
すべてが動きを止める。
瞬き、思考、呼吸、僕の中に流れる時間という概念すら。
床から始まる世界分解に椅子が巻き込まれるような感覚に襲われ、反射で腰を上げた。
意思と関係なく他人に伝染してしまう──。
それが何を意味しているか、なぜ彼女が狭い世界に隔離されているか。
組み立てたくないパズルが勝手に組み上がっていく。
それじゃあ──
「リエは一生ここから出られないのか」
「うん」呆気なく彼女は頷いた。「仕方ないよ」
僕は瞬時に振り向く。
眼前には俯きがちに微笑むリエの姿があった。
──どうして笑っていられるんだ。
生まれ持った不妊体質というだけで家庭を育めない呪いに苦しめられる。加えてそれ以上に、無差別に他人を自分と同じ体質にしかねないという自責の念圧。
好きな人と結ばれず、皆から恨まれる。
それを可能性と言うには濃厚すぎて、もはや決定的な未来図だ。
比べれば、隔離された世界で生き続けるほうが彼女自身も精神的に傷つかずに済むかもしれない。
だとしても、リエはそれが宿命や必然と言わんばかりに受け止め、微笑を浮かべている。まだ年端もいかない、僕と同い年くらいの女の子。そんな子がまるで甘受している現状が、僕は悲傷に堪えなかった。
「でもね」とリエが続ける。まるで弁明するかのように。
「私、寂しくないよ。悲しくもない」彼女は顔を上げて、僕の視線と正面から交差する。
「だって、あなたがここへ来てくれるから」
そう言ってくれることに、素直な喜びを覚えた。無意識に口角が上がりそうになってしまいそうなほど。彼女の言葉は天井の楽の音にも匹敵した。
でもわからずやの僕は、現実に抗う。
「リエは外に出たいって、思わないの?」
「やめて」リエがピシャリと答えた。「……お願いだから、健人くん」
僕の考えること全てが読まれているようだった。
──大方、どうにかして私をこの部屋から連れ出そうと考えているんでしょ?
また僕もリエの心と通じ合っているみたいに、彼女の思考をそう読み取った。そしてそれは僕の企みを寸分違わず射ていた。
「どうして拒むんだ?」だから僕は訊ねた。
「嫌なわけじゃないよ。健人くんがそうしようと考えてくれてるのは、とても嬉しい。それくらいには私を想ってくれてるってことだからね」
でもね、と彼女は続ける。
「これは私が原因だけど、健人くんが私を外に出してしまったら私たちだけの問題だけではなくなってしまう。不妊症が伝染していって、いずれ世界から人がいなくなるかもしれない。それは困るでしょ?」
「……確かに超少子高齢化のこの時代に不妊症が蔓延したら、この国の人口は減少の一途を辿るだろうね」
茶化すように、僕は苦みを含んだ笑いを浮かべた。
リエは笑わなかった。
「ともかく、私はこのままでいいから。……違うね。私は今のままがいい。この部屋にいて、あなたが会いに来てくれる。それだけでいいの」
分不相応な希望を抱かせないで。
彼女は強気に、しかし弱々しくそう告げた。
2
リエの体質の告白が一年前の話。
僕は今、晴れて高校生の身となった。彼女のもとへ足繁く通う毎日だったから友達という友達が学校にいないまま進学することとなった。僕としてはそれで別に良かった。言わずもがな、初めから大切な人と出会っていたから。
こんな話を見聞したことがある。
ある一卵性の双子の話だ。その双子には友人と呼べる存在が一人としていなかった。小学校、中学校、高校を卒業しても、本当に友人がいなかった。だが後に判明したのが「彼らは自ら友人を作ろうとしていなかった」という真実だった。
なぜ友人を作ろうとしないんだ、と双子に訊ねたところ、彼らは揃ってこう答えた。
「初めから自分を最も理解してくれてる人が傍にいるから、わざわざ赤の他人と仲良くなる必要がない」
つまり、小中学校時代の僕もそういうことだ。
リエは僕を、僕はリエを。お互いがお互いを世界で一番理解していると信じて疑わなかった。赤の他人──血の繋がりなど僕らにはなかったが、血の代わりに膨大な時間があった。血では、遺伝では相手を理解できない。だが時間さえあれば相手を理解できる。十年の歳月は確実に僕たちの距離を着々と縮めていた。
他人から友人へ、友人から魅力的な異性へ、魅力的な異性から想い人へ。
僕の初恋は続いている。
つい先日のことだ。
そんな僕にも、なんと、同性の友達ができた。名前をアキラという。
しかし学校の友達ではない。彼はリエと同じ病院に入院している、僕と同い年の男子だ。中学生の頃に難病を患い、それ以来ずっと病院で過ごしているらしい。彼もまた狭い世界で生きる一人だった。
今日も気まぐれに病院の屋上へ立ち寄った際、アキラはそこにいた。彼と初めて会ったのも屋上だった。
彼は灰色のニット帽を被り、車いすに座ったまま屋上のフェンス近くで青く澄んだ空を見上げていた。
やあ、と僕が背後から声をかけると彼は頭だけ振り返った。
「よう。また来たのか」目の下に酷いクマがあった。にもかかわらず声には活気があった。
「また来たよ」
「何もないこんなところに毎日来るなんて、お前、相当な暇人か物好きだな」
ケケケとアキラは笑う。
このように、彼の物言いには少々棘がある。根から性格が歪んでいるというわけではないようで、彼の主張する意見や思考は正当性がある。口調に難があるのは、この白い巨塔で生活しているうちにそうなってしまったのだろうと僕は推察している。あるいは病がそうさせてしまったのかも。
友人とは言え、必ずしも同じ価値観、同じ方角を向いているわけではない。僕とアキラにしてもそれは例外ではなかった。どちらかと言えば僕らの性格は真逆に近かった。趣味や嗜好の合う要素がほとんど見当たらないくらいに。
では、どういう経緯で僕らが友人関係に至ったか。
アキラは、リエを知る数少ない患者の一人だった。秘匿された彼女の存在はどんな秘密よりも僕と彼を強固に結びつけた。
「それとも、あの女に会いに来たのか」とアキラが問う。
「正解」と僕は首肯した。
アキラは嘲笑うかのように一笑した。「よく飽きねえな。お前はあれか、深窓の令嬢ほど可愛く見えちゃう脳内お花畑くんだったんだな」
「そういうわけじゃない。アキラがここへ来るよりもずっと前にリエと出会った。幼馴染みたいなものだよ」
「くっだらねえ」
彼は吐き捨てるように言って、車いすの肘掛けに肘を置き、つまらなそうに顎を突いた。
こうして数回、彼と話すようになって分かったことがある──アキラはリエを酷く嫌っているようだった。厭う理由はわからない。けれど、彼の態度と言い草から明らかにそうだとしか思えなかった。
僕は彼の隣に並んでフェンスから街を見下ろし、見渡した。
「アキラはどうしてリエのことが嫌いなんだ?」
「逆に訊こう。お前はどうしてあの女が好きなんだ?」
一息の間を置いて、僕は答える。「好きだから好きなんだよ」
「うわ、鳥肌立ったぞ、今の」彼が大袈裟に身震いした。
「うるさいよ」僕は苦笑する。「それで、君はどうして嫌いなんだ?」
「奇しくもお前と一緒だよ」彼は攻撃的に笑った。「嫌いだから嫌いなんだよ。好きになるのに理由なんかいらないって、クサい台詞を青春馬鹿は言うだろ。お前みたいな。それと同じで嫌いになる理由なんか特にねえよ。強いて言えばそうなる宿命だった」
「嫌いになる宿命?」
「そんなもんだ。いじめる奴の常套句もそうだろ。いじめてた奴を選んだ理由に、特に理由なんかありませんって」
無理矢理納得させられた気がした。
アキラが続ける。
「俺としちゃ、お前が心配だけどな。あの女に騙されてるんじゃねえの?」
「当時五、六歳くらいの女の子が僕を騙してどうするっていうだ」
「昔は昔、今は今だろ。独りになりたくないがために、お前に惚れてるような素振りを見せて、罪悪感を抱かせて、毎日来てもらうように仕向けてるかもしれない」
リエが僕を騙していたとして、彼女に何の得があるというのだろう。
それ以前に、大前提として、彼女がそういう人間ではないことは僕自身が一番知っている。アキラの刺々しい言葉に僕は珍しく苛立ちを覚えたけれど、すぐに消化した。彼はこういう人間なのだから、と。
「仮にリエが僕を騙しているとしよう」
「怒るか?」
「怒らないよ。リエになら騙されてもいい。惚れた弱みってことさ」
僕の回答に、アキラは大層呆れっぽくため息を吐いた。「つまらねえ奴だな。そもそもの話、あんな奴は怪しすぎるだろ。ガラスの壁に隔離されてるって時点でおかしいと思わねえのか?」
「そういう体質を抱えているんだから仕方ない」
「違う。そういう話じゃなくてだな」彼は手を横に振りながら、唸り声を上げた。「えーっと、何だっけな……水の、じゃなくて」
アキラは何かを思い出そうとしている様子だった。
「何の話?」
「待て、喉まで出かかってる」ややあって、彼は嘆息した。「だめだ、出てこない」
「アキラは結局、何が言いたかったんだ?」
ニット帽の下に指を入れて頭を掻き、アキラは僕を横目に見る。
「つまり、あんなの非現実的すぎるんだよ。隔離が必要なのも、それをアイツ自身が望んでいることも知ってる。けどよく考えろよ。人権無視、非人道的、そんな処遇が現実に許されるとでも思うか?」
問われ、返答に窮した。彼と同じ疑問が常に頭の片隅にあったからだ。
──非現実的。
その言葉に引っかかりを覚えた。とても長くシルクのように真白な髪。職人が入魂の思いで創りあげた人形みたいに端正な顔立ち。彼女自身の容姿もまた、幾許か魅力的すぎる気がした。
「……状況がそうせざるを得なかった。それじゃあ説得力に不足してるかな」
「理由にはなるが、納得はできねえな」アキラが首を振る。「それにお前自身はあの女の自己犠牲に納得しているのか? トロッコ問題じゃねえが、お前は多数のために一人の女を見捨てる気概か?」
「納得してるわけない」僕は間髪入れず即答した。「でも、リエに怒られたんだよ。私を外に連れ出そうなんて考えないでって」
どうしようもない。それが正直なところだった。
たとえリエが現状維持を望んでいても僕はどうにかして彼女に触れたい。直に声を聴きたい。世界の広さを教えてあげたい。もっと彼女と親密になりたいという欲が僕を惑わす。でもそれを実行しようものなら、彼女を失望させることになってしまう。八方塞がりもいいとこだ。
「まあお前がどうしようが知ったことじゃあないけど」とアキラが素っ気なく言う。「恋して盲目になるのが悪いとは言わねえけどよ、いいように操られるな。もしくは、すでに操られてるようなら糸を断ち切れ」
彼の小難しい物言いに、僕は首を傾げる。「どういうこと?」
「初めから嘘しかなかったかもしれないって話さ。懐疑的になるのも悪いことばかりじゃねえ」
アキラは意地の悪い笑みを浮かべた。
時々、冗談なのか本気なのか、友達の言葉がわからなくなる。
3
新しく友人ができたからと言って、僕がリエとの面会を疎かにすることはない。むしろアキラと話すのは、リエの病室帰りがほとんどだ。彼には悪いけれど、あくまで主はリエだ。アキラと出会えたのも彼女がここの病院に隔離されていたからだ。違う場所であれば、僕と彼は出会うことすらなかったかもしれない。
今日も今日とて病院の最上階へ、廊下の突き当りの部屋へ訪れた。
病室のドアを開けると、しかし目的の彼女は眠り姫と化していた。
僕が来たときにリエが寝ていることは珍しくない──というのは僕が中学二年生くらいまでの話だ。ことに彼女は昔から身体が丈夫ではなかった。こんな散歩すらままならない部屋で十年以上も過ごしていれば誰だってそうなる。あるいは、生来の病弱なのかもしれない。とにかく、二年前くらいまでの彼女はよく寝る女の子だった。
でもここ一年以上、日中に微睡むリエの姿を見ていなかった。単に規則正しい生活リズムを送っているとか、僕が来る前に充分な仮眠を取っているとか、成長して少しは壮健な身体になったのだろう。
なら、どうして今日に限って夢の世界へ飛び立っているのか。
答えらしきものは掛け布団に放り出されたリエの手元にあった。
──タブレット端末。
見た目、縦三〇センチ、横二〇センチくらいのタブレット端末の部類ではやや大きめのサイズ。基調は女の子が好みそうな桜色。リエのルームウェアとほぼ同色で、彼女が淡いピンク系の色が好きだとよく伝わってくる。
第一に僕が覚えたのは、違和感だった。
実を言えばリエという少女は、外の世界にあまり興味を示していなかった。示そうとしていなかったと言うほうが正確かもしれない。そういう姿勢を見せていなかっただけで、本当はだだっ広い世界の物事に興味津々だったと思う。その証拠として、彼女は時折、窓の外を羨望の眼差しで眺めていた。
もしくは拒絶的に興味を抱かないようにしていたのかもしれない。一度でも気になってしまえば好奇心の種が芽吹き、魅力を感じてしまう。欲しいものが手に入らない子供みたいに夜な夜な就寝前に思い浮かべるだろう。そして彼女に限らず、同じ立場に立たされた人であれば、こう思うはずだ──外の世界は、どんなに素敵なもので溢れかえっているんだろう?
僕はそうなることを懸念していた。だから外の話はリエの前ではしないようにしていた。
彼女も不用意に訊いてこようとはしなかった。積極的に鳥かごの外に出ようとは考えない。人の世界の広さを決めるのは他者ではなく、自分なのだと彼女は物寂しそうに言っていた。
にもかかわらず、眼前の彼女の手元にある物はなんだ?
食い入るように異物を見つめていると僕の視線に反応したみたいに、タブレットを掴むリエの手がピクンと動いた。それから彼女が目覚めるまで時間はかからなかった。
まだ意識が完全に覚醒していないのか、リエは眠たげに目を擦りながら緩慢な動きで上半身を起き上がらせた。
タイミングを見計らって、僕は声をかけた。
「おはよう。リエ」
瞬間、眠りから覚めた姫が、首がねじ切れんばかりの速さでこちらに振り向いた。
しかし、返事はない。
リエは目を擦っていた姿勢のまま、穴が開くくらいに僕を凝視している。
彼女の反応に僕は首を傾げて、「おはよう、リエ」と再度、声をかけた。
そうして、リエの第一声。
「……健人、くん?」
間の抜けた声だった。
「うん。おはよう」
深呼吸一回分の間が空く。
「ホントに、健人くんがいる」
僕が来るまでよほど長い間眠っていたのか、どうやらリエは脳が起きていない。
まるで、僕と初めて会ったみたい──ずいぶん昔から文通だけの交流で、互いのことを隅から隅まで知っているのに、未だかつて顔を合わせたことがなかったような。信じていなかったサンタクロースが暖炉から煙突を登ろうとしていた場面に遭遇したような。寝起きの彼女はそんな反応を示している。
人の目が点になる様を始めて見たから、思わず軽く吹き出してしまった。
「どうしたの? 寝顔見られたの久しぶりだから、恥ずかしいを通り越して驚いた?」
僕は口元を袖で隠しながら、押し殺すように笑っていた。
そしてリエは──涙を流した。声を上げず、表情を崩さず、ただ零すように。
そんな彼女を見て、僕が驚かないわけがなかった。肺が吸い込みと吐き出しを間違えたかのように、呼吸が一瞬で停止した。当然、含み笑いも姿を消した。僕の表情に代わって出たのは困惑以外の何物でもなかった。
「リエ」叫びに近い声が無意識に出た。
彼女は依然として僕の声に応えてくれない。目から頬を伝って落ちていく水量が増すばかりだった。
吃驚している彼女を笑ってしまったからか? それとも安らかな寝顔を見てしまったからか? あるいは手に入れたタブレット端末を僕にサプライズで見せたかったのに、不可抗力とはいえ見てしまったからか? もしくは……。
些細なことかもしれないけれど、リエを泣かせてしまった理由がいくつも思い浮かぶ。どれも確信も根拠もないものばかりだ。でも彼女を泣かせようとした覚えはなかった。部屋に入ってから先の自分の言動を思い返しても、正直、思い当たる節はなかった。
どれほどの涙を流したのだろう、リエがようやく瞬きした。それまで一度たりとも目を瞬かせなかった。反射的現象すら一時的に忘れるなんて、何があったのだろうか?
ルームウェアの袖で涙を拭いながら、リエは開口する。
「ごめんね。ちょっと頭がパニックになっちゃった」
あはは、と誤魔化すように笑う姿は普段の彼女らしかった。落ち着きを取り戻したようだ。
「怖い夢でも見た?」僕は狼狽して、声も弱々しかった。「大丈夫?」
「うん。大丈夫。もう夢から醒めたから」
それを聞いて、一先ず安堵した。
「どんな夢だったんだ?」僕は苦笑しながら訊ねた。
「……健人くんのいない世界」まだ恐怖の残滓が消えていないのか、声が震えていた。
「とても恐ろしいね」
リエが僕と同じ想いであるなら――僕の思い上がりでないのなら、それは最も恐怖する夢だろう。僕だって夢だとわかっていても大切な人が忽然と姿を消した世界なんて、怖くて怖くて絶望してしまう。僕の世界は彼女なくしてあり得ない。それほどにまで僕にとってリエという少女の存在は厖大だ。
できることなら今すぐリエの隣に寄り添って頭を撫でてやりたい。耳元で優しく「大丈夫、僕はここにいる」と囁いてやりたい。僕の体温を彼女に感じさせてやりたい。けれど透明な壁が残酷に邪魔する。鬱陶しくて仕方ないこの仕切りを盛大に壊してしまいたい衝動に駆られる。
この世に僕と同じ思いを抱える人がいるのなら名乗り出て欲しい。たった二メートル先に大切な人がいるのに、一歩踏み出して手を伸ばせば届く距離にいるのに、委細構わず隔てられる。生殺しという言葉はみだりがわしい場合に使うのではない。相手は生きているのにもかかわらず、亡き者を恋うような思いをする時に用いるのだ。
どうしようもなく、僕はガラスの壁に近づく。そして手をかざす。
「リエ、こっちにおいで」いつものように、記憶通りに、想い出に沿って。
泣き止まないリエは洟を啜ってベッドを下りる。
袖で涙を拭いながら歩み寄る姿は幼く、庇護欲を一層駆り立てられる。
このガラスは彼女から世界を守っている。でも僕は世界から彼女を守る立場でありたい。
目前まで距離を縮めた少女の背丈は、僕の記憶よりも僅かに大きい気がした。それに彼女の体の細部に目を凝らすと、様々な箇所に記憶との差異を覚えた。ルームウェアは以前と変わらない薄桃色だが、その袖から覗かせる手首はより細い。髪は相変わらず絹のような真白さなのに、長さがやや短くて太腿の中腹辺りまで(充分に長いけれど)。肌も透き通らんばかりの健康的な白さだったけど、今は病的な白さを思わせる。
なにより彼女がすぐそこにいるのに、その存在を感じられない。生気がないという表現が近いかもしれない。喩えるなら、巨大な液晶でテレビ通話しているかのような……。
好きな人の些細な変化に過剰な思考が働いていると、ガラス越しに手が添えられた。
それは記憶と何ら変わりない、僕らなりの愛情表現だった。
でも、
「なんで、まだ泣いてるんだ?」
リエの涙は止まるばかりか、流れる量はさらに増した。
加えて彼女は嬉しそうに口元を緩ませ、時折苦しそうに眉を顰める表情を浮かべた。
「ち、がうの」嗚咽しながら話すリエの声は、僕の胸まで苦しくさせる。「これは、ね、嬉しい、から、泣いちゃうの。でも、悲しくて……自分でも、とめ、られないの」
「なにが嬉しくて、なにが悲しい?」
僕の問いかけに、リエは答えない。いや、答えられないようだった。
僕らは手のひらを重ねて、しばらくそのままでいた。
もしかしたら一晩のうちにガラス壁に新たな細工が施されただけのかもしれない。リエの成長に伴って体質に変化が見られ、より強化しなければいけなかった。または、ガラスのほうに問題が生じて厚みを増さなければいけなかった。そのため、今までとは違う光の屈折具合などの要因により、彼女の容姿にもごく僅かな差異が生じたように見えたのかもしれない。僕の感じ取った違和感なんてそんなものだ。大半の人が感じる些細な違いは思い込みや勘違いで生じる、一時的なものだ。それを針小棒大に捉えてしまうのが脳の悪い癖で………いや、そんなことはどうだっていい。
リエの外見に変化があろうがなかろうが、僕にとっては二の次だ。少し気にかかっただけで、今何よりも重要なのは、なぜ僕の好きな人がこんなにも涙を流しているのか。
原因不明の涙ほど、相手が困惑するものはない。それが親しい者の涙であればなおさら。
僕はリエという少女のことを、隅から隅まで余すことなく知った気になっていただけだった。現実には好きな子の泣く理由さえ見当皆目つかない無知さだった。
シェイクスピアの有名な言葉だ──愚者は己を賢いと思うが、賢者は己が愚かなことを知っている。僕はまったくの前者だった。勉学や地頭の話じゃなく、それ以上に、想い人のことを全て知り尽くしたかのように思い込むことがどれだけ危険で愚かしい状態なのか。僕はようやくソクラテスを、無知の知を理解した。
リエが涕泣する理由を僕がこの日のうちに知ることは、しかし叶わなかった。
4
翌日の夕刻、僕は黄昏色の病院の屋上にいた。暮色に染まる空を群れの鳥が飛んでいる。その姿は影に塗りつぶされて黒く、種類を判別できない。メジロかもしれないし、百舌鳥かもしれない。だが季節は重要じゃない。鳥の正体も重要ではない。僕がこの時間帯に屋上へ足を運んでいたことが異常事態だった。
普段なら夜の帳が下りるまで病室の窓から夕陽を眺めている。無論、リエの病室で。しかし今日に限っては少しばかり早く──数十分の違いだけど、僕にとっては著しい差なのだ──リエのもとを後にした。
昨日のことがあったから居た堪れなかった、とは若干異なる。確かに昨日の一件は僕の胸にわだかまりを残した。なにせ好きな人が自分と顔を合わせた途端、泣いたのだから。
──リエを泣かせてしまった。
それだけなら僕の記憶している限りでは、恥ずかしながら何度もある。僕が小学生の頃、些細な口喧嘩をしたとき。喧嘩に発展した発端を今では思い出すことができないけれど、他愛ないことから始まった気がする。幼かった僕らは喚き散らすように泣きながら互いを糾弾し合った。そのときは結局どちらからともなく仲直りの印として手を重ねた。
あと中学生の頃だ。僕が修学旅行で五日間も彼女の病室へ顔を出せず、しかもそのことを事前に彼女に伝え忘れていた。だから僕が事故に遭った、または僕に嫌われてしまったのではないかと、彼女は心配と不安に圧し潰されかけていた。たった数日ぶりだったのに彼女は最初に激しく憤り、その後にダムが決壊したかの如くボロボロと涙した。彼女を泣かせた例は挙げれば他にも多々ある。
でもそれは午睡の件と同じく、リエの泣き顔はここしばらく見ていなかった。精神が不安定になる思春期を乗り越えたから、物事を冷静に考えられるようになった。故に泣く回数がめっきり減ったのだと思う。
とは言えリエも一人の少女である事実は疑いようもなく、おそらく僕の知らないところで落涙したのは一度のことではないだろう。昨日は偶然、その場に僕が居合わせただけなのかもしれなかった。
深く考える必要はない。現に、怖い夢を見たとリエは言った。世界に僕が初めからいないという夢。彼女だけが僕を知っていて、誰も僕を知らない。僕という存在が最初から、彼女の見た夢幻だったかのように。
感傷的な内容だけど、当人にしてみれば生きた空もしない夢だったのだ。
昨日の場では僕も一旦納得した。そういうこともあるだろう、と。
時間が経つにつれ、僕が一瞬だけ覚えた違和感は存在を大きくしていった──本当に、夢を見ただけであんなにも悲しそうに流涕して、とても嬉しそうに感涙するのだろうか?
誰だって怖い夢から目覚めれば安堵して胸を撫で下ろすかもしれないけれど……。
疑念を後押しするかのように、今日のリエは普段通りの彼女自身を振る舞っていたように見えた。何も考えず同じ時間と空間を過ごすだけなら感じ取れない、ごくごく微妙な差異。だけど僕は機敏にそれを感知した。
世界が一変した気分だった。
あまつさえ、「今日の健人くん、うわの空だね」とリエに心配される始末。
変に疑問を抱えたままリエに接するのも悪い気がした。なにも彼女を疑っているとかではない。単純に心配だった。善し悪しはとりあえず、変化は誰にでも訪れる。リエだって例外ではない。けど僕は心の奥底で彼女の変化を望んでいなかったようだ。いつまでも僕の知る彼女であってほしかった。
となれば僕が感じ取った差異の原因は、あのタブレット端末が一因なのだろうか?
人並みに外の世界を知りたがっているのかもしれない。リエだって立派な年頃の少女だ。その可能性だって充分にあり得る。あとは変わる彼女を僕がどう受け止めるかの問題になる。
不変を願う者に限って変化が生じる。
神様はなんだって、こうも天邪鬼なんだ。
仕舞いに、体調が優れないと僕は言って引き揚げてきた。そして屋上へ逃げるように上がってきた。
空を仰いでいると背後から声をかけられた。
「先客かよ」
声の方向へ振り返ると、車いすのハンドリムを転がすアキラがいた。
「今日は遅い現場入りだね」
「こっちは難病に罹患してんだ。お前みたいに自由気ままに動けるわけじゃねえんだ」
リエのことに気を取られて、つい口を滑らしてしまった。悪意がないとは言え、彼に謝罪しようとした。けれど、逡巡してそのまま機会を逃した。結果的に謝らなくて良かったかもしれない。病のことで気を悪くさせて謝意を言葉にすれば、彼の機嫌をなおさら損ねるような気がした。
アキラは車いすを器用に操って僕に並んだ。彼の膝元に視線をやると、彼にしては珍しく持参物を携えていた。タブレット端末だったら狼狽と困惑を禁じえなかったけれど、カバーがかけられた一冊の文庫本だった。
「本、読むんだ?」僕は何となしに訊ねた。
「読んじゃ悪いか?」彼の機嫌は傾いたままだった。
「そういうわけじゃないよ。いつも手ぶらだったから」
「ま、日頃から読むほうじゃねえしな」そう言って、アキラは文庫本を片手で開く。「あまりに暇だったもんでな、同室の爺さんに借りた」
誰に対しても彼が態度を変えることはないと、僕は勝手に考えていた。良くも悪くも、隔たりを立てない性格だろうと。実際は年上を敬うといった常識を兼ね備えていたらしい。でなければ私物を拝借することなんて容認されない。
「どういう物語?」
「世界が緩やかに滅亡していく、取り留めのない話だ」ケケケと彼は笑う。
「いや、世界が終わるなら一大事じゃない?」
「劇的に終焉を迎えるんだったらな。緩やかって言っただろ。今この瞬間にもこの星の寿命が減ってるのは紛れもない事実だろ。それと何ら変わらねえよ」
一理ある意見だった。
物語というのは僕らが日常的に看過している物事を誇張、もしくはそれ一点に焦点を当てて創作するものだろう。
アキラの言う通り、今も刻一刻と人々の寿命は減り続けている。言うなれば世界とは人そのもので、世界の終わりとその人の終わりは同義だ。でも人が自身の寿命が減少している事実を一々大袈裟に取り立てることはない。騒いだところで徒爾に終わると知っているから。
万が一、小惑星が地球へ一直線に向かってきたとしよう。人々はその避けられない未来を悟って、最後の瞬間までいつも通りの生活を送るかもしれない。ある老人は愛犬の散歩を、ある会社員は仕事を、ある夫婦は食事を、ある子供は積木遊びを、ある恋人はキスを。人生最後の日だからと言って犯罪を起こすような、わざわざ人生に汚点を作る真似はしないはずだ。
「でもな」とアキラが続ける。「この話には、個人的に面白い部分がある」
「どういう?」
「この物語の主人公には、実は世界を終焉から守れる特別な力があるんだ。そいつは男なんだけどよ。けど、そいつはいつまで経っても自分の力に気づきやしない。それこそ世界が滅ぶ瞬間までな」
僕は首を捻らざるを得なかった。「それのどこが面白い?」
「かわいそうな奴じゃねえか。物語ってのは主人公自身が主人公役だと気付かないもんだけどよ、この話の主人公は馬鹿なんだよ。言っとくが、知能の話じゃないぜ? 今まで一般人とは一線を画すご都合主義の恩恵に預かってんのに、こいつは自分が主人公だと思い至る節から目を逸らし続けてんだ」
アキラの語りでは微妙に要領を得なかった。
「なぜ彼はそんなことをしたんだ?」
「決まってんだろ」ケケケとアキラは意地悪く笑う。「こいつは不幸に真面目なんだ。すぐ傍にある幸福には見て見ぬふりするくせに、不幸には真正面からぶつかって行っちまう。悲劇から目を背ければいい、逃げればいいものを体当たりしていく。逆に幸せだけを拾っていけばいいものを、まるでそれが地雷のように思い込んで避ける。だから自分が特別な力を宿していることを、ヒーローになり得る可能性を自ら捨て去ったのさ」
どうだ、面白い話だろ。とアキラは僕に同調を求めたが、苦笑で返した。
「それって、その主人公が過去に幸福からどん底に堕ちたっていう経験があるからだろう。トラウマみたいに、その時の落下に反射的に恐れてしまうから不幸に対して真面目になってしまったんだ」
「そうだけどよ、馬鹿に変わりない」
「仕方ないとは思えない?」今度は僕が同調を求めた。
「思わないね」アキラはそっぽを向いて拒んだ。「こいつは二重の馬鹿なんだよ。ひとつは先の不幸に真面目であること。もうひとつは学習しない馬鹿だ。何が肝要って、次は幸せから不幸に堕ちないための努力だ」
アキラの言うことは冷徹で辛辣に思えるけれど、もっともな言い分に聞こえた。幸せになるための努力も重要であることに間違いない。それと同じくらい、もしくはそれ以上に幸福を維持し続ける努力は欠かせない。一見簡単なように思えて、実は大半の人はできていないのかもしれない。
納得させられた僕が言えることは、
「君の口から努力なんて前向きな言葉が出てくるとは思わなかった」
「失礼な奴だな、お前」やはり彼はケケケと笑った。
アキラの機嫌は、むしろ良くなったようだ。
幸せの維持は大切だ。
敢えてアキラの主張に僕が補足するなら、継続の努力に加えて「来たる不幸に備える姿勢」だ。不幸や不運というのは悲しいことに、誰でも平等に訪れる。時と場合を構わず、青天の霹靂の如く僕らの身に襲い掛かる。幸せの不変はこの世に存在しない。いつか必ず終わりを迎える。だからいつ来てもいいように予め準備しておくことが、幸福の維持に次いで必須なのではないかと、僕は思う。
「仕方ないっていう部分に関しては賛同できねえ」アキラが続ける。「だが、まあ、不憫ではあるとは思うぜ。自分が主人公だなんて誰も教えてくれやしないんだからな」
「暗黙の了解じゃない?」僕は屋上の床に腰を下ろして、膝を組んだ。「誰もあの人がヒーローだってことを知らないだけという可能性もある。でもそれって裏を返せば、誰にでもヒーローになれる可能性があるってことだよ」
「思い込みはよくねえぜ」
「確かに過度な思い込みはよくない。けど、信じ切れない自信の補足にはなる」
するとアキラから返答がぱたりと止んだ。こんな風に会話が途絶えることは、僕らにはよくあることだ。僕が会話の続きをアキラに促すことはしないし、その逆もまた然り。
空隙が生じた際、僕は空を仰ぐか、フェンスから街を見下ろす。
だから隣から聞こえてくる衣擦れの音や車いすが立てる音に、意識を向けなかった。
僕が次にアキラのほうへ振り向いたのは、彼から「おい」と声をかけられた瞬間だった。
なに、と口から言葉が出ることはなかった。
アキラが車いすから立ち上がっていたからだ。
病衣の下に隠れていても彼の脚が震えているのが見て取れた。それに体幹が乏しいせいで体の重心が前後左右に揺れていて見ているのも危なっかしい様子だった。いよいよバランスを失ったのか、彼は倒れ込む勢いで車いすのひじ掛けに手を突いた。
「立っても大丈夫なのか?」
純粋に心配で、そう訊ねた。僕はアキラの罹っている病がどういったものか知らない。けれど車いすが欠かせないのだから、ちょっとやそっとでは治らない病であると理解していた。
そんなアキラが、車いすから立ち上がったのだ。
「お前の意見も、一理ある」
息を切らしながら彼は続ける。
「思い込みってのは、時に嘘を真実に変えちまう。あるいは真実を知る勇気となる」玉のような汗が彼の頬を伝った。「もう自分の脚では立てないって宣告されていた人間を立たせる程度には、な」そしてアキラはニヤリと引き笑って見せた。
ついに限界を迎えて彼はなだれ込むように車いすに腰を下ろした。彼の脚代わりはギシッと歪みの音を立てて受け止める。
「あー、しんどっ」
無理するなよとは言わなかった。
「嘘に聞こえるかもしれないけど、少し感動した」
「だろ? 観賞料金、貰ってもいいぜ」
とアキラは茶化したけど、引きつる表情が一体どれだけ彼に苦痛を味わわせたのかを物語っていた。
「さっき一理あるとは言った。だが思い込みや過信、妄信がよくねえって考えてるほうが大半を占めてる」
僕は座ったまま彼を見上げる視線で続きを促す。
「こないだ俺が言いかけてたこと、覚えてるか?」
「どのことだろう?」
「あの女のことだよ。怪しすぎるって話、したろ」
あの女とは当然リエを指している。僕も忘れられるはずがなく、頷いて見せた。
「それが?」
「思い出したんだ。お前、水槽の脳って知ってるか?」
「水槽の脳?」僕は訊き返した。なんとも気味が悪かった。「知らない」
「思考実験のひとつだ。端的に言えば、人が五感で感じ取っている物事、考えること一つ一つが実は偽物なんじゃないか? 現実では水槽に入れられて保存されている脳が外部から刺激を受けて、人がその目で見ている景色や聞こえてくる音、思考による判断を操作されている……かもしれないっていう、懐疑的な問題さ」
「考えただけでおぞましい実験だよ」
「あくまで思考実験だ。実際に研究されたわけじゃない。有り体に言えば、仮想世界と現実世界を見抜くにはどうすればいいかって話だ」
僕は首を傾げた。「要領を得ないな。要するに、アキラは何が言いたいんだ?」
「さっきまでの話にすべて繋がる。この小説も、思い込みも、思考実験も。そして、前にお前と話したことに帰結する」彼は一拍の間を置いた。「最初から嘘を真実だと思い込んでる奴には、嘘がわからないのさ」
噛み砕いたと言うより、何らかの糸口を与えられた感じだった。その糸の正体は、しかし僕にはさっぱりだった。彼が何を言いたかったのか、一切見当がつかなかった。
「もうちょっと優しく説明してくれないかな」
「悪いが俺の口からはこれ以上言えない」
「いや、なんで」
拍子抜けした。僕にはわからないことを暗示するだけしておいて、最も重要な部分だけ秘匿するなんて、如何にもアキラらしい。
「そこまで言ったんだから、もう全部教えてくれていいじゃないか」
「馬鹿か、お前」彼は呆れっぽくため息を漏らした。「言えないって、俺は言ったんだ」
言えない。言わないのではなく、言えない。つまり秘匿を義務付けられているという意味だろう。それは理解できる。けど、何のために? 誰に? なぜ?
仕舞いには、アキラは緘黙してしまった。
一周回って、彼の言葉を深慮するのを諦めた。たぶん、また会うときに「まだ理解できてねえのか、お前は」とか口々に言って、結局教えてくれそうな気がする。彼の根が優しいことを、僕は知っている。
空から落ちていく緋色の光球が遠くに佇む山の陰に消えかかっていた。夕陽と逆の方角を見るとすでに群青色のグラデーションに侵食されていた。
僕は腰を上げ、ズボンに付着した埃を叩く。
「ありがとう」アキラには聞こえない程度の声量で呟いた。
だが漏れなく彼の耳に届いていた。「何だよ、気味悪い」
「気にしないで。僕個人の話だから」
気分転換のつもりで屋上に立ち寄ったのは正解だった。アキラのおかげで悶々と悩んでいたリエのことを一時的に頭の片隅に追いやることができた。呼吸まで苦しかった数時間前が嘘のようだ。頭が冷えたのだろう。
昇降口へ体を向けて、視線は隣へ落とした。
「じゃ、僕は先に帰るよ」
「おう」アキラは僕を見向きもせず、片手を振った。
数歩進んだ時、「健人っ」と呼び止められた。
今にして思えば、アキラが僕の名前を呼んでくれたのはこの時が初めてだった。
僕は半身だけ振り返った。「なに?」
瞬間、徒に風が吹いた。
「お前は本当に、運良く、運命的にあの女と出会えたと思ってるのか?」
アキラの声が突風にかき消されることはなかった。
「それは、どういう」
また彼の、僕に懐疑を促す問いかけだと思った。だからそれ以上、言葉を紡がなかった。
しかしアキラは続ける。
「疑え。人は疑ったとき、ようやく人になる」
「誰かの名言?」
「いや」彼は小さく首を振った。「誰にでもない、お前に向けての言葉だ」
じゃあな、と再び彼が片手を振った。
数秒、僕はその場に立ち尽くしていた。まだ彼の言葉には続きがあるような気がしたから。けど、それ以上はなく僕は半身を昇降口のほうへ返し、屋上を後にした。
階段を下りていく際、足音は聞こえなかった。アキラが最後に放った言葉が延々と頭の中で再生されていたのだ──人は疑ったとき、ようやく人になる。
僕は段々と深層へ下って行った。
アキラの姿を見たのは、この日が最後となる。
5
以前、リエが見たという悪夢を彷彿とさせる出来事が僕の身にも襲い掛かった。
ちなみにその時の彼女の夢はこういうものだ。世界から僕が消えてしまって、誰も僕を覚えていない。けれどリエだけが僕を知っている、覚えている。誰に聞いても、僕を知らない、そんな奴は初めから居ないと皆が冷淡に言う。世界に独り、置き去りされたような感覚だった。夢から醒めた彼女は後にそう語っていた。
だけど僕の場合は「夢」ではなかった。
紛れもない「現実」にて、リエの悪夢が顕現した──アキラが突如として消えたのだ。
病院関係者、彼と同室の老人に訊ねても誰一人としてアキラのことを覚えていなかった。覚えていないというより、最初から存在していなかった方が表現としては正しいかもしれない。と言うのも、僕が直接病院の方へアキラという少年が入院していたはずだと問い合わせをした。その結果、灰色のニット帽、車いす、ケケケという特徴的な笑い方、アキラという名前の入院患者の痕跡は一切見当たらなかった。過去に該当する人物もいなかったそうだ。
ならば、僕が屋上で会話を交わした彼は一体、何者だったのだろう? 幽霊、妖、怪異の類だったのかもしれない。それにしても彼は人間よりも人間らしい、人の深層心理や不合理な思惑を人一倍理解していた。人外の存在だったとは、とても思えなかった。
あるいは、人外だからこそ説明がつくこともあった。知るはずのないリエのことを知っていたし、人の心を覗き見たかのような感情の読み取りに長けていた。
誰も知らず、僕だけが覚えている。その事実の後押しもあって、僕はこう考えた。彼はもしかしたら僕の深層心理が見せた、一種の幻だったのではないかと。当然、穴だらけの推測だし、確信もない。むしろ僕自身もアキラという少年の実在説を未だに信じて疑っていない。でも現状、そう考える他になかった。
──疑え。人は疑ったとき、ようやく人になる。
彼の言葉が耳の奥でリフレインを繰り返している。
そもそも疑えとは何を指していたのだろう? アキラ自身を? それとも、直前の話を鑑みて長年閉じ込められている不妊体質の少女を? または、もっと大規模に世界そのものを?
終わりと先の見えない疑心に、何を信じればいいのか、わからなくなりそうだった。
そうは言っても、僕は堅実にリエのもとへ訪れた。普段よりも遅い時間帯だった。昼下がりを越えて、空が燃え上がるような緋色に染められ始めた頃だ。見舞いや面会目的の人の影は少なく、病院全体が静寂に包まれていた。
僕はエレベーターで最上階へ上がる。廊下は音という音がなく、僕の靴が擦れる音だけ。薄闇の廊下奥の一室。引きドアをゆっくりと開ける。薄暗い廊下に温かい溢れんばかりの陽光が差す。病室を覗き見ると、空中に光子が散らばっている。何度も目にした光景なのに思わず見惚れる。ふと最初にリエと会ったときのことを思い出した。
後ろめたい思いがあったわけではないけれど、僕はドアの影に隠れるようにリエの姿を確認した。
彼女は起きていた。ベッドの上で上半身を起こして、僕が見たことない切迫の表情で似つかわしくないタブレット端末を操作していた。つい先日手に入れたとは思えないくらい巧みに、それと対峙していた。タブレットを横にして、おそらく液晶にキーボードかそれに近い操作盤が表示されているのだろう、白くて細い十の指で懸命に画面を叩いている。
僕はしばらくリエを見守っていた。彼女は時折、手を止めて乱雑に頭を掻いて物思いにため息を吐く。かと思えば名案を閃いたかのように目を見開き、またタブレットを操る。何かが上手くいったのか、嬉しそうに微笑を浮かべる。こんなにも一喜一憂する彼女の姿を見たのは初めてだった。
どのくらい静観していただろう。入室してリエに話しかけようにも、今の彼女は声をかけ難い様相だった。切羽詰まる雰囲気をひしひしと感じた。だから息を殺すように遠くから彼女を見ているしかなかった。でも、ついに終わりが見えた。
「できたっ」とリエが独り言を漏らし、天井へ向かって両腕を突き上げた。万歳にも見えたし、凝り固まった体を伸ばしただけのようにも見えた。
弛緩しきった満足の顔をする彼女を見やり、僕はようやくドアの影から姿を現した。
「リエ、遅くなってごめん」
彼女の反応は機敏だった。天井へ上げていた腕をさっと下ろし、視線をやや下方斜めに向けた。たぶん、照れているんじゃないかと僕は思う。油断した素の姿を見られるのは誰だって恥ずかしく思うものだ。
「タブレット弄って、何してたの?」と僕は何気なく訊ねた。
「女の子の秘密」と彼女はこともなく答えた。
追求しないほうがいいのだろう。僕は「そっか」と言って、鉄パイプの椅子に腰を下ろした。
僕はこの席から見る景色が好きだった。第一に視界に飛び込んでくるのは、リエ。その次に意識が向くのは透明なガラスの壁。最後に病室の窓の外に広がる街(とは言っても、景色の大半が緑の山だけど)。
こう言っては何だけれど、この部屋丸々一室がまるで絵画のようだった。美しい緑の山を背景に、部屋に散らばる夕焼けの陽光、真白な髪の少女が哀愁漂わせている瞬間を抜き取った写真のようでもあった。
そういう意味では、以前にアキラが言っていたように非現実感が否めなかった。眼前に広がる光景に耽っていると、リエから声をかけられた。
「健人くんは、知りたい?」
「何を?」と言って、すぐに思い至る。「あ、さっきの秘密のこと?」
「そうだね。私の、とっても大事な秘密」
「そんなに大事な秘密を僕に明かしちゃっていいの」
「君だからこそだよ」
とリエは言った──僕のことを、「君」と。
普通は違和感とは呼べない、あまりに小さな取っ掛かり。
しかし、予め僕が反応する設定でもされていたかのように、僕の中で疑念が爆発した。
鉄パイプ椅子がリノリウムの床へ横転した衝撃音が響いた。
「どうしたの?」
リエは一驚して、急に立ち上がった僕を見据えていた。
背中を伝う汗が止まらない。立っている感覚がない。床から世界崩壊が始まったみたいに、不安を煽る浮遊感が僕を襲う。脚に力を込めても、自分がどうやって立っているのか把握できない。喉が猛烈な速さで潤いを失っていく。口を開いても水分を枯渇しているから満足に舌も動きやしない。
それでも、僕は訊かなければならなかった。
「お前は、誰だ」声量は乏しく、震えている自覚があった。
僕の問いかけに、リエは一瞬だけ激しい動揺を見せた。直後に瞼を閉じ、口角だけを僅かに上げて、
「そっか」と諦観したかのような呟きを漏らした。
「やっと、疑ってくれたんだね」穏やかな声だった。「キーは呼び方だったのかな? そういえば思い出の私は、健人くんのことをあなたって呼んでたんだっけ。何だか旦那さんみたいでちょっと恥ずかしいな」
でも結果オーライだね、と彼女は僕の質問を無視して一人納得していた。
「もう一回訊く」僕は強気に言う。「お前は誰なんだ? 本物のリエはどこにいる?」
「私がリエで間違いないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。どちらかと言えば、健人くんの知る私の方が嘘なんだ」
訳がわからなかった。
僕の知るリエは、僕のことを「あなた」と呼ぶ。「君」という二人称で呼んだことは一度もない。こんなに強かな性格ではない。どこか気の抜けた性格をしている。外の世界に興味を示さない。だから、手際よくデジタルガジェットを弄るはずがない。
すると少女はまたもやタブレットを操作した。数秒のあいだタップとスライドを繰り返した後に最後は大袈裟にタップしてみせた、
瞬間だった。
僕の頭に何かが落ちて当たった。微妙に硬くて、床に落ちると同時に鈍い音を立てた。正体を追う僕の視線の先にあったのは、真っ赤なリンゴだった。
「それが秘密の正体だよ」と少女は言った。「食べてみて、健人くん」
僕はガラス越しに少女を睨んだ。「食べない。いくら何でも怪し過ぎる」
そもそも僕らの間には物理的に越えられない透明の壁があるのに、彼女はどうやってこのリンゴを僕の頭の上から降らせたのだろう。天井を見上げても穴なんて開いていなかったのに。
「毒リンゴなんかじゃないよ」少女は軽く笑った。僕の知るリエの笑顔と重なる。「それは言うなれば禁断の果実かな。アダムとイブが食べた、善悪を知るっていう」
「お前が何と言おうと、僕は食べな──」
「食べるよ」僕の言葉を遮る様に彼女は続ける。「だって、本当はもう知りたくてどうしようもないはず。君は疑うことを覚えてしまったから、真相を知らずにはいられない。そのリンゴには答えを詰め込んであるの。ついさっき完成したんだけどね」
先ほどドアの影から見守っていたときに、彼女が「できたっ」と独り呟いていたのは、どうやらこれのことらしい。
確かに、僕はすぐにでも床に転がる禁断の果実に手を伸ばしてしまいかねない衝動に駆られている。少女の言う通り、募りに募った疑問(主にアキラが口々に言っていたこと)の答えを知りたくてしようがない。怪しいとわかっていても、彷徨う砂漠の真ん中で水を見つけたかのように、僕は答えを求めている。それでも愚直に「はい、食べます」と言うほど僕は愚かではなかった──逡巡しているけれども。
そんな僕の耳に、小悪魔の如き囁きが届く。
「健人くんは、君の知らない物語を知りたくはない?」
いや、違うね、と彼女は言って改める。
「私の物語、聴いてくれる?」
少女の目は、僕の好きな女の子と同じ目をしていて、いつかの思い出を想起させる。
僕が初めてリエの特殊な体質を知った日、彼女は僕へ約束を迫った。「このままでいい、分不相応な希望を抱かせないで」。彼女を外に連れ出そうと企てていた僕に、そう求めた。今の僕の目に映る少女は、その時とまったく同じ目をしていた。
目を背けるなと誰かが耳元で囁いた。今はもういないアキラかもしれないし、あるいはすべてを知りたいと叫ぶ僕の本心なのかもしれなかった。
恐る恐る、僕はリンゴを拾い上げる。それは吸い付くように僕の手に収まる。得体の知れない果実としばし相対する。喉が音を立てて唾を飲み込む。なぜか、このリンゴが僕の一部に思えてきた。本来はあるはずのピースだったのに、どこかでそれを落としてしまった。それがこの真っ赤な果実。そんな気がしてならない。
少女は無言のまま、依然として真剣な眼差しで僕を見つめ続けている。
僕の頬を一筋の汗が伝った。
「わかったよ」
もしかしたらすべてが少女の手の平の上なのかもしれない。
それでも、僕は、禁断の果実に齧り付いた。
【私の物語】
私が生まれ落ちた時代は、恋が許されない時代だった。
かつては超少子高齢化と言われていた私の国も、帰化する外国人の増加や妊娠と育児の手厚い給付金等によって少子化は改善された。加速装置のついた改善策は止まるところを知らず、出生率が国史で過去最高を記録した。
しかし何事も行き過ぎは良くない。繁殖力の高いげっ歯類みたいに、人口増加は爆発的な勢いで衰えを見せなかった。ある時から人口過密が国を悩ませる問題となった。
人口増加は自国の問題だけではない。それは何十年も前から国際問題として取り上げられていた。二十一世紀初頭は中東やアフリカ地域などの発展途上国が最も出生率が高かった。でも、先進国や一部の発展途上国は比較的に問題視されてこなかった。それこそ少子高齢化のほうが悩ましかった。
だけど、時代の流れと共に「恋愛の自由化」の風潮が世界的に蔓延した。なぜ広がったのか。世界保健機関が密かに推奨した説、秘密組織の実験の一環で洗脳を受けた説、様々な憶測が飛び交っている。問題は原因ではなく、それがもたらした結果だった。ネズミ算に人口爆発していく世界から相次ぐあらゆる物資不足の声。需要と供給のバランスが破綻したのは各国の予測よりも早かった。
そこで各国の出生率と照らし合わせて施行されたのが「恋愛の拘束化」だった。端的に言えば、消極的な口減らし。私の自国も例外ではなかった。もちろん世界各地でデモが発生し、暴徒化するデモ隊も散見された。宗教的な問題としても挙げられたし、人権無視という声も続々上がった。
その中でも一部の人間にだけ例外的に恋愛が許された。
要するに、遺伝的に優秀な人間だけが見合いのようにセッティングされた恋を認められる時代に突入した。
一方で器量の悪い人間に恋は認められなかった。出来の悪い子孫を残すだけだからだと。
国民全体が恨んだ。恨む先は、しかし行方がわからなかった。政府なのか、私たちの祖先なのか、世界なのか。世界が終焉を迎える原因はいつだって人なのかもしれない、ということをきっと誰もが理解していた。だから、ある時を境に反乱因子は諦めて大人しく、事実上の恋愛禁止令を甘受した。それしか道がなかったということも頭のどこかで理解していたのだ。
にもかかわらず、私の両親は許されない恋に落ちてしまった。
そして許されない私が生まれた。
だからなのかもしれない。まるで世界は私の両親と愛の結晶に罰を与えるかのように、私に呪いをかけた。私自身が不妊体質というだけでなく、それが私の意思とは無関係に伝染してしまうという呪いを。もしくは十字架を。
とは言っても私が五、六歳の頃までは平穏無事な生活だった。逆に言えばその頃に両親の禁忌の恋が露見し、二人は処罰され、私は彼らから取り上げられた。
最後に覚えている両親の顔と言えば、私を剥奪されるときの必死の抵抗の表情だ。泣き、怒り、抗う姿。でも今ではその光景に靄がかかってしまって鮮明に思い出すことはできない。思い出そうとしても胸が苦しくなるだけだから、あまり思い出さないようにしていた。
そんなわけで、当初は私も処罰される方針だった。そういう決まりだったのだ。許可を得ていない恋に、生存の許可を得ていない子供。生まれた時から、世界に否定される運命──のはずだった。
私を回収した組織の人間が次々に不妊化していった。加えて私の出生地周辺一帯の出生率が、私が生まれた年から減少する一方だということが判明した。
しばらくして、私は組織の人間の手によって隔離されることとなった。私が人口爆発を止める道具だと認識されたのだ。けれど、私の身体を弄り回した連中が言うには、まだ私の体質は「熟していない」そうだった。私の影響で不妊化していった人はいずれも私と直接か間接的に接触した人だけで、近寄る分には無害だという。
身体が成長するに比例して体質もより悪化していくのではないか、というのが彼らの見解だった。接触感染から空気感染に昇華させるまで自分たちの手元に置いておこうとした。
隔離された先は、幼少期の私でも狭苦しいと感じる僅か十畳ほどの部屋だった。いや、部屋というよりはシェルターのようでもあった。実際に地下だったし、とてつもなく広い空間の中にある部屋という入れ子構造の一室だった。
組織から私に与えられたのは、成長を妨げない健全な生活(健康的な食事や、いつか外へ放出された際に困らないための勉強とか)と、あとは一つのタブレット端末だけだった。食事は自動的に部屋まで運ばれてきて、一般的な知識の貯蓄はタブレットから。
小さな世界に閉じ込められた私にとって、唯一の娯楽はタブレットを弄るくらいだった。時間は余るほどあったし、暇つぶしには最適だった。
最初は涙する日々だった。どうして私がこんな目に遭うのか、どうしてお父さんとお母さんがいないのか、どうして寂しい思いをしなければならないのか。泣く理由は無数にあった。私はそれ一つ一つを解消していくみたいに、毎日泣いていた。
感覚的に、十歳ぐらいになった頃だった。私の涙は枯れ切った。代わり映えしない毎日に慣れてしまったのかもしれない。とにかく、私は泣くことがなくなった。
代わりにと言っては何だけど──私は許されない恋に落ちてしまった両親のもとに生まれたからだろう、恋というものに果てしない興味を抱くようになった。幼いながらに恋や愛を理解していたという遠因もあった(両親と暮らしていたとき、あれだけ愛情の交換を行っている二人を見ていれば嫌でもわかる)。
しかし私には恋愛はおろか、文字通り身近に相手すらいなかった。
そんな私が理想の男の子を夢見るのは、当然と言えば当然だったのかもしれない。
白馬に乗った王子様とまでは言わないけれど、今の私に密かに会いに来てくれるような、そんな男の子がいてくれたらなあ、と考える日々に移り変わった。
日に日に私の想像力は豊かになっていった。想像する男の子は顔の輪郭を得て、体を得て、性格を得て、名前を得て、彼の日常を得て、彼の人生を得た。私は彼を「健人」と名付けることにした。精悍な男の子らしくて、ピッタリな気がした。
妄想する生活が続いていたある日、タブレットを弄っていたときにあるものをネットの海で見つけた。
「恋愛の自由化」を掲げていた時代に流行っていた恋愛シミュレーションアプリだ。それは「恋愛の拘束化」と同時に、恋愛を助長する物を規制する際に削除されたはずの代物だった。しかしまだ時代の流れに逆らう者が息を殺して潜んでいたのだ。恋に恋する、私のような人が少なからず世界にいる証拠でもあった。
私はそのアプリが消される前に、即座にインストールした。おそらく、と言うより絶対に組織の人間は私のその行為に気付いていた。タブレット履歴はもちろん、自由に動き回ることすらままならない部屋での行動も常に監視されているのだから。
でも私が勧告を受けることはなかった。私の推察では、組織としては却って私が恋愛に積極的であれば都合が良いと考えていたのだ。それもそうだ。私が人との関わりに拒絶的であるより外に出て意欲的に人と関わるほうが好ましい。そうすれば不妊体質は蔓延し、人口爆発を抑止できる。
それは組織の手の上で踊らされているようで気分はよくなかった。けど、私の理想の男の子をより現実的にするには欠かせない欠片だった。
アプリはなかなかよく作られていて、ユーザーの思い通りの異性、あるいは同性を緻密に設定できた。容姿はもちろん、性格や私がかけて欲しい言葉、言われたら嬉しい言葉の情報を与えれば自動的に学習してくれる。つまり年月を重ねれば重ねるほど、私好みの、理想通りの男の子が出来上がるのだ。
そうして出来上がったのが後の「健人くん」のベースとなる。
当初、私は大いに満足していた。音声合成技術で声も手に入れた健人くんとコミュニケーションを取れただけで腰が浮いてしまいそうな気持ちになった。両親以外の誰かから言われる「おはよう」「おやすみ」「好きだよ」の言葉がこんなにも愛おしくて温かいものなのだと初めて知った。
しかし私の手に入れた幸福は、あくまで一時の幸福に過ぎなかった。
一カ月もしないうちに私は虚しさと寂しさを覚えてしまった。彼の声を直接聴きたい、彼に直接触れたい、彼に実際に会ってみたい。卑しい欲が湧いてきてしまったのだ。もちろんそれが組織の人間からしたら望ましい傾向だということは既知の事実だったけれど。
身も蓋もない話、私はどうしようもないくらいに「人」に飢えていた。
私の手中に収まる彼は架空の存在に過ぎなかった。私の指示通りに私を好きなってくれて、私の欲しい言葉を欲しい時に言ってくれる。もの凄く我儘だとわかっているけど、私が求めているときに空いた穴を埋めてくれるたびに、埋めようのない寂寥感に襲われた。久しぶりに、私は泣いた。
中途半端なのは最も遣る瀬無い。こんな思いをするなら彼を作り上げなければよかった。最初からしなければよかった、最初から嘘であればよかった。もう死んでもいいかと諦観することも度々あった。元より私はあらゆる人から疎まれる存在なのだから。
ふと私の頭の中で閃光が生じた。
以前、何となしに見た脳科学の記事を思い出したのだ。
ある脳科学者が人のアイデンティティとは何かという記者の質問に回答したものだった。
「人が人であるためには思い出、即ち記憶さえあれば人は人でいられます。逆説的に、人工知能を搭載したロボットに人間の記憶、物語を与えれば、それは人として成り得るのです」
そう語っていた。
気付いたときには、私は組織に対してある要求をしていた。四面ある部屋の壁の一面だけでいいから、シミュレーター用の液晶にして欲しいと。断ればこの場で自殺するとも。私がいなくなったところで組織は私の代替を容易く用意することはできるだろう。でも、大人だって面倒なことは避けたがる。加えて彼らにとって私の恋愛に対する向上心は願ってもない話だ。第一関門は無事に、私の望み通り叶えられた。
あとは私の努力次第となった。幸い、まだ時間は沢山残されていた。私が費やした時間を曠日弥久にしたくなかった。より高性能の人工知能、彼を「人」にさせるためのストーリー、それらの準備には途方もなく長い時間がかかった。少なくとも私の黒い髪が床に触れるくらいに伸びるほど。
努力だけではどうにもならないかもしれないと思っていた。しかし私の不安や心配とは裏腹に奇妙なほど事が上手く進んだ。
憑かれたように制作している最中はそこまで気にしていなかったけれど、よくよく考えればもの知らずの私なんかが一人でできるはずがなかった。詰まる所、組織の人間が私の知らないところで私を後押しさせていたのだろう。
だとしても関係なかった。一刻も早く、私は彼に出会いたかった。私の指示なんて真に受けない、一人で考えて、一人で判断する「人」になった彼に会いたかった。
「健人くん」の誕生には問題なかった。どちらかと言えば私自身の問題が深刻だった。
私はどんな人で、彼にとってどういう人で、なぜいつも同じ部屋にいるのかという説明を考えなければいけなかった。とてもじゃないけれど、私は自分に自信がなかった。比べる人がいないのだから看過していい点なのかもしれない。でも私は自立した彼にどうしても好かれたかった。好かれる手段の一つとして、気が引けるけれど、盛るしかなかった。
同年代の男の子が憧れるのはどういう女の子なのか、私は知らなかった。
だったら私が思う理想の女の子を、健人くんの記憶に組み込めばいい。
真っ白でさらさらな長い髪、肌荒れなんて知らないツルツルの肌、大きすぎないくらいに大きい瞳、思わず摘まみたくなるような綺麗な鼻筋の小鼻、無意識に視線を集めてしまうような美しい唇。容姿は、まあ、何とか完成した。
ずっと同じ部屋にいる問題点も入院しているか、不妊体質のせいで病院に隔離されているということでいいだろう。後々のことを考慮すると後者のほうがいいのかもしれなかった。私という人間を説明する上で足蹴にしてはいけない肝要な部分だ。彼にはすべて受け入れて欲しいから、嘘もなるべく減らしたい。悲しいことに、最初から嘘しかないけど。
時代は私が生まれた、人口過密なんかに悩まされていない頃がよかった。自由に、何にも縛られずに恋愛を許された一昔前が最良だった。恋が許されない時代に恋をするというのもロマンチックだけど、私は普通の恋をしたかった。
あと重要なのは、私の名前だった。実のところ、私は自分の本名を忘れてしまった。何年も誰から名を呼ばれていないから。逆に考えれば、好きな名前を彼に呼んで貰えるのだ。
天から降ってきたように閃いたのは、リエだった。
私自身、本来は存在しないはずの嘘の人間だ。現に世界から秘匿されるように監禁されている。嘘は英語で「Lie」で「ライ」という読み方だった気がする。だけど、ライは何だか男の子っぽくて、ローマ字をそのまま「リエ」と読むことにした。
ここまで来ると私の想像していたラインまであと一歩だった。あと一歩及ばないのは、どうすれば健人くんが「疑う」ことを覚えるか、という点だった。
アダムとイブが善悪の知識の木の果実を食べて、神様はそれを怒った。善悪を知るということは、神様の采配に対してそれが正しいことなのかどうか疑うということだ。結果、彼らは人になってしまった。それに沿って、健人くんも私との架空の思い出を疑えば、彼は完全に「人」としてのアイデンティティを取得できる。
でもその方法が思いつかない。
そもそも疑うのは嫌いな人を相手に抱く感情のようなものじゃないだろうか? それだと私は健人くんに嫌われなくてはいけなくなる。それは嫌だった。せっかく恋う相手に好かれるのに、自分から嫌われるなんてまっぴらごめんだ。
だったら、最初から私を嫌う新たな登場人物を用意すればいい。その子は特別に凝って作る必要がない。それこそ本当に私の指示通りに生きる登場人物でいい。「人」でなくていい。名前も男の子っぽくて、懐疑的な性格で、私が病院にいるのだから彼も入院していることにする。
それで完成したのが「アキラ」という難病を患う男の子だった。彼はキーパーソン役を担ってもらうことになっている。
いくら不本意な組織のバックアップがあるからと言って、基本的には私ひとりで物語を作っていた。気づけば私は成長して、体質も熟しかけていた。大体、十代後半に差し掛かったくらいだろうか。髪も無尽蔵に伸びていて多々踏んでしまったり絡まったりしてしまってウンザリしていた。私は部屋に予め用意されていた鋏を手に取って、髪を適度に切って調整した。
あとはもう、私の物語を健人くんに読み込ませるだけだった。タブレット端末にはその所要時間が表示されている。あと数時間はかかるようだった。満足に寝ていない日が何年も続いていた上にようやく完成したという達成感から、私は抗いがたい眠気に襲われた。できることなら彼が生まれる瞬間までこの目で見届けたかった。
結局、私は健人くんが誕生するまで束の間の仮眠を取ることにした。もしかしたら私が目覚めた頃には健人くんがシミュレーター用の液晶からひょっこり顔を出しているかもしれない。
──そして、たくさん話をするんだ。
そんなことを想像しながら、私はベッドにもぐり込んだ。
*
私は眠りから目を覚ました。
そして、
「おはよう。リエ」
私の初恋は、ここから始まる。
【君だけの物語】
「まあ、実際は泣いちゃってろくに話せなかったんだけどね」
と少女は言って、照れくさそうにはにかんだ。
「どうして」僕は一度、言葉に詰まる。「そんな回りくどいことをしなくてもよかった。最初から、僕が君の手によって、君のために創られたと言ってくれればよかった」
そうすれば僕が彼女を疑うなんて最低な行為をせずに済んだ。彼女も傷つくことはなかった。純粋に彼女を愛してあげられた。
「疑ってもらう必要があったの。そうでなければ健人くんは人になれなかったから」
リエは微笑を消して眉尻を下げ、悲痛の表情を浮かべる。
「ごめんね。嘘ばっかりで」
「……謝るなよ」
「私のこと、嫌いになった?」
僕は返答に窮した。
嫌いになるはずがなかった。しかし、心底から好きだと言える自信がなかった。こんな僕に心なんてものが本当にあるのかどうかはわからない。彼女の言う通りに僕が人に成れたのだとすれば、リエへの好意は僕の中に確かに存在している。
しかしその気持ちが果たして、本物の僕の感情なのだろうか? 架空の過去によって捏造された感情の疑いがあった。
なにせ思い出だと信じていた過去十年以上の記憶が、ある少女の手で綴られた物語だったのだ。考えれば、矛盾点や不可解な点がゴロゴロ転がっていた。なぜ子供の頃の僕が運よくリエと出会えたのか。なぜ僕だけが彼女との面会を許されていたのか。なぜ秘密の存在であるリエをアキラが知っていたのか。なぜ僕は少女との思い出以外──学校や家族との思い出──をほとんど知らないのか。挙げればきりがない。
答えは初めからそこら中にあった。しかし僕はそれに気づかなかった。……いや、そうじゃない。きっと僕は気づこうとしなかったのだ。アキラの言葉を借りるなら、すぐ傍にある幸福を見て見ぬふりをしていた。リエの天性の不幸と、彼女と結ばれないという僕の不幸にばかり焦点を当てていた。僕はどうしようもない馬鹿だった。
そして現実には、僕とリエは先日に初会を果たしたばかりだ。仮に僕の物語がなかったとしたら、僕は疑いようもなく彼女を好きになれるだろうか?
ガラスの壁──だと思い込んでいた仕切りに近づいて、リエに問う。
「この壁はガラスなんかじゃなくて、本当は次元の壁っていうことなんだよね」
「うん。だから私たちの距離は三センチなんかじゃなくて、ゼロだったの」
ゼロの距離。それは距離とは言えない。とどのつまり、存在していない。存在していないものを乗り越えるなんて不可能だ。
「今の僕の目に見えてるリエの姿も、本当の君の姿とは違う」
「そうだね。文字通りフィルターをかけてるから」
「そっか」僕は軽く拳を握る。「なら、そのフィルターを解いて」
えっ、と彼女が素っ頓狂な声を上げた。
「知りたいんだ。偽りなんかじゃない、本当のリエを」
「でも」と彼女は言い淀む。
リエの言わんとすることは、手で掴むように容易く予想できた。
大方、僕が幻滅してしまうのではないかと憂慮しているのだ。悲しいかな、僕の目に映る彼女の偽りの姿はいささか美しいという枠に収まりきらない美貌だった。僕に好かれたい一心で虚栄を張りすぎてしまったのだ。
──だからどうした。
僕にとって、リエの姿は重要な要素であることに間違いない。しかしそれだけで彼女を見てきた、傍にいたと思われるのは控えめに言っても憤りすら覚えるくらいに心外だった。それは彼女自身も理解していたことだろう。でなければ、こうして二の足を踏むような反応を示さない。僕の心情を踏まえていないのだとしたら即座に拒否するはずだから。
必要とされているのは、きっと、「大丈夫、君は元から綺麗だと思う」なんて無責任な言葉ではない。もっと別の表現で彼女の決心を一押しする言葉だった。
「僕はリエのすべてを知って、心の底からリエを好きだと言いたいんだ」
彼女への好意に対する僅かな疑念と、リエが自身に対して抱いているコンプレックス的な自信の欠落を払拭する言葉。僕はそれを選んだ。
果たしてリエは「わかった」と頷いて、どこか諦め気味に微笑んだ。
リエはタブレットを数回操作して、最後にタップすると同時に瞼を閉じた。
一瞬で彼女の体が砂嵐のような細かいブロックに包まれ、頭頂部から下方へ順々に魔法がとけていく。時間は長く掛からなかった。そして、彼女を覆っていたブロックが一つ残らず消えた。
長さは太腿辺りまでと変わらないが、真白とは相対の漆黒の髪色。瞳は猫のように丸く、小さい鼻は相変わらずだけど微かに雀斑が点々とあり、色素の薄かった唇はやや赤みを増した。まったく変わらなかったところと言えば、病的なまでに白い肌と服越しでも見て取れる華奢な体つきくらいだった。
始めて見るリエの真の姿に、僕は嘆息した。
「……どうかな?」上目遣いにリエが言った。
「こっちのほうが、僕は好きだよ」僕は笑って言った。
「ほんとに?」疑わし気な視線が僕へ向けられる。
「嘘じゃない。正直に言うけど、さっきまでのリエは綺麗すぎて逆に近寄りがたい感があった」
あはは、と困ったように彼女は一笑する。
「でも今の姿のほうが……なんて言うのかな」最適な表現を考えて、僕は口にする。「リエらしい、かな。しっくりくる感じがするし、何より可愛らしいよ」
魔法がとけた少女は照れくさそうに頬を掻いた。「ありがとう。すごく嬉しい」
ある意味では、僕らは今この瞬間に初めて出会った。
遅すぎた出会いに後悔は感じなかった。
ただただ、幸せな気持ちだけが僕の胸にじんわりと広がった。
僕らは次元の壁越しに寄り添った。僕は左肩を、リエは右肩を預けるようにして感じるはずのないお互いの温もりを感じた。
「健人くんに一つだけ、言っておきたいことがあるの」
とリエは物思いに言った。
「一つだけでいいの?」
と僕はからかうように言った。
「本当はたくさんあるよ? でもとりあえず、ね」
「うん。全部、ちゃんと聴くよ」
僕は瞳を閉じて、リエの言葉に傾聴する。
「その、健人くんの思い出──君の物語のことなんだけど。あれを嘘だと捉えないでほしいんだ。私が思うに物語って、そこにはないものなの。過去にあったかもしれない出来事で、これから起こり得る出来事。現在に存在しない、人が生きられなかった人生を物語って呼ぶの。難しい話かもしれないけれど、健人くんの過去は本当にあったと思ってほしい」
「つまり、今度は疑うんじゃなくて信じてほしいってこと?」
リエは小さく頷いた。「自分勝手なことを言ってる自覚はあるよ。でも、嘘だと決めつけて最初からなかったことにしてほしくないの」
閉じていた瞼を開き、寄り添う彼女へ視線を向ける。僕の視線に気づいたようで、リエも正面から僕へ視線を向けた。
数秒が経って、僕は思い切りため息を吐いた。
「時々、リエを馬鹿だなあって思うけど、今が過去最高にそう思ったよ」
「どうして」彼女は慌てた様子で叫んだ。若干涙目になっていた。「ひどい」
「言われなくても、とっくに信じてるよ」そう告げると、リエの目が点になった。「それに僕の過去が嘘だろうが本物だろうが、実を言えばどうだっていいんだ。リエが僕の物語を大切にしてほしいっていう気持ちはわかる。でも、今この瞬間が僕にとってはかけがえのない時間なんだ」
僕らに残された時間は、どう考えても少なかった。ひとえに、リエの体質がピークを迎えつつあるからだ。
リエはいずれこの鳥かごから解放されて、組織の監視下のもと世界中を歩き回ることになるだろう。不妊体質を伝染させ、歯止めの効かない人口爆発に終止符を打つ役を背負わされることになる。彼女の意思とは無関係に周囲の人々を、子供を授かれない体質へ変えてしまう。もしも彼女が世界中に蔓延した不妊症の原因だと特定されれば、組織は彼女を見捨て、彼女は世界中から非難を浴びせられる。誰も幸せになれず、皮肉にも人類が救われるという未来図だ。
そしてリエが外へ放出される際、きっと僕は組織の人間の手によって削除される。
僕が消えてしまうその瞬間まで、一分一秒を無駄にしたくなかった。リエのために。
「リエの生き続ける理由に、僕はなりたい。それには過去も未来も関係ないよ」
せめて僕と過ごした思い出が彼女の生きる糧になれれば至上の喜びだ。
「だからさ」
僕は壁に手を添えた。
「泣かないでよ、リエ」
彼女は顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を零していた。一言では言い表せない、様々な想いを含んだ涙に見えた。嬉しそうに、悲しそうに、寂しそうに、つらそうに。表情にもそれが浮かんでいた。
「リエはさ、これから苦しくて逃げ出したくなる境遇に追いやられてしまうだろう。君は時代が違えば悪役だったかもしれない。けれど今の時代にとって、君は世界を救えるかもしれないヒーローなんだ。それで、僕にとっては唯一のヒロインなんだ」
目を背けていたのは僕ばかりではない。リエもまた自身の体質を呪い、不幸と捉えていた。それも間違ってはいない。どんなに取り繕おうと彼女の不妊体質は人からすれば有害であり、本来の機能を損なわせる。自分が経験した、両親から引きはがされるのと同じような思いを人々にさせてしまう。堪えがたい自己嫌悪に陥るのは避けられない。
ただし、状況がそれを求めている。
役を全うしろとは言わない。
リエが逃げたって、僕は文句を垂れない。むしろ逃げたっていいと促す。
でも奇跡的に生まれたのだから、限界まで生きてほしい。
君のおかげで、僕もこうして人として生まれることができた。
そして僕らは運命的に恋することができた。
だから、この恋を、どうか最後まで。
「僕は、とても幸せだよ」
僕の手に、彼女の手が重ねられる。
「私も」
終わりが近づくとき、人はようやく真の幸せと向かい合えるのだ。
*
私はとても我儘だ。そして最後まで嘘つきだ。
健人くんは私に生きてほしいと願った。できることなら、彼の望みを呑んであげたい。
外に出るつもりも、生き長らえる気概も、しかし私にはもうない。
世界を救うために私が必要──そんなの、私の知るところではなかった。
私にとって世界とは彼がいなければ成り立たないし、彼がいなければ私の世界はもう終わっているも同然だ。そんな世界で生き続ける気はさらさらなかった。
ここまで来たら、幸せの絶頂で終わりを迎えたい。
外に出て人を不幸にするだけの余生に興味はなかった。
もしかしたら私の幸せの頂上は生まれた瞬間だったのかもしれない。それからは不幸の一途。でも最後の最後で、私は確かな幸せを掴んだ。頂きに比べたら些細な、それも虚空の幸福であることに間違いない。今の私の幸せは、他の人の目には一の幸せに見えてしまうだろう。
しかし最初から私には嘘しかなかった。
嘘の存在である私が、架空から生まれた健人くんと恋をしても誰も咎めなんてしない。
あるいは、これは死に瀕した私が見ている夢なのかもしれない。夢だったとして、私に現実か空想なのかを見分ける術もないし、見分けようともしない。いっそ夢だったらいいのにとさえ思う。夢から醒めたとき、私は感づく暇なく死ぬのだから。
もしも世界を救う道を放棄したことに言い訳させてもらえるなら、こう考えて欲しい。
私が自殺しても組織が私の代わりを用意するのは難しくないだろう。でも、私が稼いだ一年、一カ月、一週間、一日という空白は、きっと重要な意味を持つことになる。いくら禁じられようと、世界のどこかで新たな恋が芽生えるはずだから。
それは疲弊しきった目で電車の車窓から外を見つめる社会人と、並走する電車からその人と視線が交差した大学生かもしれない。早朝に犬の散歩をする無職の男性とすれ違ったランニングする未亡人の女性かもしれない。イルミネーションが装飾された駅前で誰を待っているわけでもなく佇んでいる男子高校生と、飛び込み自殺を企図している世の中に疲れてしまった女子高生かもしれない。運命的な出会いとは意外にも日常の中に溶け込んでいるだけで、あとは人がそれに気づくだけなのかもしれない。
ある人は、こうも言っている。
「運命の人は必ず現れる。ただその人は今頃アフリカ辺りにいて、しかも歩いてこっちに向かっているに違いない」
一見、果てしない距離に思える。でも、あなたから近づける方法はいくらでもある。歩いて行けばいいし、車を使えばいいし、船を使えばいいし、飛行機を使ってもいい。あとは行動に移すかどうか。
案外、あなたのすぐ傍にいる可能性だってある。
身近な幸せから目を背けていては運命も逃げてしまう。
恋愛を価値観や法、権力で縛ることは残念ながら可能だ。過去に前例があるのだから。
けれど、想いまでは誰にも縛ることはできない。
手足の自由を奪われようとも、小さな部屋に隔離されようとも、世界が終焉を迎えようとも、誰かを想う気持ちは止められない。
あなたの想いを果たせるのは、きっと、あなただけ。