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黄昏ヒーロー  作者: 雨咲はな
睦美編
2/4

後編



 ヤスくんのおうちでどういうことがあったのか、どんな話し合いがされたのか、今もってよく知らないけれど、隣家にはヤスくんとお母さんが住み、お父さんが出て行くことになったようだった。

 お父さんにはもう次の結婚相手が決まっていて、別の場所で新しい家庭を持つのだそうだ。


 ヤスくんは、時々、姿を見かけるようになった。


 髪の色はまだ茶色のままだったけれど、ブレザーを着て、カバンを持っていたから、高校には通っているのだと思う。

 家の前で何度か顔を合わせることもあったものの、どちからともなく目を逸らして、別の方向を向いてしまうので、あれから一度も言葉は交わしていない。


 怒っているのだ。当然だ。きっと私の顔なんて見たくもないのだろう。


 しばらくして、ヤスくんが大学に受かった、ということを母経由で聞いた。家からちょっと遠いので、アパートを借りて一人暮らしをするとのことだった。

 私はこっそりと自分一人でヤスくんの大学合格をお祝いし、天に感謝した。

 これからはもう隣の中学生と出くわすという忌々しいこともなくなって、あちらもホッとしているだろう。

 この先、あの時のことを謝る機会は二度とないんだろうなあ、と思うと、ものすごく申し訳ないような気持ちになった。



          ***



 ……でも、人生ってどう転ぶか判らない。

 私が高校二年生になった冬の、ある日曜日の昼間のことだ。

 母が突然、テーブルの上に、複数のタッパーをどんどんと積み上げた。

 クイズ番組を流しているテレビから目線を外し、自分の前に置かれたそれらを見る。四角く薄青いタッパーの中に入っているのは、どうやらカボチャの煮物や、肉じゃがや、きんぴらゴボウなどの惣菜類のようだった。

「……何これ」

 椅子に座ったまま、私が母を見上げると、彼女は「晩のオカズよ」と答えた。

「まだお昼なんだけど。それに、今日は変わった盛り付けだね。ひょっとしてこれ持ってピクニックにでも行くの?」

「なにトボケたこと言ってんのよ」

 母は呆れたような顔をしてから、とんでもないことを口にした。


「あんた、これ持って、お隣の康巳君に届けてきなさい」


「はあ?」

 有無を言わせない口調で下された命令に、私は目を剥いた。

「いや待って、なにそれ」

「だから、今、康巳くんのお母さん、病院に入院してるでしょ? それで康巳くんがこっちに戻ってきてるじゃない」

 母は当然のように言ったが、どこからどこまでも初耳である。お隣のおばさん、入院してたのか。高校生になって、私も部活やら友達付き合いやらで忙しく、ご近所情報などはまったく耳に入らなくなっていた。

「戻ってって、大学は?」

「ここから通ってるみたいよ。大変よね、一時間半もかかるのに。バイトもしてて、その合間合間に病院にも顔を出してさ。母一人子一人だから、頼る人もいなくて、康巳くんがぜーんぶ手続きとかしたんだって。そりゃ、毎日クタクタよ。そんなんじゃ家で自炊するヒマもないだろうし、無理したら倒れちゃうでしょ。だから、ちょっとだけど、オカズのお裾分け」

「ははあ」

 私は間の抜けた相槌を打った。

 なるほど、母の言い分はよく判った。実際問題としてその状況は大変だろうとは思うし、少しでも力になりたいと思うのも判る。


 しかし、私がこれをヤスくんに届けるのは、非常に気が進まない。


「いや、でも、大学生にそんなお節介……」

「お隣同士なんだからこれくらいいいじゃない。こんな近くにいるのに康巳くんが倒れたら、私、康巳くんのお母さんに顔向けできないもん」

「じゃ、お母さんが行けば?」

「お母さんだと、康巳くんが気を遣うでしょ。あんた、小さい頃、康巳くんにさんざんお世話になったんだから、こんな時くらい恩返ししなさい!」

「…………」

 その世話になった娘が、恩人に向かって罵詈雑言を吐き散らかすという最低なことをしでかしたとは知りもしない母は強引だった。

 タッパーを詰め込んだ袋をぐいぐいと押しつけられ、そのまま玄関から放り出されて、私は隣家の前で佇み、途方に暮れることになった。



 十分ほど立ち尽くしていただろうか。

 神さまが見かねたのか、それともちょっとしたイジワルなのか、まだ呼び鈴も鳴らしていないのに、門の向こうにある玄関ドアが開いた。

 そこから出てきたヤスくんが、自分ちの門前にぼーっと立っている私を見て、ぎょっとしたように足を止める。

 一瞬ためらうように目線が泳いで、彼は結局、そのままこちらへと向かってきた。

 ヤスくんの手には、大きな紙袋が二つ。これから出かけるところだったらしい。

 大学生になった彼は、すっかり大人の男性になっていた。さっぱりと短く切られた髪の毛は以前のような明るい茶髪ではなくもっと落ち着いた色で、サボテンみたいだった刺々しい雰囲気もすっかり消えている。服装も、ごく普通の大学生という感じだ。ピアスの穴は完全に塞がって、もう痕も残っていない。


「こ……こんにちは、お隣の者ですが」

「──知ってます」


 上擦った声でつい丁寧語を使ってしまった私に、なぜかヤスくんも丁寧語で返してきた。少し固めの無表情が怖い。やっぱりまだ怒っているようだ。

 とはいえ、ここまで来たら私も腹を括るしかない。ええい、とちょっとヤケクソになって、門扉を挟んだまま、ずいっとタッパーの入った袋を腕ごと突き出した。

 ヤスくんは目を瞬いた。

「……なに?」

「あの、うちのお母さんが、ヤスミくんが忙しくて自炊するヒマもないんじゃないかって言ってね、オカズのお裾分けだって。あ、迷惑なら受け取らないでいいから。このまま持って帰るし。なんなら私が全部責任もって片付けるし」

「オカズ……」

「ごめん、大きなお世話だったよね。うん、気にしないで。だよねいきなり困るよねこんなの。じゃ」

 一人でぺらぺらと喋り、あたふたと私が引っ込めようとした袋を、ヤスくんは素早く手を出し、掴んで止めた。

 ん? と顔を上げると、彼は困ったように目線を落とした。

「いや……もらえるなら、ありがたい。正直、外食にもコンビニ弁当にも飽きてたところだったんだ」

 なんとなく気まずそうな顔をしているが、その声音は怒っているものでも、無理に出されているものでもないようで、私はほっとした。

「そう言ってもらえたら、お母さんも喜ぶよ。あの、容れ物は適当にうちの前にでも置いておいてくれればいいから」

「いや、ちゃんとあとで返しに行く。おばさんにも礼を言っておいてくれるか」

 ヤスくんは真面目な表情で言った。そういう律儀で誠実なところは、昔から変わっていないんだなと思うと、ちょっと胸がじんとした。

「うん。じゃあ……」

 と言いかけて、私は悩んだ。

 いい機会だし、ヤスくんも私と会話をすることにそれほど嫌悪感を抱いているわけでもないようだし、今この時に、謝罪をしておくべきだろうか。でも、おばさんが入院しているというのに、わざわざ過去の嫌なことを思い出させていいものか。


「あの……ヤスくん、何か私に手伝えることって、ある?」

 考えあぐねてぽろりと口から出てしまった私の申し出に、ヤスくんは少しきょとんとした。


「手伝うこと?」

「大学通うのも遠くて大変そうだって、お母さんが言ってたから。病院へのお遣いくらいなら、私にも出来ると思う。おばさんのお見舞いにも行きたいし」

 ヤスくんは、自分が手に持っている紙袋に目をやった。たぶん、中身はおばさんに渡す着替えとかなのだろう。

「…………」

「あ、別に、無理にとは言わないから」

 慌てて付け足すと、ヤスくんは再び目を上げて、私をじっと見た。何を考えているのかはさっぱり判らないけど、静かな眼差しに鼓動が高鳴る。

「──そうしてもらえると、助かる」

 少しの間を置いて、ヤスくんはポツリと言った。

「実を言うと、これからバイトが入ってるんだ。でも病院から必要なものを届けてほしいって電話があって。バイトを遅刻するか休むか、迷ってた」

 目を伏せ気味にしているのは、ちょっとだけ照れているのかもしれない。彼が持ち上げた紙袋を、私は嬉々として受け取った。オカズタッパーの袋と交換だ。

「うん、わかった。病院はもう知ってるから、病室だけ教えてくれる?」

 ここからバスで二つ先のところにあるその病院は、自転車でも行ける距離なので、まったく大した手間ではない。

「悪いな」

「いいよ」

 結局、あの時のことは触れずに終わってしまったが、ヤスくんと普通に言葉が交わせて、私は嬉しかった。



          ***



「おばさん、こんにちはー」

 病室を訪ねて挨拶すると、おばさんは「あらまあ、睦美ちゃん」と驚いたように目を見開いた。

「お見舞いと、ヤスくんの代わりにお届け物に来ました」

 小さなお花を枕元の台に置いて、私はなんとか平常心を保ちながら笑ってみせた。

 驚きを顔には出さないように。いつもと同じように。


 ──おばさんは、別人のように痩せてしまっていた。


 明らかに軽い病気ではなさそうなのが、一目で判る。だからこそ全力で踏ん張って、私は普段道で会う時と同じように、にこにこと笑顔を振りまいた。

「康巳に頼まれたの? まあ、あの子ったら、こんなことに睦美ちゃんを使って、嫌ねえ」

「私からお願いしたんだよ。なにしろ最近、ヒマを持て余しちゃって。家でぐうたらしてるとお母さんに怒られるからさ」

「悪いわねえ」

 おばさんは恐縮して、私に椅子を座らせ、しきりとジュースやお菓子を勧めてくれた。遠慮なく手を出して、食べながら、学校のことや、自分の母親への文句を、面白おかしくぶちまける。おばさんは昔のようにコロコロと楽しそうに笑い転げた。

「今度来る時は、何を持ってこようか? 本とか? 何か欲しいものある?」

「そんな……」

 遠慮するおばさんに何度もしつこく訊ねると、「実は……」と恥ずかしそうに口を開いた。

「その、ね、新しい下着が欲しいんだけど、康巳に買ってきてと頼むのも悪いような気がして。睦美ちゃん、時間がある時でいいんだけど、よかったら」

「うん、任せて。そうだよね、ヤスくんには無理だよね。すっごく可愛いの選んであげる」

「普通のでいいのよ」

 おばさんの好みの色柄と形を聞き出してから、また来るねと約束して、私は席を立った。




 それから何回か、病室を訪問した。

 おばさんと交わす話の中身はいろいろだったけど、どうしても共通の知り合いということで、ヤスくんのことが話題に出るのが多くなる。特に、ヤスくんと私が、仲良く遊んでいた子供の頃の話をする時は、おばさんはものすごく楽しそうだった。

「あの頃、睦美ちゃん、康巳のやることなすこと、全部に感心していたでしょう」

「うん。本気ですごいって思ってたからね。私、ヤスくんのこと心の底から尊敬してたんだよ」

「康巳ねえ、もとはどちらかというと、やんちゃでワガママな子だったのよね。それが、何をしても睦美ちゃんがすごーいすごーいって褒めてくれるものだから、だんだん本当に、勉強や運動に身を入れるようになってきて。睦美ちゃんが『ヤスくんはなんでも出来る』って疑いもなく言うから、実際の中身も、それにそぐったものにならないと、と思うようになったんじゃないかしらね」

「…………」

 私は言葉に詰まった。


「──もしかして、子供の頃のヤスくんって、私のためにいろいろと無理してた?」


 おそるおそる聞いてみると、おばさんは違う違うというように笑って手を振った。

「無理じゃないのよ。本人も喜んでしてたのよ。大体、睦美ちゃんの前では優等生で正義の味方のような顔してたけど、裏では結構イタズラや悪いことだってしてたんだから。要するに、いいカッコしいなの。あの頃の康巳は、睦美ちゃん専用のヒーローだったのよ」

「そ、そう……」

 今になって知った事実に、私は恥ずかしさのあまり赤面した。

 それって要するに、私が勝手に押しつけたヒーロー像を、ヤスくんが頑張って演じてくれていた、ということだよね。まだ十年くらいしか生きていない小学生に、それはなかなか大変なことだったんじゃないだろうか。なのに私ったら、そのヒーロー像が崩れた途端に怒っちゃって。


 ごめん。ヤスくん、ほんとごめん。


「高校生になって、ちょっといろいろあって、康巳が荒れた時期があったでしょ?」

 おばさんは、なんとなくバツが悪そうに、小さな声で言った。

「え、うん……」

「本当にねえ、無理ないのよ。今でも、悪かったと思ってる。あの子、父親のことでずっと我慢していたのに、肝心の私がぐずぐずして決断できなくって。家に帰らなかったのも、泣いてる私を見たくなかったんでしょうね」

「…………」

 私はますます縮こまった。そのヤスくんに、酷いことを言ったのは私です。すみません。

「だけどある日ねえ、帰ってくるなり、『母さん、さっさとあいつと別れよう』って言いだして」

 おばさんはその時のヤスくんの剣幕を思い出したらしく、くすくす笑った。


 ──これからのことは自分も一緒に考える。だからとにかく、泣くのはやめて前を見よう。お互いに、もう逃げるのはやめよう。

 ヤスくんは、おばさんを正面から見据えて、強い口調でそう説得したのだという。


「なんでも、中学生に叱り飛ばされて目が覚めた、らしいの。『俺はもうカッコ悪いのはイヤだ』とも言っていてね。よっぽど屈辱だったんだわねえ」

「……まことに申し訳」

 ございません、と頭を下げようとした時、病室のドアが開いた。

「なに話してんだよ」

 と、苦虫を噛み潰したような顔で、ヤスくんが言った。



          ***



 病院を出て、ヤスくんと二人で歩いた。

 というか、すたすたと歩くヤスくんに、私が勝手に後ろからついていった、というほうが正しい。バスに乗らないのかなと思ったけど、二区間くらいなので、歩いてもさして大変ではない。寒さはそろそろ和らぎはじめているし。

「あのー、ヤスくん……」

 こちらを振り向きもせずに足を進めるヤスくんの背中に声をかける。

 どれから謝ればいいのか判らないくらいなのだが、とりあえず、「ごめんなさい」と言っておこうと思ったら、

「ごめん」

 と、突然立ち止まったヤスくんが、くるっとこちらを振り返って言った。

「は……え、なにが?」

 意味が判らずぽかんとすると、ヤスくんはなんとも苦々しい顔つきになって、頭を掻いた。

「あの時さ」

「あの時」

 復唱して、考える。あの時と言えばあの時しか思い当たらないんだけど、どうしてヤスくんが謝るのか判らない。

「俺、おまえにひどいこと言ったろ」

「ひどいこと……というと」

 ぐるぐると記憶を辿った。自分がヤスくんに言った「ひどいこと」はよく覚えているのだが、ヤスくんは私に何か言ったかな。

 あ、もしかして。

「えーと、『ようベイビー、オレと付き合っちゃう? ヤッちゃう?』という台詞のことかな」

「俺、そんな言い方した?!」

 ヤスくんが顔を赤くして悲鳴のような声を上げた。あれ、違ったっけ。大体意訳するとそんなような内容だったと思うけど。

「あれを気にしてたの?」

「頼む……忘れてくれ」

 ヤスくんは両手で顔を覆って、呻くように言った。いや、そんなの、今の今まで忘れていたくらいだったよ、とは言い出せず、私は困惑した。

「本当、あの時の俺はちょっとどうかしてたんだ。睦美はまだ純真な中学生だったのに、トラウマになってるんじゃないかと気が気じゃなかった」

「…………」

 ごめん、ぜんぜん気にしてなかった。ヤスくんはヤスくんで、少々、女子中学生というものに幻想を抱いてはいないかな。

「そんなことより、ヤスくんは怒ってないの? あの時、ヤスくんの数十倍ひどいことを言ったのは、私のほうだったのに」

「そんなことよりって言うな。……睦美が言ったのは、全部正論だし、何も間違ってなかっただろ。別にひどいことでもなんでもない」

「だけど──私、昔からずっと、ヤスくんにはひどいことしてたよね。自分の身勝手な理想を押しつけて、なんでも出来るって追い詰めて」

「いや……それは」

 ヤスくんは少し言い淀んだ。

 私から視線を外すと、顔を動かし、遠くのほうに視線を飛ばす。

 次の言葉か、それとも別のものか、何かを探すかのような目をした。


 そろそろ夕方近くなって、空は淡く染まりつつあった。

 近くのマンションの方向から子供の声がして、道路を行き交う車のエンジン音が響く。

 綺麗なオレンジ色が、大人になったヤスくんの顔の線を浮かび上がらせていた。


「……正直なことを言うとさ、目をキラキラさせた睦美に、すごいすごいって言ってもらえるのは、あの頃の俺にとって、かなり救いになってたんだよ。うちの父親ってのが、息子や他人には完璧を求めるくせに、容易に認めたり褒めたりしないっていう人間でさ。よく言うよな、自分は勝手なことばかりしてたくせに」

 目の前に臭いものを突きつけられたかのように、ヤスくんは顔をしかめ、口を曲げた。

「気を張って、意地になって、でも、たまに疲れてさ……ともすると、暗いほうに心が落ちていきそうだった。でもそんな時、睦美に、『ヤスくんはなんでも出来る、誰にも負けない』って言われると、本当にそうなのかなって気がして、ちょっと楽になった。俺は結局、ヒーローにはなれなかったけど、睦美に軽蔑されるのだけは堪える、って思い知った」

「私、ヤスくんにいろいろ我慢させてたんじゃない?」

「我慢はしてたんだよ。ずっとしてた。でもそれは、睦美に対してじゃない。上から押しつけてくる手があったからだ。小さな頃の俺がそのまま押し潰されずに済んだのは、睦美のおかげだ」

 そう言って、微笑んだ。

「…………」

 私は口を噤んで、その顔をじっと見つめた。

 ……ヤスくんの言葉がそのまま真実だとは、思わない。きっと、幼い私の無邪気な憧れは、当時の小さなヤスくんに背伸びを強いてもいたはずだ。

 でも、彼は決して、私にはそれを言わない。私に謝罪の隙も与えず、昔の思い出を否定しないで、温かいまま守ろうとしている。あの頃の私の愚かさを許容して、受け入れて、笑ってくれる。

 お陽さまのような眩しさではないけれど、夕日のような穏やかさで包んでくれる。


 ──ヤスくんは、やっぱり、優しい。


 いろいろと変わったところもあるけれど、ヤスくんの優しさは、昔からまったく変わっていなかった。

 彼のそういうところは、私が持ち合わせていないもので、たぶんこれからも身につけることが難しいものでもあって、だからこそ尊敬するし、憧れるのだ。

 そうか、なんだ。

 私がずっと憧れていたヤスくんは、今もちゃんとここにいる。




 夕焼けは少しずつ濃くなり、闇色に変わりはじめている。空に薄っすらとたなびくような赤紫が、ゆっくりと暗い影に呑み込まれようとしていた。

 その中を歩きながら、ヤスくんはぽつりぽつりと、おばさんのことを語った。


 放っておくとどんどん重症化する病気で、なるべく早くに手術をしないといけないこと。

 でもその手術はとても難しくて、成功率が半分くらいだということ。

 手術をしなくても、手術が失敗しても、先は長くないとお医者さんに言われたこと。


 まだ大学生なのに、ヤスくんは一人でそれらを背負い、選択し、決断を下さなくてはならない。父親はもう音信不通の状態だし、こちらから連絡をするつもりも毛頭ない、とヤスくんは言いきった。

「……ま、道は一つしかないんだ。わかってるんだけどさ」

 少し苦笑して、ヤスくんが言葉を落とす。

 道は一つ、手術の成功に懸けるしかない。それは判っているけれど、きっと不安でたまらないのだろう。当たり前だ、もしもお母さんがいなくなってしまったら、ヤスくんは本当に独りきりになってしまう。

 歩道を歩くヤスくんの両肩はすぼめられて、一回り小さくなったように見えた。赤く染まった背中がひどく寂しそうで、私の目には、大人のはずのヤスくんが、頼りない子供のように映った。

 所在なく垂らされていた手に、そっと自分の手を伸ばす。

 わずかに触れると、ヤスくんはびっくりしたように私を見た。それでも手は逃げなかったし、拒絶するような素振りもない。私は思いきって、ぎゅっとその大きな手を握った。

「大丈夫だよ」

 そう言って、大きく足を踏み出す。私のほうが、ヤスくんを引っ張るようにして歩いた。


 昔、こうやってヤスくんに手を握ってもらって、学校に行ったっけ。

 あの時に私がもらった勇気の半分でも、ヤスくんに返せるといいなと、心から願った。


「ヤスくんはなんでも出来る。願いは叶う。誰にも負けない。いちばん強い」

 呪文のように繰り返すと、ヤスくんは目を細めて、「──うん」と笑った。



          ***



 その後、ヤスくんのお母さんは長時間に及ぶ手術を受け、お医者さんに「成功です」とのお墨付きを貰った。

 ヤスくんは一人暮らしのアパートを引き払い、退院したお母さんと一緒に隣家に住むことになった。本人は、家賃がもったいないとか、自炊も面倒だとか言っていたけど、本当のところは心配だからだろう。就職先も、自宅から通えるところを選ぶらしい。

 私はまた、ちょくちょくお隣に遊びに行くようになった。

 おばさんと一緒に料理をしたり、庭にお花を植えたり、時には、ヤスくんと三人でゲームをしたりする。ヤスくんはやっぱり今でも、ゲームの達人だった。すごいねと褒めると、もう複雑そうな顔はせずに、「そうだろ」と楽しそうに笑う。

 それから、ヤスくんは就職活動、私は受験勉強の合間に、なんとなく二人で会うようになって、遊びに行ったり、勉強を見てもらうようになった。

 その幼馴染の延長のような、友達のような、微妙で曖昧な状態に変化が訪れたのは、私が大学に合格し、ヤスくんの就職が決まった時だ。

 ヤスくんは、ようやく意を決したように、赤い顔で言った。

「つ……付き合っちゃう?」

 ヤッちゃう? と言わないだけヤスくんは紳士だなあ、と今回は胸をドキドキさせながら私は思った。




 結構イケメンで、頭が良くて、とても優しくて、時々しょうもない親父ギャグのようなことも言ったりして、甘えたい時には私を「ムッちゃん」と呼んですり寄ってくるヤスくんは、昔から私の憧れの人で、今でもそうだ。

 スーパーヒーローではないかもしれないけど、大好きです。





次話より「康巳編」

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― 新着の感想 ―
[一言] なんて良いお話!泣けました。 ありがとうございました!
2021/03/01 04:08 退会済み
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