白
2×××年 トウキョウ
ぽつぽつと水色の空を彩る雲がゆっくりと移動していく。
時間の流れを気にしないようなその動きに、青年は小さく欠伸をする。
しかし、少し細めた深い藍色の瞳に明らかに雲とは違う物体が写り、青年は表情を固める。
それは、逆三角錐に切り取られた地底の地面を持った一つの島だった。
「………おい倉野!授業に集中しろ!」
「……はーい。」
めんどくさい気持ちを滲ませて青年は初老の教師に生返事を返す。
教室の端で小さな笑い声が上がったのをよそに、青年は頬杖をついて、分かり切った黒板の問題を見る。
だけど、あの島を見てしまうと、無意識に空っぽの隣の席に視線を移してしまう。
(あと……一年もないのか。)
心の中でそう思い、再びため息が出てしまう。
気になってしまえば、鎖のように思い出し、考えてしまう背中の違和感。
それを無理やり追い払うように、青年は覚えしまった教科書を読みだした。
ーーーーー
「せぇ~つな!今日ちょっと買い物いかね?!」
「え、あぁ、いいけど。」
「っしゃぁ!な、いいだろ光輝!」
クラスメイトの夢宮琉が、いつものように元気に話しかけてくる。
ちょうど何の用事もないことを覚えていた倉野刹那は、ついコクンと頷いてしまった。
すると、琉は大きな声でちょうど真向いの廊下側の席に座る少年に言葉を投げかけた。
数人のクラスメイトが琉の言葉に反応し、名前が呼ばれた少年の方に視線を向ける。
その視線にいたたまれなくなったのか、少年はバタン!と厚そうな本を閉じて二人のもとへずんずんと歩み寄っていく。
そして、15cmの差がある琉の脳天を軽く飛び跳ねて鉄槌を叩き込んだ。
「うるっさいんだよ。少しぐらい静かに喋れ。」
「くくくく……すんませーん!」
まったく悪びれない琉の態度に、水無月光輝は本日二回目の鉄槌を入れた。
そんな二人の様子を、刹那は小さく微笑みながら見ていた。
しかし、とばっちりが刹那に飛び火し、
「………刹那……お前、何笑って見てんだよ………」
「いや、面白いなって思って。」
「ふざけんなよ、こっちはこのだいだらぼっちに制裁加えてるだけだ!」
「ちょっ、だいだらぼっちはひどくね?!?!」
童顔の光輝がほほを膨らませて刹那を睨むが、当の本人には全く効かず、逆にちらほらと近くにいる女子達が光輝の顔を見て少し頬を赤らませている。
「…とにかく!刹那は行くって!だから光輝も行くだろ?」
「…………まあ。」
いったん場を沈静化させ、琉は統制をとる。
そして、光輝がしぶしぶという風に頷くと、琉が「よっしゃ!」と胸の前でガッツポーズをする。
だが、刹那はあることに気が付いて、二人に声をかけた。
「だけど、今日は午後まで授業あるし行く時間短くないか?」
「…………あ。」
「ほんと単細胞のバカだな。」
ふんっ、と小バカにした声で笑う光輝。
「うるっせー!そんなこと言うやつはぁ………ぐりぐりの刑~!」
「わっ!やめろ!やめろよっ!」
琉は両手でこぶしを作り、光輝のこめかみをぐりぐりとする。
光輝はそれから逃れようと逃げるが、琉が大柄な体つきを生かして阻んでくる。
そんなじゃれつく二人を見ながら、刹那は再び笑った。
「おーい、そろそろ席着けよー!」
「「「「「はーい。」」」」」
「あーい!」
「………。」
そこで次の講師が入ってきて、琉が手を振りながら、光輝は特に表情を変えず自分の席に帰っていく。
刹那はずっと席に座ったままだったので特に動く必要はない。ただ、癖のように窓の外の空を見上げる。
そして、空を見上げれば嫌でも目に入るあの浮遊島。
あれの名称を、【罪の牢獄】と言う。
ーーーーー
その日の帰り道。
学校から徒歩十分の住宅街にある家に住む刹那は、たった一人で路地を歩いていた。
結局今週の日曜日、つまり明後日に三人で買い物に行くことになり、事態はすべて丸く収まった。
琉は部活へ、光輝は少し前の曲がり角で別れたばかり。
もう幾何かあるけば家に着く。
そんな時、ふいにコンクリートの壁に貼られたポスターが目に入った。
【翼なんか消えろ!空なんて飛べなくていい!】
【あと一年だ!天翼なんていらない!】
きれいなイラストで描かれた天使の翼に赤いバツマークがでかでかと在る。
オレンジ色で記されたその言葉に、刹那は見て見ぬふりをした。
天翼人。
120年ほど前に現れた、背中に天使と見紛うばかりの純白の翼をもった人のことを、そう呼ぶ。
彼らは空を飛び、人によっては不思議な力を使うことができる。
まだ普通の人間の方が多いが、今や世界の人口の三分の一が天翼人である。
しかし、今、この世界に、天翼人は"いない"。
(…………早く、"月香"を……取り戻さないと。……)
浮遊島に捕らえられた、あの「最後の天翼」を持つ少女のことを思い出し、刹那は目を伏せた。
そして、家路を急ぐ。
まだ、日は沈んでいない。
家に帰ると、妹がダイニングで待っていた。
「おかえりーセツ兄!」
「ただいま、シロ。」
妹の倉野白半は、驚異的な胃袋を持っている。
机に積み上げられた数個のプリンのカップを見て、刹那は呆れて言った。
「あのなぁ……少し食費のことを気にしなよ………」
「だーいじょうぶ!これお小遣いから出してるしっ!」
「はぁ……」
楽しそうにプリンを食べる白半を横目で見ながら、刹那は荷物を近くに置いて妹の目の前に座る。
そして、横に置かれた白半のプリンを一つだけ取って、キッチンからスプーンを持ってきた。
「あああ!シロのプリンー!!」
「一個ぐらいいいでしょ………」
半泣きの白半を放置し、刹那は滑らかなプリンを一口ほおばる。
とろみのあるほろ甘さが口の中に広がり、刹那は表情を緩める。
その顔を見て、白半は瞳を絶望に染めた。
「ぷ、プリン四号…………」
「んま………」
綺麗に刹那の胃の中に納まった元・プリン四号の器を、称えるように掲げると、白半は大事そうに他のプリンのカップとともに横へ置いた。
刹那はそんな白半の姿を見て、小さく笑った。
ふいに、刹那の脳裏に、妹の"元の姿"がフラッシュバックする。
元は、いや、10年前までは、二人とも天翼人だった。
翼で空を飛び、一部の天翼人のみが使う不思議な力で遊んだりしていた。
光輝も、天翼人だった。白半は光輝にもよく懐いていた。
琉は普通の人間だったが、仲良くしてくれた。
「……ツ兄、セツ兄!」
「?!」
気が付くと、白半の顔が近くにあった。
刹那は少し目を見開き、白半の肩を押し返す。
「……あ、ごめんシロ。どしたの?」
「お、お母さん、今日は帰りが遅くなるからご飯先食べといてって言ってたよって………」
「そう。了解。」
プリンの容器はいつの間にか綺麗に片づけられている。
不思議そうな表情で刹那を見つめる白半。
唯一の妹の頭を、刹那はわしゃわしゃとかきまわして自室へ上がる。
残された白半は、ぐしゃぐしゃになった髪を手ぐしで撫でつけながら、赤くなったほっぺを隠した。
◇
10年前のこと。
いつも通りの生活を過ごしていた刹那や白半は、突然の出来事に固まってしまっていた。
何かから流れてくる音楽でも音声でもないのに、その言葉は耳に届いたのだ。