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遥かなる「夜」の都  作者: 神月 裕二
1/8

出会い

 ふと我に返ったとき、ぼくは「夜」の街の大通りに独り立ち尽くしていた。

 そして、ここは何処だと考えるよりも先に感じたのは、異様なほどの肌寒さであった。

 異様、と言うからには、単に気温の低さを問題にしているのではないことは、おわかりになるだろう。

 第一、このときの体感気温は、確実に初夏の夜のそれはあったのだ。

 では何故、全身が総毛立つような悪寒を感じたのか。

 それは、この街一帯に澱む不穏な気配の所為せいだ、とあとになってわかった。

 この街の空気は、もう何百年、いや何千年も凝然として動かず、その場に沈澱していたために腐敗してきている、そんな気さえした。それはもう、空気と呼べる代物ではなかった。

 瘴気――まさしくその通りだった。


 それにしても――

 自分の足音が反響するほどの静寂に包まれた街の大通りを歩きながら、僕はふと思った。

 ここは何処なのだ、と。

 自分が、どうやってここに来たのか、まるで覚えていないことにようやく気づいたのだ。

 ぼくは一瞬、自分が記憶喪失になった気がして、あわてて自分のプロフィールを頭の中で繰り返してみた。

 ぼくの名は、山本清一郎。よし、まずは大丈夫だ。

 それから、しがないフリーランスのライターである。つい最近まで、とある雑誌編集部で原稿をしこしこ書いていたが、入社十年目を機に独立した。と言えば恰好がつくのだが、実際、独立してからの生活費は、主にいくつかのアルバイトで捻出している情けなさだ。

 恋人は、なし。二年前に別れた。可愛らしい、二つ年下の女だった。

 残念ながら愛想を尽かされた次第で。しょぼーん。

 それはともかく、確かぼくは、久しぶりの仕事である、美人女優の失踪の謎を追って、はりきって仙台に向かっていた筈だ。

 もはや、金になるなら何でも、という事情がないわけではない。

 肩から吊っている鞄を開けると取材道具が詰まっていたし、ポケットからは仙台行きのチケットが出て来た。

 これで、どうやら完全に記憶を失ったわけではないことがわかった。何せ、車内販売の駅弁を買って喰っていた記憶まであるのだ。ただし、それ以降から今に至るまでの記憶が、きれいさっぱり消失していたが。

 奇妙な感覚に全身を支配されていた記憶は、微かだが残っている。

 何か、自分以外の何者かに身体を操られて、階段を昇り降りし、電車を乗り換えていた…。視界が白濁し、何も見えぬまま、ぼくはここまで来た。

 いや、連れて来られたのだ。

 結局、わかったのはこれだけだった。


 ――と、こんな所でうなだれていても仕方がない。ぼくは気を奮い立たせて、不気味な夜の街を歩き始めた。

 靴音がやけにこだまするのは、やはりそれ以外の音がないからだろう。

 ぼくは、どきどきしながら辺りを見回して通りを歩いて行った。やはり人はいないようだ。

 住宅の塀や生垣越しに部屋の中を覗き込むと、暗くて良くわからないが、生活の痕跡が窺える。

 いったい、ここに住んでいたであろう人々は何処へ消えたのか。この気味の悪い夜が明ければ、彼らは何処からともなく姿を現すというのか。

 こんなシャレにならない状況に放り込まれては、いくらジャーナリストの端くれだとは言え、取材欲よりも恐怖が勝る。

 エライことになってしまった。

 身体の芯から寒気が昇ってくるのを感じる。

 ぼくは確かに、一刻も早くこの場から逃げ出したくてしようがなかったのだが、盲滅法に走りまわって墓穴を掘るような馬鹿な真似だけはしなかった。というより、その度胸もなかったのである。

 この街は、人をして恐怖せしめる全てのものを備えていた。すなわち、未知なる存在と闇と静寂。

「――?」

 不意に、ぼくはある奇妙な光景を見出だし、その場に立ち尽くした。

 天を覆う夜の帳。

 それが、ぼくの前方と後方とでは濃さが異なっているのだ。前に行けば行くほど夜闇は濃密さを増し、文字通り漆黒と化していく。それにつれて、左右に居並ぶビルも硬質さを失い、闇の中に溶け込んでいるように感じられた。

 そのときぼくは、突如、地面さえも安定を欠いて波打つような幻覚に襲われた。

 その幻覚はすぐにおさまったのだが、額が冷や汗にびっしりと埋め尽くされているのに気づき、ぼくは愕然とした。それほど、底知れぬ恐怖を感じていたのだ。

「――!?」

 その場にしゃがみ込んで気を落ち着かせていたぼくの視界の隅に、それが現れたのはそれから数秒ほど経ってからだった。いや、最初から存在していたのに、ぼくが気づかなかっただけかも知れない。

「なんだ…?」

 ぼくは息を整えつつ、それを見つめていた。

 直径十センチ程度の暗黒の穴。それが縁に青白い燐光を帯びて、膝くらいの高さに浮遊しているのだ。

 穴の数は三つあった。

 穴は、ぼくのまわりを依然としてふわふわ漂っている。

 思わずぼくは喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。

 ごくり、という音がやたら大きく聞こえたのは、この静けさの所為か。

 穴は、何らかの意志があるように思える。

 お化けかと思った。

 いや、おそらくそうだろう。が、ぼくにはそれほど恐いものには思えなかった。

 何故だかわからない。恐怖の感覚が麻痺していたのかも知れない。とにかく、ぼくにはその穴――お化けが、人に取り憑いて呪い殺すような存在には見えなかったのだ。

 だから、ぼくは恐る恐るではあるが、その穴に手を伸ばしたのである。穴というからには、その内側に何があるのか。

 ふふっと、ぼくは震えた笑みを浮かべた。

 穴の一つが、ぼくの伸ばした指のすぐ先に漂って来て止まった。まるで、ぼくの意志を感じとったかのように。

 指先が、穴の放つ光に青白く照らされるのを見て、再びぼくが恐怖まじりの笑みを浮かべたとき、すぐ右手から若い男の声がした。

「――そいつに手を出さないほうがいい」

「え――?」

 わけがわからず、ぼくは声のした方向を振り向いていた。その瞬間だった。突如、その燐光を帯びた穴が、その内側から攻撃的な音を発した。


 キキキキ…!


 それは、哭き声のように思われた。

 やはり何かいるのだ、この穴の内側に…!

「――!?」

 ぼくは見た。

 一瞬の内に、穴は十倍近い大きさに成長し――そう、まさしく成長したのだ!――ぼくの眼の前に浮かんでいた。

 そして、その穴から出て来たものがあった。

 おお、その凶々しき姿形、毒々しい体色、凄まじい臭気。

 この世のものと思えぬ造形が、


 ずるり、ずるり…


 と穴から這い出て来る。

 巨大なイモ虫にも見える醜悪な造形物が、ひり出されてくる。

 その頭部は直径が一メートル程の円になっており、その周囲には二十本ほどの蛸の足のような触手が並び、真ん中に真っ赤な色彩の口腔が開いている。


 しゅう、しゅう…


 そいつは触手を不気味に動かし、吐き気を催す色の胴体を、ゆっくりとくねらせて穴から這い出て来る。

ぼくは何とか伸ばしていた腕は引っ込められたが、それきり凍りついて動けなくなった。

奇怪な生物が触手を伸ばして、ぼくの顔を、手を足をひたひたと愛撫していく。

 その化け物の全身は、ぬらぬらと輝く気味の悪い粘液にまみれていた。

「た、助けて…く、れ…」

 ぼくはようやく、それだけのことを口にすることが出来た。涙が止めどなく流れる。

 死ぬのか。ああ、ぼくは、こんなわけのわからない所で、誰にも知られずに死ぬのか…こんな、この世のものと思えぬ生物に喰われて。…喰われるのか…いやだ…死にたくない…。もっと…生きたいんだ…。


 ギィ…!?


 化け物が声を上げた。すると、全身に絡みついていた触手が、一斉にぼくから退いていく。何が起こったのかわからぬまま、ぼくは粘液でベトベトになって、その場に力なく座り込んでしまっていた。

 化け物は、明らかに警戒していた。そしてぼくの右手の方向に顔――触手の間に見える幾つもの赤い光は眼だろうか――を向けていた。

 その数メートル先に、漆黒の影がある。

「不用意に近づくからこうなるんだ」

 こんな美しい貌をした若者がこの世にいるのか。

 ぼくはぼんやりと彼を見つめたまま、彼の冷たくも美しい声を聞いていた。

 若者は黒のスラックスと白のシャツに身を包み、左手に一振りの長剣を持っていた。

 それが、ぼくと彼の出会いだった。


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