第8話 三島由紀夫のノート
私は大きく頷いた。
だからこの人は、三島由紀夫の著書を図書館で山積みにしていたのか。市立図書館でも同じように遭遇したのは、そのためだったらしい。
「そうだったんですね。あたしてっきり、先生が新手のストーカーか何かだと思ってました」
失礼な言い草だが、本当のことだから仕方がない。
ごめんなさい、とふたたび謝ろうとしたところで意外な答えが返ってくる。
「まあ、そんな部分もあります」
「ふぇ?」
今日も変な声が出てしまった。
「最初に大学の図書館でもえさんをお見かけした際、綺麗なアキレス腱に一目惚れしたことはお伝えしましたよね」
「え、ええ」
アキレス腱だけか! とつっこむのはなんとか我慢する。
「バスケもやってらっしゃるということで、明らかに動けそうな人だったし、僕が机に広げた三島由紀夫の写真を興味深そうに眺めてらしたのも、印象に残っていました。ですから、ひょっとしたら同じように三島由紀夫について何か調べている学生さんかな、と。あ、だからといって、本当にストーカー行為をした訳ではありませんよ。取材を続けているうちに、またどこかで会えるといいな、と思った程度です」
それが次の日、市立図書館で早くも出会えてしまった、ということらしい。そうなるとますます気になり、アシスタントを頼むのは「あの綺麗なアキレス腱のお嬢さん」しかいない、となってバスケ部の練習へ私を探しにきたら案の定……というわけだった。
「ふーん。なるほど」
まったく面識のなかったこの先生に、二日間で三度も遭遇した理由をやっと理解した私は、さっきの会話で気になったことを思い出した。
「あれ? ていうことは、三島由紀夫って筋トレ好きだったんですか? 今も、僕が広げていた三島由紀夫の写真、とかって……」
「ええ。その通りです。さすがは親愛なるアシスタン――」
「親愛はいりません」
「はは、失礼」
なんだか、お約束のやり取りになりつつある気がする。不本意な顔をしている私に微笑みながら、深身先生は続けた。
「三島由紀夫が一九五五年頃から、ボディビルにはまっていったのは有名な話です。作家として既に名を成してはいましたが、彼は元々病弱で色も白く、子供の頃にはアオジロなどというあだ名を付けられたほどでした。大人になってもそれは変わらず、親交があった俳優の美輪明宏と社交ダンスをした際に、〝あらパットパット、三島さん行方不明だわ、どこ行ったの?〟と、肩パットしか手に触れないほどの貧弱さを、からかわれた逸話もあるほどです」
そういえば、大学の図書館でそんな話もされた気がする。
「自身もそんな肉体にコンプレックスを持っていたそうですが、W大学バーベルクラブの主将を紹介してもらったのをきっかけに、ウエイトトレーニングに取り組み始め、持ち前の集中力というか凝り性を発揮して、すぐにたくましい肉体へと変貌を遂げて、逆に数々のグラビア写真も残すほどになりました。まあ、有名な物の多くが日本刀を構えているのは、いかにもですが」
苦笑している深身先生を見ながら、私は図書館の閲覧机に並べられていた何枚もの写真を思い出していた。
たしかにふんどし姿で日本刀を構えているものが多く、すべて同じ人物だった。くっきりした眉に広い額、意志の強そうなぎょろりとした目。歌舞伎や時代劇にでも出てきそうな、なんというか「濃い」顔と雰囲気。あれが昭和の文豪、三島由紀夫本人だったらしい。
「たしか右翼の人で、切腹したんでしたっけ?」
私だって、それくらいは知っている。
「まあ、乱暴に言ってしまえばそういう感じですね」
先生は苦笑したまま続けた。
「ただ、エキセントリックな言動やその最期ばかりが知られていますが、小説家としては純粋に凄いと思います。使い古された言い方かもしれませんが、美しい日本語を紡ぐ天才肌の文豪でした。お借りになった『金閣寺』はもう読みましたか?」
「あ、まだです」
市立図書館で借りる様子も、しっかり見られていたらしい。
「『金閣寺』は三島文学の一つの到達点とされる世界的名作ですが、あれを書き上げた頃が、ちょうどボディビルを始めた頃なんです。言わば、身体を鍛えることで文体も鍛えられたというか、何がしかの相乗効果があったことはたしかです」
「へえ」
どうやら深身先生は、作家としての三島由紀夫は結構好きなようだ。それにしてもライターだけあって、さすがによく知っている。話を聞いているうちに、私も『金閣寺』を読むのが楽しみになってきた。
「で、今回調べるのはその三島さんの、トレーニング記録なんですよね?」
「ええ。どうやら彼のトレーニングノートが、現存しているらしいんです」
「トレーニングノート?」
「はい。トレーニー、トレーニング好きの人たちをこう呼ぶのですが、特にボディビルダーやパワーリフターは、自身のトレーニング記録をとても大切にしています。トレーニングの成果を確認するのはもちろん、何キロの重さで何回、何セットトレーニングしたか、体重は何キロか、といったことを克明に記すことでコンディション管理も容易になるからです」
「なるほど」
そういえば大学のトレーニングルームでも、重りを付けまくってロールケーキみたいになったバーベルでトレーニングするかたわら、ちまちまと可愛らしくノートを付けているお兄さんを見かけることがある。パワーリフティング部、とかいう部活の存在を聞いたことがあるが、あれがそうなのだろう。
「三島由紀夫に関しても、そもそもの動機がひ弱な肉体の改善だった訳ですし、通っていたジムも典型的なボディビル・ジムだったことがわかっていますから、間違いなくトレーニングノートを付けていたはずです」
そこまで言われて、はたと気がついた。
「ま、まさか、あたしに内部取材しろっていうジム、そのボディビル・ジムですか!?」