第7話 深身事務所
翌日。私はさっそく深身先生の事務所とやらへ赴いた。
教えてもらった住所は大学とさほど離れておらず、同じ路線で二十分ほどのところにある、ごく普通のマンションだった。
迷うこともなく目的地に辿り着き、『深身事務所』というなんのひねりもない名前が記されたポストを確認して、インターホンの機械に部屋番号をプッシュする。
「はい、いらっしゃいませ! 深身事務所です」
事務所というよりは飲食店のような、愛想のいい声が聞こえてきた。間違いなく深身先生の声だ。
「こんにちは。早坂です」
「おお、もえさん。いらっしゃい。五分前行動とはさすがですね。ちょっと待って下さいね。今、シャワーを浴びてパンツを履いているところなので、急いでエントランスを――」
「急がなくていいですっ!」
今日ものっけから天然セクハラ発言である。この人、アメリカにでも住んでたらすぐに訴えられるんじゃないだろうか。
呆れながらそんなことを思っていると、ピーッという電子音がして目の前のガラス扉が開いた。深身事務所は三階だったので、エレベーターを使わずに階段でさっさと上がってゆく。
せっかちな性格もあって、私は普段からよほどの高層階でなければ、エスカレーターやエレベーターは使わない。デパートとかでも七階や八階は十分に許容範囲なのだが、一緒に歩く友人たちには、「この筋トレ大好き女子!」としばしばブーイングを受けている。
こちらからすれば、ダイエットだの何だのを気にする彼女たちこそ、そうするべきだと思うのだけど。
ともあれドア脇のインターホンを押すと、すぐにのんびりした返事があった。
「どうぞ、開いてますよー」
無用心なのか、それとも私のためにわざわざ開けておいてくれたのかはわからないけど、たしかに鍵はかかっていなかった。が、
「おじゃましま……きゃっ!?」
ドアを開けた瞬間、珍しく女子っぽい(?)悲鳴を上げてしまった。
「な……」
「なんなの、これ?」と続ける前に、奥の部屋からふたたびリラックスした声がする。
「あー、すみません。邪魔でしたか、阿吽像」
「アウンゾウ?」
目の前にあるのは、筋骨隆々とした二体の仏像だった。いずれも人間大の立像で、かなりの大きさだ。ドアを開けた瞬間こんなのに出迎えられたら、誰だってびっくりするだろう。
「それ、目黒不動にある阿吽像のレプリカなんです」
さらなる声で我に返り、アウンゾウが「阿吽像」のことだということだけは、なんとか理解した。
「はあ」
「目黒不動の仁王門に奉られている阿吽は、吉備国際大学名誉教授の窪田登先生がモデルだそうです。ウエイトリフターとしてローマオリンピックにも出場した、若かりし日の窪田先生の見事な肉体を参考に――」
「先生、入ってもいいですか?」
気を取り直した私は、奥の部屋から流れ続ける薀蓄を冷静に遮った。出会って間もないにもかかわらず、度重なるセクハラ&マイペース発言にさらされたお陰で、この変人の対応に慣れてきている自分が少し悲しい。
「あ、失礼しました。どうぞどうぞ。スリッパはそこにあるのを、適当に使って下さい」
言いながら、深身先生が廊下の奥からやっと顔を覗かせる。ぼさぼさの髪が少し濡れているので、本当にシャワーを浴びていたようだ。
けれども部屋の入り口まできたところで、私はまたしても固まってしまった。
「失礼しま……す!?」
深身先生はたしかに、いる。今日はラフなジーンズ姿だが、相変わらずのぼさぼさ頭と冴えない縁なし眼鏡で。
ただ、周囲の空間が完全に想定外だった。
「あの……ここ、事務所ですよね?」
思わず確認してしまったのも当然だ。
二部屋をぶち抜いたっぽい、予想以上に奥行きのある空間には大型の棚が何列も並んでおり、壁際にも大小のキャビネットがずらりと置かれていた。
しかも棚の各段には本や書類だけでなく、怪しげな健康食品(だと思う)や、何に使うかさっぱりわからない、奇妙な形の道具などがずらりと陳列してある。事務所というより、倉庫と呼ぶほうが明らかに相応しい。
「ええ。我が深身事務所の、れっきとしたオフィスですよ。ようこそ、親愛なるアシスタントさん」
「親愛はいりません」
すげなく拒絶の意を示しつつ、私は雇い主に向かい合った。部屋の八割を棚とキャビネットに占拠された端に、申し訳程度に小さな応接セットが置かれていて、深身先生はそのさらに後ろにある給湯スペースに立っている。
「はは、相変わらずつれない人ですねえ。まあ、どうぞおかけ下さい。ちょうどお茶が入るところですから」
そう言いながら背中を向けて、何やらごそごそとやり始めると、途端にコーヒー豆のいい香りが漂ってきた。さらに、シュッシュッという蒸気が噴き出すような音も。
おや、と思ってから二、三分と経たないうちに、私の目の前に温かいマグカップが差し出された。
「わ、美味しそう!」
マグカップの表面にはきめ細かなフォームドミルクが乗っており、文字通り乳白色のそのキャンバスに、エスプレッソが美しい焦げ茶色の渦を描いている。
好物であるカプチーノ、それも明らかに美味しそうな一杯を出されて思わず素直な声を上げてしまった私は、照れ臭さをごまかすため、「いただきます」と慌てて口をつけた。
「美味しい!」
お世辞抜きに、それは見事な味だった。香ばしいエスプレッソと優しいミルクの風味が絶妙なバランスで、下手なカフェなんかより間違いなく美味しい。はっきり言って、お金を取れるレベルである。
「お口に合ったみたいで、何よりです」
淹れた本人も嬉しそうに目を細めている。なんだか少し悔しいが、美味しいものは美味しいのだから仕方がない。それにしても、この変人先生にこんな特技があるとは思わなかった。
「先生、バリスタか何かやってたんですか?」
「まさか。でも、こういう商売ですからね。仕事がないときは、ひたすら事務所でコーヒーを淹れてるんです。そうしたら、ドリップの技術ばかり上手になってしまって」
それはつまり、この事務所があまり繁盛していないということではないのか。私のバイト代、大丈夫だろうか。
マグカップを両手で抱えながら割と本気で心配していると、視界の片隅にふたたび、棚の一部が映った。
ていうか、そもそも深見先生って本当にライターなのかしら?
周囲の怪しげなグッズの山はなんなのだろう。まさか、執筆料を別の物で現物支給されてる、なんてことはないだろうけど。
「それらは取材対象物や、仕事の過程での戦利品みたいな物です。たとえば新しい健康グッズを売り出したい企業さんから、広告の文面を依頼されたりとかもするんですよ」
こちらの視線だけですべてを読み取ったらしく、深身先生は優しい口調でそう教えてくれた。何だか心を読まれたみたいで、ちょっと恥ずかしい。
「他にも色々な戦利品が残るんですが、その物に相応しい持ち主、お譲りするに値する人物が引き取りを希望されてきた際は、ご相談に応じさせていただいてます」
ようするに、ライター業をしつつ手元に残った品で骨董屋まがいの商売もやっている、ということらしい。わかったようなわからないような感じだが、いずれにしてもやはり――。
「うさんくさい」
またしても声に出てしまった。
「はは、よく言われます」
「あ、ごめんなさい。でもなんて言っていいのか、よくわからなくて」
「いえいえ」
変人とはいえ、今や雇い主であることはたしかなので私は素直に謝った。
「それで、今回は筋トレに関する記事なんですか?」
昨日、先生はそんなことを言っていた。だから運動の苦手な自分に代わって、私にどこかのジムを内部取材して欲しい、とかなんとか。
「ええ。特にある人物のウェイトトレーニング記録について、調べているんです」
「ある人物?」
問い返すと同時に、脳裏に深身先生と初めて出会ったとき(といってもたった二日前だが)の記憶が甦る。
「それって、ひょっとして……」
「はい。三島由紀夫のトレーニング記録についてです」