第4話 バーベル工場の娘
漫画やアニメにはさほど詳しくない私だけど、似た名前の有名作品のことは知っていた。
たしか新宿に住む、一見軽薄だけどじつは凄腕の「都会の掃除屋」が、依頼人の美女を救いながら活躍するハードボイルド・ギャグストーリーだ。
だからって、ねえ……。
それとよく似た名前――いや、実際に元ネタなのだろう――を冠された、トレジャー・ハンター? それもスポーツやフィットネス専門の? そんな人がはたして、本当にいるものだろうか。
妙な噂もあったものだと、アカネちゃんから聞かされた話を思い出しながら、私は市立図書館の入場ゲートを通り抜けた。大学では思わぬ邪魔が入ったものの、三島由紀夫作品の一つや二つ、ここならば置いてあるだろうと次の日にやってきたのである。
それにしても、と思い返してまた少しだけ腹が立ってくる。
あの変態眼鏡(イケメンと認めるのも腹立たしいので、こう変更した)に、セクハラまがいの言動を受ける羽目になったのも、もとはと言えば、あいつ自身が三島由紀夫の本を独占していたからに他ならない。そのくせ作品について何か調べるでもなく、ボディビルの写真を広げているのだから始末が悪い。
ああ、やだやだ。
軽く頭を振り、気を取り直して書棚へと向かう。
が、数十秒後の私は、昨日とまったく同じシチュエーションに陥っていた。
「おや、こんにちは。綺麗なお嬢さん」
「!?」
振り向くと、デジャヴのようにあの変態眼鏡が立っている。
「奇遇ですねえ。あ、ひょっとしてあなたも――」
「…………」
「あ、あれ?」
反射的に兵隊ばりの回れ右をした私は、さっさと逆方向へ歩き出していた。
スルーよ、スルー。そうよ、最初っからこんな変態、相手にしなければよかったんだわ。
さいわい《三島由紀夫》と書かれたブックスタンドのそばまで来ていたので、吟味することもなく適当に『金閣寺』という背表紙を手に取り、棚の反対側を回り込んで貸出カウンターへと向かう。視界の隅にぽかんと立ち尽くしている変態眼鏡の姿が映ったが、もちろん目を向けたりはしない。
「なんなのよ、あいつ! まさかストーカー? だったら、もうちょっと小綺麗な格好しなさいよ。……って、べつにストーカーに小綺麗な格好されても、嬉しくもなんともないけど」
変態眼鏡は明らかに年上っぽいものの、リスペクトの欠片も抱けなくなっていた私は、悪態を呟きながら市立図書館をあとにした。
その後、大学へ行って一コマだけ講義に出席し、バスケットシューズを履いて体育館に足を踏み入れる頃には、私の機嫌もすっかり直っていた。今日は二日ぶりとなる部活の日だ。思う存分身体を動かせるのは、やっぱり嬉しい。
「もえちゃん、今日はこのあとウエイトもやる予定なの。アカネちゃんと一緒に他の一年生のフォーム、見てあげてくれる?」
「はい、わかりました!」
ウォーミングアップ中、キャプテンから受けたそんな依頼も二つ返事で承諾した。
活動日数こそ少なくても正式な部活動、我がチームはウエイトトレーニングもしっかり行なっている。そして私はこう見えて、そのウエイトトレーニングがなかなか得意なのだ。二十歳の女の子としては、いばる部分ではないのかもしれないけど。
「でも、もえ先輩、バイト先ではフロントやってたんですよね」
キュッキュッと小気味よくシューズの音を鳴らしながら、アカネちゃんが笑っている。
「そうなの。本当はジムのスタッフやりたかったんだけど」
「もえ先輩が美人だからですよ」
「何言ってんのよ」
苦笑した私だが、かつてのアルバイト先であるフィットネスクラブでは実際に同じようなことを言われてしまい、結果、実際にフロント業務を担当していたのである。
そもそも応募した時点でジムスタッフを希望していたのに、フロントチーフだというやたらと綺麗な女子社員さんから、「早坂さん、美人だしフロントやってくれない? 足りてない人数が落ち着くまででいいから。ね、お願い!」と頼まれてしまったのだ。リップサービスだとはわかっていたけど、本物の美人に頭を下げられてはさすがに無下には断れなかった。
それにスタッフは部署に関係なく、勤務時間以外はジムやプールを自由に使っていいということだったので、まあどこでもいいか、と思いつつ一年ほど勤務していた。居心地も良かったけれど、二年生になって授業の時間割が変わったこともあり、そのフィットネスクラブは惜しまれつつ(本当だ)辞めてしまった。そろそろ何か新しいバイトを探さなくては、とも思っている。
「もったいないなあ。トレーニング、あんなに上手なのに」
「ありがと。アカネちゃんだって、相当だけどね」
「でも私、まだチンニングはできませんから。スクワットだって、もえ先輩のほうが綺麗だし」
完全に女子力ゼロの会話である。
ちなみにチンニングというのは、いわゆる懸垂のことだ。私も一、二回程度しかできないが、男性でも一回もできない人は多いらしい。
アカネちゃんの彼氏に言わせると、「懸垂ができるかどうかはアスリートとしてのバロメーター」だそうで、ついでに「懸垂が上手い女子アスリートはもてる」のだとか。それを直接聞かされたアカネちゃん本人は、「もてない女の子で悪かったわね」とむくれたらしいけど。
そんな女子力に乏しい集団によるバスケ練習が終わり、私たちは体育館内にあるトレーニングルームへと移動して、ウエイトトレーニングに取りかかった。
「うん、そうそう。膝と爪先の向きを揃えて。内股になると、膝を痛めちゃうから」
「はい」
「OK、上手! ほら、これってディフェンスするときの姿勢でしょ? だからトレーニングもバスケの動きに繋がるの。よし、もう一回、一緒にやってみよっか」
「はい! ありがとうございます!」
さっそく一年生にスクワットのお手本を見せていると、他のチームメイトまで集まってきてしまった。
「ほんと、もえのスクワットは綺麗よね」
「うん。お尻が出てて、胸もしっかり張ってて」
「そうよねえ。スクワットのときだけじゃなくて、本体もそうなってれば――」
「そこ! 聞こえてるわよ!」
余計なお世話としか言いようがない感想を述べている同級生たちに向かって、私はバーベルを担ぎながら抗議した。彼女たちの後ろで、同じように自身の同級生につきっ切りになっていたアカネちゃんも、こっそり口を押さえている。まったく。
「でもさ、おっぱいが小さいのはまあしょうがないとして、なんでもえがもてないのかしら?」
「そうよね。黙ってれば美人だし、トレーニングは上手いけど、別に腕や脚が太いわけじゃないし。胸はアレだけど、ほら、貧乳は正義って言うもんね」
「ちょっと、先輩たちまで人が気にしていることを――」
バーベルをラックへと戻し、自他ともに認めるその薄い胸を反らして抗議を試みると、逆にさらなる追い討ちをかけられた。
「でも、さすがはバーベル工場の娘よね」
「ほんとほんと。お皿の代わりにプレートに乗ってご飯が出てくる家は、やっぱ違うわ」
「そんなわけありませんっ!」
まわりの一年生まで、完全に笑いをこらえている。
そう。何を隠そう、私の家『早坂鉄工所』は、バーベルをはじめとする鉄工製品を製作する工場なのである。
母は幼い頃に亡くなったが、社長である父は今でも、みずから職人として元気に腕を振るっている。儲かっているかどうかはよくわからないけれど、なんでもうちのバーベルは「世界のハヤサカ」とまで言われるほどの物らしく、オリンピックのウエイトリフティング競技に正式採用されたりもしているらしい。
とはいえ、単なる下町の町工場であることには変わりないので、バーベル以外にも公園のすべり台やバケツなど色々な商品をつくっているみたいだ。私自身、子どもの頃からバーベルに親しんでいたというわけじゃないし、当たり前だけど、ご飯が2.5kgとか5kgと彫られたプレートに乗って出てくるなどということもない。というか、そんな家庭があったら大変である。
「大体、あたしが筋トレを教わったのは高校からっていつも――」
毎度ながらの抗議も重ねようとした瞬間。
視界に見覚えのある影が映った。
「!?」
「ん? どうしたの?」
悔しいけれど、人を「貧乳」呼ばわりするだけのことはある同級生が、立派な胸を揺らしながら私の視線を追う。彼女が振り返った先、トレーニングルームの入り口に立っているのは――。
「あれ? フカミ先生だ。こんにちはー!」
同時に、アカネちゃんの元気な声も背後から聞こえてきた。
「あ、ほんとだ! こんにちは、フカミ先生。どうしたんですか?」
「セン……セー?」
目をむいて固まっていた私は、ますます呆然とするしかなかった。