第34話 もえさん
「おお、ずいぶん早かったな。やっぱり深身先生に会いたくて――」
「違いますっ!」
息を切らしながらダイニングキッチンに飛びこんだ私は、呑気にはんぺんを口に運ぼうとしていた父の声を即座に否定した。深身先生とは別のタイプのマイペース男で、しかもスキンヘッドで筋肉ダルマのこの人が、皇族の血を引いているとはとても思えない。まあ、自分も人のことを言えた義理ではないけど。
「お帰りなさい、もえさん。お邪魔しています」
今度は父の対面から、ちくわぶを箸に挟んだ縁なし眼鏡が振り返る。相変わらずのへらりとした笑顔で。
「あ……た、ただいま帰りました」
なんと答えていいものかわからず、帰還兵のような言葉を口にしてしまった。何を言ってるんだ、私。
「どうです、もえさんもご一緒に?」
「ど、どーも」
これでは、どっちがお客さんだかわからない。毎度ながら完全にペースを握られている。
「おや、少しお疲れ気味ですか? なんだか元気がないようですが」
いや、あんたのせいだろ!
とっさに脳内で反応したお陰で、ようやく私は自分を取り戻すことに成功した。
「ていうか先生、なんでここに?」
「今日はお父さんに、お呼ばれしまして。バーベルの取材ではないですよ」
「いや、そうじゃなくて!」
「?」
眼鏡の奥の瞳がきょとんとしている。以前も思ったけど、この表情はなかなか可愛くて母性本能をくすぐられる。
……っと、いけない、いけない。
気を取り直し、できるだけ真面目な顔をつくって告げる。
「一昨日も言いましたけど、あたしになんてつきまとっても、なんにも――」
しかし私の台詞は、父の横槍によってあっさりと遮られてしまった。
「なんだ、深身先生。あんた、うちの娘につきまとってくれてんのか。いいぞいいぞ、こういうのが好みだったら、俺が許すからいくらでももらってくれ。血筋はいいし、バーベル担ぐのも上手いからな。自分で言うのもなんだけど、お薦め物件だ。わはははは!」
「なっ……!? ちょ……何言いだすのよ!」
慌てて抗議するも、当の深身先生は微笑しているだけである。いや、なんとか言いなさいってば。
「なぁに言ってんだ、お前もまんざらでもねえくせしやがって。飲んでもいねえのに、赤玉パンチみてえな色になってるぞ」
「し、知らないわよっ! それ以上変なこと言うと、父親だろうが社長だろうが皇族だろうが、セクハラで訴えるわよ! ていうか、赤玉パンチってなによ! 死語か! 昭和か!」
完全に動揺させられた私は、わけのわからない捨て台詞を吐きつつその場から逃げ出した。戦略的撤退というやつだ。多分。
「なんなのよ、もう!」
とりあえずガレージに逃げてきた私は、ぶつぶつと文句を言いながらも、
さて、これからどうしようかしら。
と考えていた。何食わぬ顔であらためて母屋へ戻るか、それともこのまま、ほとぼり(?)が冷めるまでどこかに出かけるか。さいわい財布とスマホだけは、ポケットに入っている。
仕方がない、と後者を選択することにして足を踏み出しかけたところで、母屋のほうから大きな声がした。
「待ってください、もえさん」
ぼさぼさ頭に縁なし眼鏡。よれよれのジャケット。でも、顔にはいつもの優しい微笑。
深身先生は早足で、開けっ放しのガレージへと入ってきた。
「せっかく会いにきたんですから、どこかへ行ったりなんてしないでください。ね?」
「…………」
だからその天然イケメン台詞は、やめなさいってば。
何かを言おうとしたものの、予想を裏切らない、そしていつもとなんら変わらない姿と言葉に、つい毒気を抜かれて苦笑してしまっていた。
「どうしたんです、もえさん?」
まただ。今度は無自覚に母性本能をくすぐる、きょとんとした表情。やれやれ。
仕方なく、今さら気づいた別のことを訊いてみた。
「普通に呼ぶんですね」
「え?」
「私の呼び方です。いつも通りなんですね」
「?」
「いや、だから、その……萌子さんとか、萌子様とか言い出したり、急に敬語になったりとか、しないんだな、って」
深身先生は、ああ、という表情で頷いた。
「そのほうがいいですか?」
「え?」
「僕はもえさんのことを、出会ったときから一度も、萌子さんとか、ましてや萌子様なんて呼んだことないじゃないですか。そもそも、そう思ったためしがありませんし。まあ、敬語というかこんな喋り方は、誰に対してもそうなる癖のようなものですけど」
言われてみれば、たしかにそうだ。むしろ初対面から、天然セクハラ発言を連発されたっけ。
それと、もう一つ。
深身先生は今回のクライアントが宮内庁だという事実を、なかなか私に明かさなかった。いや、明かさないようにしてくれた。守秘義務だなんてきっと嘘だろう。今の私はなんの関係もない身の上だけど、だからこそ私の耳に「宮内庁」なんていう単語を、できるだけ入れないようにしてくれていたのだ。
『フィットネス・ハンター』は、やっぱり優しい。
「今さらもえさんに対して、血筋に合わせたおかしな敬い方なんて、やれと言われてもできませんよ」
また呼んでくれた。「もえさん」と。
慣れているはずなのに、いつもと変わらない呼び方なのに、それがとても嬉しい。
「僕にとって、あなたはずっと早坂もえさんですから。大切な」
「!! た、大切なって……」
「あ、いや、その、大切なうちの学生であり、アシスタントです、はい」
少しだけ、ほんの少しだけ、いつもの微笑がはにかんだように見えるのは、気のせいだろうか。いや、きっと気のせいだ。そう思わないと、私のほうがますます赤くなってしまう。少し暗いガレージのなかで助かった。
などと考えた刹那、深身先生が一歩踏み出した。こちらを真っ直ぐに見つめてくる。
「ですから、もえさん」
「ひゃ、ひゃい?」
まさか。
「今さらですけど」
まさか、こんな場面で。
「あらためて、僕の」
いや、ちょっと。
「僕のそばにいて」
こっちは、心の準備が……。
「助手として、頑張ってくれませんか?」
「ふぁい!?」
…………。
時間が数秒、止まった気がした。
「どうです? アルバイト代は据え置きで、引き続き何か調査の案件が入るごとに、お手伝いしてくれませんか?」
毎度お馴染みのへらりとした笑みが、私の顔を覗き込んでくる。
「な、何よ! もう!」
「え?」
顔が熱いままではあったけど、私はなんとか気を取り直した。仕方ない。これが『フィットネス・ハンター』、深身公人先生なのだ。
「わかりました」
ふたたびの苦笑とともに、大きく頷いてみせる。
「先生のほうこそ、私の大切な雇い主ですから!」
早口で伝えた私は、眼鏡の奥にある瞳を頑張ってまっすぐに見つめ返した。
Fin.




