第32話 もえ
「先生、本当に良かったんですか?」
『クロキ・スポーツクラブ』からの帰路、並んで歩きながら私は問いかけた。わざとらしい言い方をしていたけど、どう見てもあのノートは本物だろう。
しかし返ってきたのは、まるで答えになっていない答えだった。
「もえさんは、好きな男の子に振られたことはありますか?」
「ふぁい!?」
たしか最近も「好きな人」という単語を誰かに投げかけられたような気がする。しかもそのとき、なぜか頭に浮かんでしまったのは……いや、それはどうでもいい。
「急に何言いだすんですか! ていうか、セクハラ発言ですよ! いつも以上のセクハラです!」
「なるほど。多少なりとも経験がある、と」
「あ、あって悪いか!」
まるで噛み合っていない会話にもかかわらず、つい白状してしまった。
たしかに、ちょっぴり「格好いいかも」と思っていた同級生の男の子が、自分などよりよっぽど可憐な、レースのひらひらがついたスカートなんぞが似合いそうな彼女を連れて歩いているのを見て、思わず凹んだことはある。中学生の頃の話だけど。
ほろ苦い記憶に赤面しているこちらにはお構いなしに、深身先生はますます噛み合わない台詞を発し続ける。ただ、よく見るとその表情は、遠くを優しく見つめているようだった。
「どこの世界に、自分のトレーニングノートにお見合いの記録、それも成立しなかった、言わば振られたお見合いの記録なんぞをつける人がいるものですか。トレーニングを知らない人、身体を鍛えることの素晴らしさを知らない人ほど、そういう突拍子もない色眼鏡でトレーニーを見たりするものですよ。少年時代に“アオジロ”とまであだ名された反動もあって、瞬く間にボディビルにのめり込んだ、あの三島由紀夫がそんなことをするわけないでしょう」
「先生……」
「人の恋路を邪推するような人は、馬に蹴られなくてもバーベルに蹴られますよ。ははは」
この人は、やっぱり優しい。
「仮にあれが本物で、三島由紀夫の遺言……と言ってはなんですが、玉置さんに残した言葉通り、受け取るに相応しい人の下に辿り着いたとします。だとしても、その人の気持ちもだってありますからね。そもそも何をもって〝受け取るに相応しい〟って言えるんでしょうか。血筋でしょうか。育ちでしょうか」
そうじゃない。
いつか、深身先生は言っていた。道具は、道具だと。人は、人だと。色眼鏡で見ず、ストレートに触れ合うことこそがその道具、その相手にとってもきっと幸せなことなんだと。
「血筋も育ちも、関係ありませんよね」
私を安心させてくれるいつもの微笑で、先生が振り返る。
「もえさんなら、誰よりもよくわかると思います」
不思議と驚かなかった。
やっぱり、と思った。
この人は、深身先生は、すべて知っていたんだ。
私のことを。
本当の私を。
「……いつからですか?」
「あのハヤサカのお嬢さんだとわかったとき、すぐに。スポーツ業界は狭いですから。世界的バーベルメーカー、早坂鉄工所の初代のご夫人が、やんごとなき血筋のお方だったというのは、知る人ぞ知る話です。お孫さんがこんなにトレーニングの上手な、素敵なお嬢さんだとまでは知りませんでしたが。ただ、あの口ぶりだと玉置オーナーも気づいていたようですね。ついでに『盾の会』の末裔を自称する二人も。彼らがもえさんを勧誘したのは、それもあると思います」
たしかに、と納得する。だからカレンさんは私を「宝物」とまで言ったのだろうし、タマさんも「あんたとお嬢ちゃんがそう言うのなら」と、ノートを引き取ってくれたのだ。
そう。
深身先生の言う通り、私は世間的に見れば、「やんごとなき血筋」に多少なりとも連なる身だ。
祖母が先代の「陛下」と呼ばれる人の姪に当たるらしい。
つまり現在の「陛下」は私にとってみれば祖母の従兄弟、いとこおおおじ、とかなんとか呼ぶことになる、ちょっと離れた親戚(六親等らしい)だという。とはいえ「陛下」の姪、それも二世代も前の皇族が一般人に嫁いだ話など、今の人たちはほとんど知らないはずだ。
かく言う私自身も、この事実を知ったのは中学生になってからのことだった。学校の帰りに突然、週刊誌記者だと名乗る怪しげな中年男性が声をかけてきたのだ。父が追い返してくれて事無きを得たけれど、直後に私は自分の血筋を知った。知らされた。
もっとも本人としては、「ふーん」という感じしかしなかったし、家が仏教ではなく神道ということや、やたらと豪華な両親の結婚写真とかにも子供の頃から馴染んでいたので、まったくと言っていいほど気にならなかった。もちろん今でも気にはしていない。
でも、周囲が違った。
どこからかそのことを知った周りの人たちが急に、線を一本引いたような、腫れ物に触るような態度を示し始めたのだ。仲良しだと思っていた同級生ですら例外でなかったときは、驚くと同時にとてもショックだった。
彼ら、彼女らにとっていつの間にか私は、「もえちゃん」ではなく「もえこさん」になっていた。
早坂萌子。それが私の、戸籍上の名前になる。
皇室の血を引く身ならではの「○○子」という名前。世が世なら、萌子親王。萌子様。
けどそうじゃなく、そんな存在じゃなく、「もえ」でいたかった。「もえ」になりたかった。みんなと同じ普通の女の子、普通の学生の「早坂もえ」に。
だから私が戸籍上の名をみずから口にすることは、ほとんどない。
三島由紀夫ではないけれど、私も本名が少しだけ重いのだ。
「先生も、そうなんですか」
「え?」
ああ、と遅れて自覚した。なんだか私、動揺してる。ていうか、ちょっといらいらしてる。嫌だと思う気持ちが止められない。
私の本当の名前を、血筋を、深身先生に知られてしまったことが。
「先生も、私のこと――」
この人も私のことを、「もえこさん」と呼ぶようになってしまうのだろうか。いつもの呼ばれ方にたった一文字、平仮名一つ入るだけなのに、距離がとても遠くなってしまうような気がする。とても離れてしまう気がする。
そんなの嫌だ。凄く嫌だ。
へらへらしてて、マイペースで、天然で、コーヒーを淹れるのが得意なちょっと変人の大学講師。悔しいけど黙っていれば少しだけハンサムで、本当はとても優しい『フィットネス・ハンター』。私の雇い主。私の先生。
この人に、「もえこさん」なんて呼んで欲しくない。
なのに。
口から勝手に出てきたのは、ヒステリックな声だった。
「――私のこと、普通に見てくれないんですか? 皇族の血を引いてるから? 本名が萌子だから? だから私に近づいたんですか?」
「もえさん?」
「アキレス腱が綺麗とか、胸が美しいとか適当なこと言って近づいて、本当は先生も私のことを何か記事にしようとしてるんですか!? あんなに美味しいコーヒー淹れてくれるのに。お父さんにだって会ってくれたのに!」
喋っているうちに興奮してきて、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。
「だったらもういいです! 私の近くにいたって、なんにも出ませんから!」
「いや、僕は――」
「私は、もえです。早坂もえなんです!」
駅の近くまできていたので、夜中とはいえ人通りはそれなりにある。周囲の冷やかすような視線が痛い。うつむいた私は、そのまま踵を返して逃げ出した。
いつだったかも深身先生の前から逃げ出したことがあったっけ、と思い出したのは、改札を駆け抜けて逆方向の電車に飛び乗ってしまったあとだった。




