第31話 紋様
「はい。そのご令嬢はのちに皇族となられたのですが、宮内庁としては当然、ご本人の過去のお見合い歴についても調べたはずです」
不敬に当たらないだろうか。ひやひやし始めた私に構わず、先生はことの経緯を語り続けてくれる。
「さっき言ったように真偽のほどは定かではありませんし、仮にお見合いの件が事実だとしても、それをきっかけに三島由紀夫と交際していた、などという話でもありませんから特段大きな問題ではありません」
言葉を切った深身先生は、表情を隠すようにして縁なし眼鏡を持ち上げ、続けた。
「われわれ国民にとっては、ね」
ああ、そういうことか、と納得する。たしかに、あの方がご結婚前に誰とお見合いをしていたかなど、私たち一般国民にとってはさほど気にする話でもない。ましてや今は、隠居と言ったら失礼だけど、かつてのポジションからは退位されている身だ。それにあれだけチャーミングな人なら、若い頃はお見合いの話など掃いて捨てるほどあったのではないだろうか。
だが宮内庁としては、大いに気になるらしい。特に昨今は、心ないメディアによる皇族バッシングも増えている。やっかいごとの芽は早めに摘んでおくに越したことはない、という訳だろう。
すると深身先生は、いたずらっぽく笑った。
「もえさんは、皇族の方々がパーソナルトレーナーをつけて運動に励んでおられることを、知っていますか?」
「え? そうなんですか?」
「はい。じつは僕の知人のトレーナーも、皇族の方をお一人クライアントに抱えているのですが、お忙しい公務の合間を縫って、というか公務がお忙しいからこそ熱心に身体を鍛える方も多いんだそうです」
「へえ」
「これはあくまでも僕の推測ですが、三島由紀夫とお見合いをされたやんごとなき方も、運動がお好きなのかもしれませんね」
「ご令嬢」や「やんごとなき方」と、まわりくどい呼称を先生は崩さない。
「そしてトレーニングを続けるうちに、ノートをつけることの有用性に気づいたのかもしれない。同時にむかしの記憶も甦った。数十年前、かつてお見合いをした有名作家がボディビルダーであったことや、彼がトレーニングノートを簡単な日記帳代わりにしている、と語っていた記憶が」
「それを知った宮内庁が、お見合いの証拠になりそうなこのノートを手に入れようとした?」
「あくまでも僕の推測ですけどね」
推測だとは言っているが、つまりはそういうことだろう。
三島由紀夫が当時通っていたジムが、現在の『クロキ・スポーツクラブ』であることなどは、宮内庁でなくとも調べればすぐにわかるはずだ。遺品や遺族を当たっても何も出てこなかったために、必然的にここにノートがあるのでは、という考えに至ったのかもしれない。
「じゃがさすがに、宮内庁直々に出張るわけにもいかんから、その筋では名高い『フィットネス・ハンター』さんに依頼があった、という話みたいでな」
「ええ。そしてつい一昨日、まさにそのノートを引きって欲しいというご依頼が、玉置オーナーからあった次第で。まるでタイミングを見計らったみたいに」
タマさんと深身先生は笑い合っている。
「どうも『こざくら会』と『円盤研究会』の二人が、ちょろちょろと良からぬことを企み始めているようじゃったからの。お嬢ちゃんも仲間に引き入れようとしておったし、奴らがノートの存在に気づく前に、平岡さんの言葉通り相応しい人に渡してもらおうと思ったんじゃ。この手のお宝の仲介役もやっているという、『フィットネス・ハンター』さんの噂を思い出してな」
なるほど、と私は重ねて納得させられた。だから深身先生は、今日ここに現われたのだ。
「そうしたら深身さんは正直に、宮内庁からも依頼があったことや、向こうが万が一、お見合い歴ごときを気にするケツの穴の小さい連中だったとしたら、貴重な平岡さんのノートが処分されてしまう可能性すらある、と教えてくれたんじゃよ」
「ええっと……つまり先生は今回、ノートを探す側と持っている側の、両方から依頼を受けたってことですね?」
宮内庁だろうがなんだろうが、「ケツの穴の小さい連中」などと切って捨てるタマさんの姿に笑ってしまいそうになりながら、私はあらためて確認した。
「ええ。たまたまですけどね。非常に珍しいケースです」
そりゃあ珍しいだろう。しかし仮にも国家機関である宮内庁の思惑を見破って、あっさりとタマさんに真実を伝えるとは。へらへらしているように見えて、意外と肝が据わっている人なのかもしれない。何より、優しいんだな、と思う。相手が誰であろうと、「やんごとなき方」の過去やプライベートを、そっと守ろうとしているのだから。
あ。ていうか――。
深身先生をちょっぴり(本当にちょっぴりだ)見直しかけたところで、私はまだ事件が完全に終わっていないことを思い出した。
無事手に入ったのはいいけど、先生は結局、このノートをどうするつもりなのだろう。タマさんが希望する通りいったん深身事務所で預かって、三島由紀夫の言う「相応しい人」とやらを探すつもりだろうか。
あれこれ勝手に心配していると、深身先生がひょいと尋ねてきた。
「ところでもえさん、これ、いります?」
「は?」
その手には、つい今しがたまで熱心に解説していたノートが揺れている。
「いやあ。ここまで言っておいてなんですが、これが本当に三島由紀夫が記したトレーニングノートだっていう証拠なんて、どこにもありませんから」
「はあ!?」
いきなり何を言い出すのだ、この人は。しかもなぜか、わざとらしいことこの上ない口調になっているし。
「だって、玉置さんが受け取ったという経緯も作り話だと言われれば、それまでですし。そうなると、ただの古いノートに過ぎませんしねえ」
「先生、何言ってるんです?」
「どうです? それでも欲しいですか?」
当たり前だが、私はきっぱりと断った。
「い、いりませんよ。いるわけありません!」
「ですよねえ」
お得意のへらりとした笑顔で返した先生が、今度はタマさんのほうを振り返る。
「というわけで玉置さん。こちらのノートですが、残念ながら真贋は怪しいですし、我々がお引き取りすることはできません。玉置さんの物として、どうぞ引き続き大切になさってください」
「……いいのか?」
怪訝な顔をすると思っていたのに、意外にもタマさんは「そうきたか」とでもいうような苦笑を浮かべている。
「ええ、もちろんです。宮内庁には、探したけどどうしてもなかった、と言い張って納得してもらいますよ。まさか命までは取られないでしょうし。結構大口の依頼だったので、貧乏事務所としては残念ですけど。ははは」
「ふむ。あんたとお嬢ちゃんがそう言うのなら、それが一番なのじゃろうな」
「ええ」
「わかった。では、そうさせてもらうかの」
頷いたタマさんは、笑いじわをさらに深くして続けた。
「しかしなんじゃな。あんたはこう、つかみどころがないように見えて、なかなか優しいのう」
よくわからないけど、私と同じ印象を抱いてくれたらしい。
「ありがとうございます。どちらかというと、変わり者と言われますけどね」
うん。助手としても、むしろそっちに同意する。
「何はともあれ、ご依頼ありがとうございました。また何かございましたら、深身事務所までお気軽にご連絡ください」
にこやかに返した深身先生が、両手で差し出すノート。
その表紙に描かれていたのは、見事な菊の紋様だった。




