第30話 Mさん
「なんとか一段落、じゃな」
にっこり笑うタマさんの表情も、玉置オーナーではなく私のよく知る「用務員のタマさん」に戻っている。
「ほれ、しっかりあらためてくれ」
片手に持ったままだった件のノートを、タマさんがひょいと差し出す。「ありがとうございます。失礼します」と一礼して受け取った深身先生は、丁寧にページをめくり始めた。いつの間にか、テレビドラマで刑事がつけるような白い手袋を嵌めている。
三島由紀夫のトレーニングノートだというそれは、一見なんの変哲もない古びた大学ノートだった。多少黄ばみはあるものの状態も良さそうで、先生の手がなかをあらためてゆく。
隣でその様子を眺めていた私は、あることに気がついた。
なんの絵かしら、これ?
よく見ると、表紙に何かのイラストが描かれている。花の絵だろうか。下から覗き込んで、もっとよく確かめようかとも思ったが、作業が終わるまで我慢することにした。
「なるほど。やはり、そういうことでしたか」
しばらくページをめくっていた深身先生が、真ん中あたりまできたところで小さく呟いた。いつもの微笑も若干小さくなって、眼鏡の奥の瞳に光が増している感じだ。
「先生、そういうことって?」
問いかけた私に対して、ノートをくるりとひっくり返し、ページがよく見えるようにしてくれる。
そこには細かくも力強い文字で、「ベンチプレス 七十/一〇 八十/一〇 九十/八 八十/一○」といったように、トレーニング種目と、おそらくは重量と回数であろう数字がびっしりと書き綴られていた。
どうやら三島由紀夫は、ボディビルダーらしく本当に熱心にトレーニング記録をつけていたようだ。これだけでも、文学的にかなり貴重な資料だろう。
感心した私だったが、余白にも何かの文字が記されているのを発見した。こちらは文章になっている。その日行ったトレーニングの所感か何かだろうか。
違った。
顔を近づけてみると、記されていたのはトレーニングとはなんの関係もなさそうなコメントの数々だった。
《Mさんは今日も美しかった》
《Mさんにいつか、この身体を見せる日がくるのだろうか》
《Mさんと歌舞伎を観に行きたい。銀座はお嫌いではないだろうか》
「Mさん?」
文面から推測するに、憧れの女性への想いを書き綴っているような内容だ。結婚する前の奥さんのことだろうか。
「そういうわけなんじゃ」
私の後ろにいたタマさんが、深身先生に向かって頷いている。
そして、続けた。
「宮内庁があんたにこれの捜索を頼んだのは、そういうわけなんじゃよ」
「ふぇ!?」
久しぶりに妙な声が出た。
「宮内庁!?」
「ええ。他言無用とのことでしたが、ここまでくればもういいでしょう。すみませんでした、もえさん。ずっと黙っていて」
眉をハの字にして、申し訳なさそうな笑顔とともに深身先生が教えてくれたのは、驚くべき事実だった。
「今回のクライアントは宮内庁なんです。真偽のほどは定かではありませんが、ボディビルに取り組み始めて間もない一九五六、七年頃、まだ独身だった三島由紀夫は、とある大企業の御令嬢とお見合いをしたのでは、という噂があるんです。Mさんという女性が、そのお相手だと言われています」
「Mさん、ですか」
三島由紀夫と同世代。大企業の令嬢。宮内庁。そしてイニシャルが、M。
「まきこ、みき、み……え? ええっ!?」
連想されるのは、一人しかいなかった。




