第24話 タマさん
カレンさんと山川さんの協力も取り付けたとはいえ、その後二週間ほど経っても、三島由紀夫のノート探しはまるで進展しなかった。
クラブの勝手もわかってきた最近は、営業終了後に忘れ物がないかチェックするふりをしながら、ボイラー室や事務所の棚の上など何かが隠されていそうな場所を調べたりもしている。けれども残念ながら、ノートどころかメモ用紙一つ出てこないのが現状である。
ちなみに、チーフの二人にだけは本来の目的を打ち明けさせてもらったと深身先生に報告したら、少しだけ驚いたような顔をしつつも「まあ、もえさんが無事ならどんな手を使ってもいいですよ」と、心配してくれているのかいないのかわからないリアクションが、へらりと返ってきただけだった。
……というか「どんな手を使っても」って、私はテロリストか何かか。
さいわい大元のクライアントさんは、「とりあえず半年ほど調査を」と言ってくれているそうなので、まだまだ焦る必要もない。とはいえ、やはり少しでも収穫が欲しいところだ。
そんなことを考えながら、私は銀色のシャフトにバーベルプレートをセットした。
今日は遅番で掃除も早く終わったので、営業終了後、誰もいないジムで自主トレさせてもらっているのだった。館内にはもう、タマさんくらいしか残っていないはずだ。
「よっ! ……と」
大きな鏡の前で、スクワットと並ぶ得意種目であるウエイトリフティングの動きを繰り返していると、バーベルを降ろした瞬間、そのタマさんの声がした。
「ほう、見事なもんじゃな」
「あ、お疲れ様です。すいません、もう戸締まりしちゃいますか?」
いつもの道具袋を腰にぶら下げて、軍手姿のタマさんが腰に手を当て笑っていた。
「いやいや、まだ大丈夫じゃよ。なんか帰りがけに筋肉オカマが、チェストプレスから音がする、とか言っとったからな。今日のうちにと思って、わしもメンテしにきたんじゃ」
「ああ。ありがとうございます」
夕方頃、複数の会員さんがその件を教えてくれたので、私が山川さんに報告したのだった。
チェストプレスというのは、簡単に言えば座ったままベンチプレスをするようなトレーニングマシンで、胸や肩を安全に鍛えることができるため人気がある。当然使用頻度も高くなるから、どこか不具合が出ているのかもしれない。まあなんにせよ、タマさんに任せておけば安心だ。
「それにしてもお嬢ちゃん、綺麗なクリーン&ジャークをするな」
「ありがとうございます。……って、タマさん、トレーニングも詳しいんですか?」
意外だった。飄々としているし体格も大きくないタマさんの口から、「クリーン&ジャーク」なんて単語が出てくるとは。
クリーン&ジャークというのはウエイトリフティング技術の一つで、床に置いたバーベルを手首を返すようにして一気に肩口まで担ぎ、さらにそのまま頭上へと差し上げる持ち挙げ方である。美しい姿勢を保ちつつ下半身の力も上手に使う必要があるので、ジャンプ力などの強化はもちろん、軽い重さで行えば一般人でもいいエクササイズになるらしい。
ただ、当然ながら覚えるには練習が必要だし、そもそもウエイトリフティングができる人から指導を受ける必要がある。普通のフィットネスクラブでやっている人など稀で、ましてや女子大生でこんな芸当ができてしまうのは、運動部員でも少数派だろう。
幸か不幸か、自身もトレーニング好きな父から〝東洋の力業師〟が愛用していたというあのバーベルで面白おかしく教え込まれた私は、軽い重量しか扱えないものの、至って教科書的なウエイトリフティング技術を身に付けてしまっているのだった。
ついでに言えば、それを見た部活のチームメイトからは「ウエイト姫」などという、まったくありがたくないニックネームまで頂戴している。
「こう見えてわしも、学生時代は重量挙げをやっとったんじゃよ」
「そうなんですか!?」
「他にも、ボディビルをやっとる仲間や知り合いも沢山おってな。二つ上の兄貴なんぞは、結構凄かったぞ」
「へえ」
どうやらタマさんは、若い頃かなり「鳴らした」口のようだ。ぱっと見、そんな風には決して見えないけど。
少々失礼な私の感想を見抜いたのだろうか、面白そうな声でタマさんが尋ねてきた。
「お嬢ちゃん、あと何セットじゃ?」
「クリーン&ジャークですか? いえ、トレーニングっていうより、遊び感覚で久しぶりにやってただけです」
遊びでウエイトリフティングという女子も我ながらどうかと思うが、そこはまあ、育ちが育ちだし勘弁して欲しい。
「じゃあ、わしもやっていいかの」
「え?」
何を? と確認する間もなく、笑顔のまま近付いてきたタマさんは、バーベルの重さを確認している。
「ふむ。トータルで三十五キロか。わしも久しぶりじゃが、ま、いけるじゃろ」
そう呟くと、「どれ、一回やらせておくれ」ともう一度言って、床に置かれたバーベルに向かってひょいとしゃがみ込んだ。
「た、タマさん、大丈夫ですか?」
「何がじゃ?」
「いや、あの、それでウエイトリフティング、するんですよね?」
もはや言わずもがなのことを、私はあらためて確認してしまった。だがタマさんは、7.5kgと掘り込まれたプレートが両側に付いたシャフトを、楽しそうにくるくると回している。両手にはめていた軍手も、いつの間にか外して。
「もちろんじゃ。ああ、でもお嬢ちゃんがクリーン&ジャークじゃったから、わしはスナッチでいくかの」
「ええっ!?」
「スナッチ」とは同じくウエイトリフティングの技術で、バーベルを一気に頭上に差し挙げる方法だ。こちらも慣れないと難しいことは言うまでもない。かつては鳴らしたみたいだけど、おそらくは七十歳を超えた身でいきなりやって大丈夫だろうか。
心配する私を右手一本で下がらせると、タマさんはにやりと笑った。
「なんじゃお嬢ちゃん、心配しとるのか? わしのスナッチ自己ベストは、八十五キロだぞ」
「それって、何十年前の話――」
ですか、とつっこむ間もなかった。
「!?」
笑顔のまま予告もなしに持ち上げられたバーベルは、一瞬、時が止まったような錯覚を起こすほど素早く、かつ「ふわり」という表現がぴったりの優雅な軌道を通って、あっという間にタマさんの頭上へと差し挙げられていた。足音一つ鳴らない、美しいスクワットの姿勢とともに。
「…………」
言葉を失った私は、自分のほうこそ時間を止められたようになってしまった。




