第18話 スポーツ共和国
「……これ、私もやるんですか?」
「あらやだ。もえちゃんが、やりたいって言ったんでしょ? ほら、さっさとバーベルまたいでちょうだいな」
「は、はあ」
なんとか山川さんの口を塞ぐことに成功した私だったが、その理由に使わせてもらった「ジェファーソン・スクワット」なるエクササイズのお手本を目にして、またしても顔が引きつらせていた。
「ほんとにこれで合ってます?」
「そうよ。十九世紀の終わり頃に活躍したボディビルダー、チャールズ・ジェファーソン先生が開発した由緒正しいエクササイズなんだから。スクワットっていうよりデッドリフトに近いから、ジェファーソン・リフトっていう名前でも知られてるけどね」
自称「Gカップサイズ」、といってもカップどころか全体が分厚い胸を張って、山川さんは楽しそうに解説を始めた。その股ぐらにはなぜか大きなバーベルが通されており、身体の前後でシャフトを掴んだ体勢のまま、嬉々としてスクワット動作を繰り返している。「ジェファーソン先生」なんてこれまた嬉しそうに呼んでいるけど、十九世紀のボディビルダーに会ったことなんてないはずだ。
「お股の間にバーベルを通すことで、スタンスが広がるから内転筋にも効かせやすいの。それに後ろ手にもシャフトを握るから、上体が起こせていいフォームを取りやすいのよ。これならもえちゃんのおっぱいも、少しは大きく見え――」
「ストップ!」
「?」
相変わらず悪気はまったくないらしいのが、逆に困る。
「わかりました! やります! ジェファーソン・スクワットでも山川さんリフトでも、なんでもやりますっ!」
ジム内で、これ以上余計なことを言い出されてはかなわない。なかばやけくそで、私も並んでバーベル(といっても、こちらはシャフトだけだが)をまたぎ、体の前後で手に取ってみた。
断っておくが決して、胸が大きく見えるという部分に可能性に反応したわけではない。多分。
「よいしょっ……と。こうですか?」
「そうそう! さすがもえちゃん、テクニシャンね。初めてなのに、かなり上手よ」
例によってなんだか微妙な台詞だが、フォームとしてはいい感じらしい。
「お好みで、もうちょっと脚開いてもいいわよ? どう? おっぴろげてみる?」
「え、遠慮しときます」
さすがに山川さんのように、がばっと両脚を広げるのは恥ずかしい。とはいえ、たしかに鏡に映る私のジェファーソン・スクワットはなかなか様になっていた。
なるほど。
どんなエクササイズでも、猫背になってしまう人は意外と多い。私自身はさすがにそんなことはないけど、トレーニング慣れしている人間にとっても、特にスクワットや、床からバーベルを持ち上げるデッドリフトというエクササイズをする際の「チェストアップ」、つまり胸を張る姿勢というのは大切なポイントだ。
そうすることによって腰への負担を減らせるし、少し出っ尻気味の姿勢にもなるので、大殿筋というお尻の筋肉までしっかり鍛えることができる。ついでに言えば、この格好はジャンプからの着地や対人動作の構えなど、ほとんどのスポーツ動作において基本となる姿勢でもある。
「スクワットは〝キング・オブ・エクササイズ〟、エクササイズの王様だからな。覚えちまえば一生もんだ。綺麗なスクワットができる女はもてるぞ、もえ」
などと、後半に関しては到底信じられない煽り文句を並べてくる父に、私も高校生のとき、しっかり教え込まれてしまった。その勢いでウエイトリフティング技術まで習得してしまったのは、今となっては不覚としか言いようがないけれど。
「でもジェファーソン・スクワットができるバイトの子なんて、ひょっとしたら日本中のフィットネスクラブで、もえちゃんだけかもよ」
「そ、そうですか」
喜んでもいいはずなのに、やはり複雑な気分である。
「会員さんに聞かれたら、しっかり見本を見せて教えてあげてね」
「はあ」
そもそも普通のフィットネスクラブで、どう見てもアルバイトの女性スタッフに「ジェファーソン・スクワット、教えてください」などと言ってくる人が、果たしてどれだけいるのだろうか。
リアクションに困っている私を見ながら、山川さんのほうは相変わらず楽しそうな顔をしている。
「でもほんとに嬉しいわ。もえちゃんみたいな子が入ってきてくれて。会員さんともすぐに仲良くなってくれたし、何よりも初心者の人に優しいし」
その眼差しが遠くを見るような、ちょっとだけ真剣な色を帯びていることに気づいた。
「フィットネスクラブって、本来はそういう場所なのよ。誰でも自由にブラリと入れて、僅少の会費で会員になれる。夜も十時ぐらいまでは開いていて好きなスポーツが、運動が気楽に楽しめる。コーチやトレーナーが会員さんの運動経験の多少に応じて懇切に指導し、初心者同士を組み合せて、おたがいの引込み思案を取り除いたりする。そこでは選ばれた人たちだけが美技を見せるのではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会があたえられる。こういう、言わば〝スポーツ共和国〟みたいな場所」
「山川さん……」
らしくない、と言っては失礼だが、急にお堅い、しかも言葉遣いまで知的な感じの台詞を発する姿を、私はぽかんと見つめてしまった。
カミングアウトしまくりのゲイだし、人のコンプレックスを無邪気に刺激してくれてばかりの人だけど、フィットネスクラブの社員、それもチーフ・トレーナーらしく、みずからの職場については確固とした想いがあるのだろう。
なんだか嬉しくなった私は、「そうですよね! 私も頑張ります」と笑顔で頷いた。ただし鏡に映る自分の姿は、広げた股の間にバーベルシャフトを通した、なんとも締まらない体勢のままである。
顔を赤らめながら慌ててシャフトを降ろしたところで、いつもの表情に戻った山川さんが、自分のバーベルを指差して聞いてくる。
「あら、もういいの? プレートは?」
「いえいえ、大丈夫です」
首を振って、即座に遠慮しておいた。
「ていうか、UFOを捕まえたみたい……」
思わずつぶやいてしまった通り、山川さんのバーベルはシャフトの先端に十五キロ、十キロ、五キロと大きい順にプレートが三枚、さらにはカラーと呼ばれるストッパーもついていて、まるで手槍で未確認飛行物体を突き刺したような形をしている。
合計八十五キロ。ただ、この人の筋力ならやり投げでUFOを打ち落とすぐらい、本当にできてしまうかもしれない。
「あ! それよ、もえちゃん! 忘れてたわ!」
「はい!?」
突然パチンと手を叩かれた私は、頓狂な声を上げてしまった。
「なんのことですか?」
目を丸くしたまま聞くと、山川さんはうんうんと頷きながら、その空飛ぶ円盤状のバーベルをもう一度指差してみせた。
「UFOよ! 空飛ぶ円盤よ! さすがもえちゃん、やっぱりあたしの後継者だわ」
いつの間にか秘蔵っ子から後継者に格上げされているが、とりあえず置いておく。どうやら、さっきのつぶやきが聞こえていたらしい。
「もえちゃん」
「は、はい」
自分と同じように(というのも悲しいのだけど)、バーベルによる豆ができている掌で、私の両肩がガシッとつかまれる。
「UFO、見てみたくない?」




